骸塚
昭和十九年八月中旬の頃――。
一
だまれ。うるさい……だまりやがれ!
耳に張りつく蝉時雨に、日下部京助は頭を振って、土が盛られたままのスコップを止めた。
周囲の樹木は、どれも蝉の群れが隙間なく張りつき、耳障りな悲鳴をかき立てている。京助は目の前にある一本を強く蹴ったが、杉は小揺るぎもしない。むしろ、尾を引く激痛に小さく悶絶した。
「ちくしょうめが!」
擦り切れた指は汗でしみ、頭痛も酷くなる一方だった。そうでなくても、日頃の空腹で力が入らない。
郷里から数県をまたいだ疎開先、戒然寺の門前には、村人が手をつけていない田畑があった。越して来た児童達は毎日そこで、カンカン照りの下、開墾の勤労に汗を流す。そして、寺の裏手に回ると竹林が広がり、そこを抜けると川が隔てた先に深い森があった。しばらく奥へ前進すると、一際大きい杉の木が立つ場所に出る。京助がいるのは、まさにそこであった。
自由時間に抜け出してから一時間ぐらい経っただろうか。農具が保管されている寺の倉庫から大振りのスコップを拝借し、固い土をほぐして小石や岩を取り除くと、“骸”が収まるほどの深さを掘った。
後は、奴を放りこんで埋めれば終わりだった。殺した相手は、名前も知らない餓鬼大将である。村の子供らの統領格であった。大柄な図体と毬栗の頭をした丸顔に、餓鬼大将の鋳型を越えない風貌。数人の手下と一緒に、疎開した自分達を寄って集って殴ったり蹴ったりした。上級生の京助もやられた。
「余所者どもめら、早よ、東京さ帰りやがれ!」
連中はそう吐き捨てると、連日、投石や木の棒で痛めつけてくる。
京助は薄い腹を抑えた。さっきも奴に蹴られたせいで、赤く腫れている。自分達は、仰山の作物を食らって私腹を肥やしておいて、何をほざくか。
揃いも揃って豚みたいに肥えた田舎もんに、骸骨みたいに痩せ細った東京もん。御国の未来を背負う少国民という自覚など、あいつらにあるはずがない。
だから殺してやった。とうとう我慢できず、ぶち殺してやったのだ。
一番上の土を固めると、鼻先から汗の滴が落ちた。寺に帰ろうとすると、心地よい涼風に立ち止まった。尋常ではない達成感に酔いしれ、気だるい体を大きく伸ばした。
あの、鬱陶しい蝉の声は聞こえてこなかった。
二
日課である野良仕事が終わると自由時間になる。ぶらりと森から出て来た自分を怪しむ者がいないのに、京助は安堵した。
殺風景な境内に入ると、辺りでは他の児童があり合わせで作った玩具で時間を潰していた。京助は、かつて鐘のあった石台から、ボンヤリと彼らの遊戯を眺める事にした。頭上には、叩き棒だけがポツネンと吊るされている。
ぼろ切れを縫い合わせて作った当て打で遊ぶ女子。地面に寝そべり、ビー玉やおはじき代わりに光る小石や木の実で遊ぶ男子。花いちもんめに鬼ごっこ、下級生らにけん玉の技を見せびらかす同級生。軒下に座り込み顔を伏せる、顔見知りの一年生。また視界を転じると、ダルマさんが転んだに興じる数人……。
県境の農村の片隅に建つ戒然寺に疎開してから、早一か月。時が経つと、各々が自らの寄り場に収まる。親に会えない寂しさ、知らない土地にいる孤独、しかも同世代が同じ釜の飯を食う団体生活ではらむ緊張感は、遊びで初めてほぐれるのだ。
しかし、京助は安寧の輪がかくも脆いのをなんとなくだが心得ていた。だから、誰とも話しかける事せずにいた。初めは、級友が近づいてきても、京助が地蔵のようにそっぽを向き、眉間にしわを寄せた気難しい顔でいると、彼らは敬遠するようになった。
「よくも、お前!」
誰かが悪態をついた。どういう理由かは定かではないが、ダルマさんが転んだの一団が仲間割れを起こしていた。四年生ぐらいの二人の男子が取っ組み合いをしている。
「何しやがるんだ!」
地面に押し倒された側が叫んだ。砂埃を立て、上に乗った側が相手の襟首を掴み、何度も振り回す。周りの者は止めようとせず、だからと言ってはやし立てる者もいない。方々からさめざめと女児達が泣き、一年生らも我慢できずにぐずり出す。誰かが先生を呼びに走った。
蝉の鳴き声が重なり増していく。その上、罵声に号泣と交じり合い、京助の神経を逆なでした。雑音の針が脳みそを突き刺し、酷い頭痛を走らせる。
京助は、喧騒から逃げるように寺の裏手へ回った。
もう嫌だ。何度も漏れる本音が囁きかける。ここに来た当初、京助は何とか冷静さを保っていたはずだった。周りも同じだと言い聞かせてきた。元々、友達と呼べる者は少ない。その意固地を埋め合わすための努力が幸いし、勉強も体育もソコソコでき、愛国精神上々と教師の評価も悪くなかった。家にいるよりも、規律正しく緊張感が途絶えない学校にいる方が、京助はかえって居心地の良さを感じていた。
しかし、6月頃になると京助の生活は一変した。東京を始めに、全国で学童を対象とした疎開が開始されたのだ。京助の学校も七月から順々に開始し、列車に半日揺られ、人里離れた田舎の村にやって来た。麓に住む村人達の突き刺す視線は、未だに忘れられないでいる。少なくとも、歓迎するつもりは毛頭ないだろうとは分かっていた。
「余所者じゃあぁ!」
耳障りなダミ声を聞こえた気がし、京助は怖気に震えて振り向いた。
三
誘い込んだ餓鬼大将を、京助はもう一度殺した。
森の中で、少年はスコップを頭上一杯に振りかぶり、掲げた凶器の先を、餓鬼大将の頭を思いっきり打ち据える。
坊主頭が地面から飛び出し、表皮が剥がれた頭蓋が砕け、脳漿が零れ落ちた。驚いた事に、悪童の頭は小刻みに痙攣している。漏れた脳みそをスコップで突く度に反応するので、京助は面白がって何度も試してみた。
田舎の餓鬼大将なぞ大した相手ではない。実際、鈍器で頭を殴ってやったら、それっきり動かなくなったぐらいだ。普段から自分達のような新参者をいびり抜いていても、所詮は武器で襲われれば何ら打ち手はないのだ。
「ガキの喧嘩なんてしねえんだよ」
京助は顔に張りつく汗を拭き取りながら、骸に湿った土を被せていく。人殺しが露見すれば終わりだ。優れた少国民は犯罪なんてしてはいけない。
後ろからかすかだが、川のせせらぎがする。作業が終わったら顔を洗いに行こうと、京助は思い、スコップを土の山に刺した。
まるで墓標みてえだ。少年は笑い、それを一蹴りした。
辺りは、おかしいぐらいに静寂であった。風の音ですら聞こえてこない。頭の中の嵐はスッカリと消えていた。
四
自由時間が終わり、学童らは寺の本堂に集められた。一週間に一度の、手紙の時間である。
ただ広いだけの本堂は、毎朝、全員で掃除をしていても、湿気た畳と柱の臭いが鼻に突いた。仕切られた奥間は蓮華座だけ据えられ、肝心の本尊はどこにもない。
「さあ、ご両親に向けて手紙を書きなさい」
小太りの住職の指示に従い、長机に並ぶ児童は素早く筆に手を取ると、一斉に粗末な半紙に書き込んでいく。
京助の手は動いていないでいた。筆を持ったまま、上の空である。何も思い浮かばない。その間、他の児童は皆、目にも止まらぬ速さで文字を埋めていく。
京助は両隣を盗み見たが、内容は同じだった。下級生は、『おもちゃを送ってください』、『菓子を送ってください』と、物をねだる願い事ばかりを連ね、四年生ぐらいからになると、『自分は立派に暮らしていますが、お父様お母様兄弟はどうしていますか?』と、急に見栄を張り出す。
……腹が減った。食事はサツマイモと具のないスイトンのみ。不平を言う口は我慢しても、腹の虫だけは黙っていない。辺りでしきりと空腹を訴える音が聞こえてくる。
京助は、白紙に目を落とした。浮かぶのは、お願いばかりの文面ではなかった。疎開以前の家族との風景。煙たがられ、二人の兄よりも飯の少ない食事をあてがわれていた。お前は末っ子だ。何の役にも立たないと罵る父親。軽い弁当箱を面倒くさそうに渡す母親。自分よりも大柄な兄弟達は自分といないように扱う。あまりにも度が過ぎて、いない者に扱われたこともある。
皆が末っ子で働き手にもならない京助を嫌っていた。今年から始まった集団疎開は、いい厄介払いになっただろう。嫁は孕み過ぎじゃ。ガキは二人でええ。今年で六十五になる祖母の意地悪な顔に嫌気がさし、京助は思案を止めた。
本堂の端に目を映す。先生達が団扇を止めどなく仰ぎながら、児童達が手紙を書き終えるのを待っている。やがて、書き終えた子が三人立ち上がり、先生らの方へ持って行く。
「どれどれ」と手紙を検める先生方。手紙は検閲されて、初めて家族の元に郵送される。中には、書き直しを命じられた。住所不定で帰って来る手紙も少なくない。
次々と手紙を読んでいく先生は、「行ってよし」と言って、手紙を小箱に収めていく。しかし、三人目になったところで、一人の顔つきが変わった。大きな顔をした教師は眉間にしわを寄せて、三人目の児童を睨みつけると、立ち会上がって、いきなり彼を殴りつけた。書いていた他の児童も鉛筆を持つ手を止めた。
「お前、家に帰りたいとはどういう事だ!」
「……ごめんなさい」
小学一年生ぐらいの児童は赤くなった頬を押さえながら、さめざめと泣き始めた。間を置かず、方々からすすり泣きが広がっていく。蓋を閉じても、その上をきつくひもで縛っていても抑えがたい感情が伝播していく。
「皆、静かにしなさい!」
三つ編みにした女性の教師の子が本堂に響く。しかし、自動の鳴き声はなかなか止まない。簡単には止まない洪水を、本堂の仏像は静かに眺めている。
「見ろ。お前が泣いた事で、全員が貧弱になったぞ。御国のために、遠い戦地で戦っておられる兵隊さん達に悪いと思わんのか?」
顔から汗の玉を吹き出しながら、教師は諭し、少年は泣き止みつつあったが、代わりに本堂の子供の鳴き声がいまだに続いていた。
京助は泣かず、白紙を眺めながら、違う世界に浸っていた。叫びたい衝動をなんとか抑えるためであった。子供のすすり泣きに呼応するようにして、外から規則的な鳴き声が入ってくる。
汗でべたつく手を、京助は耳の上に被せた。
五
いつの間にか、京助は実家にいた。
見慣れた門を過ぎ、玄関口に入ると祖母がいた。
「飯喰らいめが、なぜ帰ってきおった?」
抜けた歯を覗かせながら、老婆は罵る。疎開に出る前から何も変わっていない。もしも帰ったらこう言ってくるであろう、そのままの反応であった。
京助は、手に持った大振りのスコップを、老いぼれの脳天に振り下ろした。
頭部がU字型に陥没し、祖母はその場で倒れた。京助は、その亡骸に唾を吐きかける。今まで言われていた罵詈雑言に対する、溜飲が一気に下がる思いであった。
続いて廊下で出てきた父親と鉢合わせした。ババアみたいに何か言う前に、太鼓腹めがけ、スコップを横に一閃させると、おかしいほどにスパッリと裂けた。傷口から太い肉の管を這いずらせて、命乞いをしてくるが、京助はその背中を何度もたたきつけた。
茶の間に入ると、母親と三人の兄弟が一家団欒の食事をしていた。末っ子が帰っても見向きもしない。
京助は、ちゃぶ台をひっくり返し、血で濡れたスコップの先を順番に振り下ろしていく。各々が未練がましく毒舌を吐く。
「厄介払いがかって来るんじゃないよ!」
「末っ子の癖に!」
「役立たずが何で!」
家族全員を順番に、頭が粉々になるまでスコップで滅多殴りした。京助は衝動を抑えられずに、辺り一面の者を破壊していく。ラジオを持ち上げ、米印に張られた窓に向かって放り投げた。窓が割れ、テープと破片だけが残った
奥の和室から、赤ん坊の泣く声がした。
奥間に立ち入ると、戦時下とは思えない豪奢な布団に眠っている赤ん坊が目に入った。枕元の真横には見覚えのある半紙が置かれ、『葉子』と書かれている。
自分に妹ができたと思った。京助は喜びの代わりに嫉妬を感じた。少し生まれた年がずれただけで扱いが代わる。
ふいに、葉子はけたたましく泣き始めた。蝉の鳴き声にも似ている。神経を逆なでする以外に何も感じさせない。
京助は、葉子の顔面の上に、スコップをぶら下げた。そして、躊躇なく太い柄を握る手の力を放した。
スコップは落下し、寸分ずれる事なく顔面をめり込ませる。小さな『グゲッ』という呻きが、赤子の断末魔であった。
家中に死臭が漂っていた。窓を開けるのはまずい。近所にバレる。それよりも家族の死体をどうするかが先決だった。一体、どこに隠すべきか?
沈黙を裂き、蝉が一斉に鳴き始めた。児童が喚き、教師が怒号する。
――時ならず、現実の京助はいきなり立ち上がり、大人が止めるのを聞かず、脱兎のごとく寺を抜け出していた。
その間、両手はずっと耳を押さえていた。
六
京助は、森の中にいる自分に困惑した。それもいつもの場所だった。窪んだ一角に杉の樹木が屹立し、木漏れ日がわずかに降り注いでいる。
どうして、こんな所にいる?
最初に目に入ったのは、地面から傾いて突き出たスコップの柄。野良仕事のために寺から貸し出されており、まずここにある事自体があり得ない。
踵を返そうとして踏み出した足がすくわれる。その場に倒れた際、膝小僧を強かに打った。痛さに呻きながら、京助は凹んだ地面を覗いた。
途端、少年は悲鳴を上げ、埋まる足を引っ込めた。
穴の底を、人間の指が隙間なく詰まっている。親指から小指まで、区別ができないぐらい埋まり、独立した生き物のように滅茶苦茶に動く。爪がなく、指紋がなければ、芋虫にしか見えない。
他の穴には、内臓がびっしりと埋まっていた。思ったより細長い腸がとぐろを巻いて、肉の小袋が盛られている。京助は吐き気を抑えるのに必死だった。
そして一際大きな穴蔵には、家族と、例の餓鬼大将の生首があった。特に家族のほとんどがその原型が崩れ、腐り落ちた眼窩からはミミズが這い出た。ポッカリ空いた口腔を、ムカデやミミズが蠢く。
突然、抜け歯だらけの口がカタカタと鳴り出した。
『この親不孝者めが!』
『ワシらを殺しやがって!』
『余所者の人殺しが!』
生首たちが口々に訴える。耳を塞ごうが、死者の声はなお脳内に訴えかける。森の中で熱気を帯び、顔中の汗がねっとりと目を潰す。木々が歪曲してゆらめく。
「うるせえ! さっさと黙りやがれ!」
『お前は余計に生まれた、米喰い虫だ。疎開に出してせいせいしたわ』
顔の潰れた母の声を聞いた時、京助はこぶし大の石を拾い上げ、穴に向かって落した。血だまりが飛び跳ね、脳漿が飛び、少年を赤く染める。
全身を血まみれしながら、京助はその場を逃げ出した。森の中にある、中腹から流れる川岸に出ると、死に物狂いで顔に冷水を掛けた。
心臓が止まりそうなほどの冷水が、顔の熱を瞬時に奪った。ふと、京助は川面に映る顔を見つめていた。痩せこけた頬、血色の悪い唇、くまの浮いた目じりと、うだる暑さと相反する青白い肌をしている。
自分の顔とは思えず、つい川面を叩くと波紋が生じたが、しばらくするとやはり元の姿を映し出す。
――俺は気が狂っちまったのか?
それならば、自分の目で確かめなければならない。
京助は立ち上がると、こみ上げる衝動に身を任せて森の中へと戻った。
七
京助は、先刻までいた場所に戻ってきた。また顔中に汗の玉が吹き出る。
周りは鬱蒼とする深緑に染まり、道らしい道はない。なぜだか分からないが、地面の草が横ばいに倒されていた。何か重いものが置かれていた形跡である。あるいは、誰かが、そこに座っていたとか。
少し凹んだ穴の前に座り込み、少年は両手で土を掘り始めた。土は柔い。以前に誰かが彫って、穴に何かを入れたのだ。そして、土を埋めて元に戻したのだ。
京助は後ろに下がると、地面に刺してある大振りなスコップを見つけて(これで、家族やガキ大将の脳天を潰してきたはず)、その柄を握った。途端、電気が走るような衝撃を受けた気がした。今まで欠けていた体の一部が戻ってきた感覚を味わう。
そして、京助は再び穴を掘り始めた。手でやるよりも簡単に進んだ。
はたして、夢かうつつか?
三度も振らないうちに、『ガシュッ』と轢き潰す音がした。肉と骨を潰す音だろうか。京助は戦慄を覚え、手を硬直させる。汗が止めどなく溢れる背中が粟立つ。目から涙も流れてきた。恐怖であった。自分の家族や餓鬼大将を殺しているかもしれないのだ。
スコップに持った土の山。何かがはみ出ている。京助は意を決し、土を落した。土くれから、はたして何が出てくるだろうか?
眼を閉じていた目を開け、地面に落ちている残骸を京助はまじまじと見つめた。それは文字通り、骸の残滓であった。
京助は薄く口を開けて、息を長く吐いた。周りの音が一瞬止んだ気がする。
蝉であった。小さな胴体はもろく潰れ、薄い幾何学模様を浮かべた羽はひしゃげ、生きていたとしても飛行もままならない状態であろう。口ばしはへし折れ、無機質な玉の双眸は顔面元とも半壊している。
穴の底には、同じような蝉の残骸が隙間なく埋まっていた。中には、羽化したばかりで今まさに飛び立とうとしている緑色の蝉も混じっている。
京助はその後、周りの同じ穴を一心不乱に掘った。どれも出てくるものは同様だった。人の死体は一体も出てこなかった。一体も、である。そもそも、子供さえ入らないぐらいの小さな穴に入るわけがない。
すなわち、自分は虫殺しはしても、決して人殺しなどしていなかったのだ。京助の中から、己を苦しめていたモノが切りとなって消えるのを感じた。
「キャハハッ」
スコップを手から離し、京助は素っ頓狂な声で笑い転げた。道理で辺りが静かなわけだ。鬱憤を晴らすために蝉を殺していただけ。夏の熱さでやられたか、はたまた夢遊病にでもかかったか。いずれにしろ、キチガイめいた光景は白昼夢に過ぎなかった。
考えてみれば、疎開先から遠方にいる家族を殺せるわけがない。俺がいるのは、東京から遠く離れた、農村の山奥なのだから。
それにしても臭い、と少年は鼻をつまんだ。虫も死ねば、夏の暑さも手伝って、腐ったような死臭を放つ。
何やらうわ言を放ちながら、京助は広場を転げ回っていた。歓喜は、彼を心配して後をつけた女性教諭の耳にも入った。
彼女が駆けつけた時、京助は同じような狂態に晒していた。
「日下部くん……」
何かに気づいたのか、彼女は急に足を止める。そして、じりじりと歩むとまた止まり、小さく叫んだ。
京助は振り返り、狼狽する教諭をよそに明るい返事を返した。
「先生、ごめんなさい。でも心配しないで下さい。僕の頭はおかしくなんかなかったんです。僕はキチガイじゃなかった。夏の暑さでどうかしただけだった」
京助は立ち上がり歩むと、教諭の足が震えた。
「御国の少国民が情けないです。でも、もう心配はいりません。これから、自己鍛錬に励んで、天皇陛下のために強い兵隊になります」
教諭はもはや、少年を見ていなかった。その背後――周りの地面に散乱し、遠くからでも届くほどの腐乱臭を放つ“骸”の群れに怯えた目で凝視する。
「日下部くん……あなた、なんて事を……」
震える声に、京助は怪訝な視線を送る。振り向いたがやはり、蝉の塚しかない。たかが虫の死骸に何を怯えているだろうか?
「どうしたんですか、先生?」
少年の後ろにある小さな穴には、どれもコケが生えて、土気が混じる緑に変色した髑髏がいくつも覗いたていた。他の穴には、人間の子供と分かる、頭部が凹んだ腐乱死体があった。
京助は、ゆっくりと教諭に歩み寄る。
大振りのスコップを携える手に力を込めつつ――。
あの、けたたましい蝉の鳴き声が森中にうるさく響き始めていた。
《了》
夏のホラー企画では、初めての参加になります。
なお、参加作品ではありませんが、掌編ホラー『みんなが見てる』を同日17日(金)の21時に投稿します。