プロローグ-邂逅-
それは、さながら舞踏だった。
ネオン煌めく夜の路上で繰り広げられる、早回しをしているかのような超高速バトル。闘っているのは、嘴付きの所謂ペスト仮面を被った法衣服の者たちと、真紅のフラメンコ衣裳を纏った一人の少女だ。
ペスト仮面たちは不可視のスピードで片手剣を振るう。少女は腰まであるブロンドの髪を靡かせ、曲芸じみた動きで斬撃を躱す――否、紙一重のところで躱し切れていなかった。ミルク色の肌には幾筋もの裂傷が刻まれ、血が滴っている。
(Eins,Zwei,Drei……あと五人か)
劣勢ながら、少女の紅い瞳は光を失っていない。
力を溜め、必殺の一撃を狙っているのだ。
――ィン!
少女の鼻先で、銀光が閃く。
(まだ、もう少し……)
やがて、内なる力が充実するのを少女は感じた。一転攻勢の時だ。
少女はグッと拳を握る。掌に爪を思いきり食い込ませる。
そして、横っ跳びで人気のない路地へと跳躍する。
「Vampiristisch Tutor!」
少女は唱える。それは、とっておきの能力。両腕を交差させてから薙ぎ払い、掌から滴る血の雫を、追ってきたペスト仮面たちに叩きつける!
「Oh je」
少女が呟いた途端、ペスト仮面たちが爆ぜた。
爆風で少女も路地の奥へと吹っ飛ばされる。受け身もとれずに転がり、蓋付きのポリバケツ群にストライクをかます。
ようやく慣性のパワーから解放されたとき、少女は襤褸布のようになっていた。ドレスはズタズタに切り刻まれ、所々焼け焦げている。自慢の長い金髪もチリチリ、どころか魚の骨まで絡みついて前衛的なアレンジメントに。
「Mann! 実に不愉快だわ」
コンクリートの壁に寄り添って、少女は立ち上がる。
顔を上げると、追手はいなくなっていた。たぶん消し炭になったのだろう。
「弁償させてから殺すべきだった」
次の刺客にはゼッタイ連帯責任とらせてやる、なんて恨み言を吐きながら、少女は独り路地を往く。喋り続けるのは途切れそうな意識を繋ぎ止めるためだ。耳鳴りは治まらず、視界はハレーションを起こし、心身共に限界を超えている。
(前へ、前へ)
ヒールの折れた靴はとうに捨てており、少女は素足である。ガラス片を踏んでしまったのか、いつのまにか足の裏は真っ赤だ。一歩踏み出すたび鈍痛が走る。それでも少女は歩みを止めない。
「――!」
不意に背後から気配を感じ、少女は弾かれたようにその身を翻す。
「ほう、勘はいい」
ネオン光を背に、一人の男が佇んでいる。金髪碧眼にして中肉中背。年齢は三十代半ばといったところか。ペスト仮面こそ被っていないが、黒い法衣と携えた十字剣が刺客であることを物語っている。
「苦戦した様子だが、オレの放った部下たちも倒したようだし……まずは合格だよ。吸血鬼エリス」
「あなたに褒められても全っ然嬉しくないわね」
閉じてしまいそうな瞼を持ち上げ、猫背になってしまいそうな姿勢を正し、少女――エリスは戦闘に備える。
「あたしが褒められたいのは、世界でただ一人。トヨタローだけよ」
「トヨタロ……耳にしたことのない名だ。しかし、吸血鬼に与するならば、いかなる者であろうとも滅却する」
薄ら笑いを浮かべたまま、流麗な所作で男が抜剣する。
「それが我々『教会』だ」
「あなたが何者だろうと、あたしには勝てない」
「どうかな?」
男は、懐から小さなガラス瓶を取り出す。その蓋を指で弾き飛ばすと、中身の無色透明な液体を刀身へと注ぐ。
ィイイイイ――!
細身の十字剣は青白いコロイド光を発し、妖しげに哭く。
「宝剣セイレーンは、聖水を塗すことで真価を発揮する」
「いくらか切れ味が良くなったところで、当たらなきゃ意味ないわ」
人差し指の皮膚をエリスは噛み千切る。迸った血はうねる炎となり、彼女の肘辺りまでを呑み込む。エリスは、火槍と化した右腕を掲げる。その爪先で男を射抜くように。呼応して、男も十字剣を中段に構える。
十数秒か、数十秒か、静止したまま時が経つ。先に仕掛けた方がカウンターを取られることを、両者とも本能的に感じ取っているのだ。
でも、いつまでも膠着してはいられない。――吸血鬼エリスは思う。
血を炎に変えるこの能力を発現し続けることは、失血し続けることに等しい。明らかに持久戦には向かない技だ。だからといって、持久戦に切り替えて力を溜めている余裕もなさそうだ。牽制を欠いた時点で瞬殺される予感がする。
こうなったら、相手の予測を上回るスピードで先制攻撃っ!
エリスは賭けに出る。
(Vampiristisch Tutor!)
刹那、エリスの足裏が炸裂した。表面の血を小さく爆発させたのだ。それは推進力となり、男との距離を一瞬で縮める。
「はあああああああああッ!!」
突き出された炎の指先は、男の肩口を捉え、左半身を吹き飛ばす。はずだった。
超高速で流れる景色の中、男の姿がエリスの視界から消える。
――そして、銀光が閃く――
攻撃が交差し、両者の立ち位置が逆転した時、エリスは右腕を失っていた。
遅れて、宙を舞っていた彼女の腕がボトリと路地に墜ちる。
「その程度の加速でオレを仕留めようとは。浅はかだな」
「……あなた、本当に人間なの?」
「さて、ね。そもそもドーピングまみれの神父たちが人間と呼べるかどうか……ん?」
男が飄々と語っている最中、エリスは再び足裏を炸裂させる。
「不意打ちとは気品のないっ!」
雷光の如き速度で放たれる、男の斬撃。避けること叶わず逆袈裟に切り裂かれる。左の脇腹から右肩にかけて灼熱感が走る。
「かふっ……」
前のめりに倒れたエリスを尻目に、男は剣を一振りする。聖水が飛沫を上げ、刀身に付着した吸血鬼の血を洗い流す。腰に提げた鞘へ納刀すると、キン、と小気味の良い金属音が鳴った。
「さて、まだ死んではいないだろう? 吸血鬼エリス」
「分かっているなら、なぜトドメを刺さない……」
「さて、ね」
その時、路地に新たな足音が響く。
現れたのは、僧服に身を包んだ若いシスター。
大きな瓶底眼鏡をかけたドジそうな娘である。
「同志、シスターメランコリン……ようやく追いついたか」
「はひっ! シスターメランコリン、ただいま到着しました~!」
シスターは大袈裟に敬礼して続ける。
「それで、神父ローニン=フィレンツェ。吸血鬼のほうは?」
「済んだ」
「そうでありますか♪ では、死体の回収を」
「その必要はない」
……?
「あの、ローニン神父、しかしですね……」
「必要はない、と言ったのだ。行くぞ」
「は、はひっ!」
足音が遠ざかっていくのを、ぼんやりとエリスは聴いていた。
その足音も、やがて雨音によって掻き消される。いつのまにか土砂降りだ。
(どうして、奴はトドメを刺さなかった?)
教会の過激派にとって吸血鬼は仇敵だ。見逃すメリットなどあるはずがない。
「いや、今はそんなこと、どうだっていい」
降りつける雨粒に抗ってエリスは立ち上がる。
「せっかく拾った命だ。生き延びるンだ。生き延びて、泥水を啜ってでも生き延びて……逢いにいくんだ……トヨタローに!」
冷たいコンクリート壁に身体を預け、一歩ずつ歩いていく。
路地にはただ、血痕だけが尾を引いていった。
§
「おつかれ、豊太郎」
頭上からかけられた労いに、ぼくは微睡みから脱する。
「ああ……オツカレ」
机に突っ伏した顔をずらし、眼球だけで辛うじて声の主を捕捉する。そこには、隣席の住人・秋津慎二の姿があった。教室内の通路スペースをはさんだ向かい――自分の机に腰掛けている。隣席の住人とはコイツの二つ名で、ぼくが勝手につけた。私立・美翔高校に入学してから二年間、慎二とは常に同じクラスかつ隣席同士なのだ。たぶん呪いだ。
「ところで慎二」
「なんじゃらほい」
「隣の席なら、起こしてやるのが心遣いとは思わないか?」
美翔高校は県内有数のウルトラ進学校である。
「本日最後の授業だ。そっとしといてやるのも立派な心遣いだぞ」
言って、慎二はノートをぼくの頭に乗せる。貸してくれるらしい。
みそ高(美翔高校の通称)の時間割は8限目まであり、ラストの教科ともなれば困憊がデフォルトだ。
「なるほど一理ある……ところで慎二」
「今度は何」
「傘、二本持ってない?」
外を見ずとも、窓を打つ音を聴けば分かる。土砂降りだ。
水不足な我が県……夏場であればダムが潤うため感謝するところだが、桜が八分咲きしている今、土砂降られても嬉しさ皆無。
「二本も傘持って来るわけないだろ。宮本武蔵ごっこしたいときだけさ」
「だよな。いや、ちょっと待てお前」
「素直に言うンだな、『ステキな慎二くんの傘に入りたいの♡』ってな!」
慎二は自らを抱き締め、奇妙に全身をクネらせる。
「死んでもゴメンだわ」
――ざああっ!
ぼくが呟いた瞬間、雨は一層強さを増した。
どうやら神はぼくの敵だ。
「さあさあ、どうする?」
「……」
結局、その屈辱的な台詞をぼくは吐く羽目になった。慎二のヤローは満足したらしく「次の機会はメイド服でたのむ」とわけの分からないことを言っていた。
ぼくと慎二は、他の学生に紛れて昇降口へ。激しい雨が降りつける校庭に飛び出し、駆け足で通学路を逆行する。案の定、慎二のコンビニ傘では野郎二人分の面積をカバーできず、お互い身体の半分はびしょ濡れだ。
「どーせこうなるなら、折れるンじゃなかった」
「ないよりマシだろ。我慢しろ」
「ぼく短気」
ウープス。ホーリシット。悪態をついているうち、踏切に差しかかる。すでに遮断機は下りてしまい、ぼくたちは社会のルールに待たされる。
ここを越えれば、我が家はすぐそこだ。
帰ったらソッコーで熱いシャワーを浴びよう。
(……おや?)
予讃線の名ばかり快速電車が通過する寸前、ぼくはふと、視界の端にシスター(といってもマイシスターのことではなく教会のそれ)を見た気がした。
珍しいな……外人っぽかったし。
「豊太郎。おい豊太郎っ!」
んぁ。
「遮断機上がったぞ」
「本当だ」
「おいおい大丈夫か?」
「ちょっとボーッとしてた……じゃ、また明日な」
「家まで送ってこうか」
ばーか。この遮断機まででも譲歩してるだろお前。
ちょっと方向違うだろ。
「カノジョでもできたら、したれ」
「ん。じゃあな」
「おう」
別れを告げ、ぼくは傘から脱出する。当然モロ濡れになるが、自宅までそれほど距離はない。通学鞄を雨避けにしてダッシュを試みる。五〇メートル走・八秒台の健脚は伊達ではない。普通ですねハイ。
「帰宅っ!」
門を開け、ぼくは彼の地、森山家の玄関先にたどり着く。
気分はもうメロス化していた。
「……え。あれ?」
一瞬、間違って隣の家に入ってしまったのかと思った。
玄関先には、見知らぬ少女がうずくまっていたのだ。膝を抱え込んで。
「……」
少女はゆっくり顔を上げ、ぼくと視線がかち合う。
――かわいい――
正直、ぼくは思った。
あどけなさの残る顔立ちに、濡れたブロンドの髪。瞳はルビーのようで吸い込まれそうな神秘性を宿している。その身を包んでいる襤褸襤褸な紅いドレスも、どこか背徳的な美しさがある。
「ってキミ、血まみれじゃないか!」
そこで、ぼくはようやく理解する。彼女の紅さは、瞳やドレスの色だけではないことに。
「よ、よく見りゃ右腕もげてるし……そうだ、救急車!」
「トヨタロー」
「へ?」
豊太郎。少女は確かにそう呟いた。
「ぼくのこと知ってるの?」
「トヨタローだ……やっと逢えたぁ……」
少女は相好を崩し、押し倒すくらいの勢いでぼくに抱きついてくる。
「ゴメン、時間がないの。約束……果たさせてもらうね」
首筋に噛み付かれたのだ、と気づく。
そこで、ぼくの意識は途切れた。
(つづく)