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sheath‐鞘姫‐  作者: 肇川 七二三
誘拐(DParty編)
156/225

ほんのちょっとの 90日目



「しばらく悦に入って午睡を貪っていられる時間って、どのくらいの予定だったんですか、親方」


肩を揺らして尋ねるのは暉臣だ。

一方むっすりとしているのは澄幸。


「あんなにめきめき上達したって僕に分がある」

「またまた、本当はひやひやしてるくせに」


面白がって笑っているのは基彦。

暉臣と基彦はトリシアが日に日に単語を覚える事を、我が子の事のように喜んでいる。微笑ましいことこの上ない。


視線の先でせかせかと動き回っているのはトリシアだ。リスみたいに単語帳を蓄えて、あっちこっちに忘れて行くのだから始末におえない。

…首を絞めるリスって実は彼女の事なんじゃないかな。


レストランで注文できるくらいの片言な日本語を時々喋ってみせるがてんでなっていない。

そうは言っても2、3ヶ月でどうこうという上達の速さではないのは確かだ。


日本語を勉強しはじめて、

これからの会話を全部日本語でやって欲しいんだけど、というトリシアの要求は珠姫によってすぐさま却下された。考える事もしなかったあの即決力は怒りより先に唖然とする程だ。

ストレスで参ってしまったらどうするつもりですか!などと人目を憚らず声を荒げた珠姫の姿は久方ぶりに見た。

少々過保護な気もしなくはないが、彼女はトリシア側に徹している。


大切なのは読み書きの方なのだが、会話にもトリシアは強くこだわった。最近はテレビをぼんやり見つめていたりする事が増えて、本人にとっては勉強材料だったのだが、珠姫が不安がってテレビからひっぺがすやり取りも日常になりつつある。

ちなみにトリシアに安心してテレビを見せられるようにレコーダー機器が買いつけられてDVDを見るようになったのはもう少し後の話である。


「僕は知ってるぞ。トリシアに君たちが色々手心を加えている事を」


ありゃー、という感じで暉臣と基彦が視線を交わす。

バレてないと思ってた身としては恥ずかしすぎる。そして間抜けすぎる。


「今なら自己申告を許す」

有り難く申告させてもらう。後々拗ねると面倒くさいことになると分かっているのは長年連れ添った経験からによる。


「…珠姫と一緒に本屋に行ってひらがなドリルと漢字ドリルを買いました…」

「お、俺は…、単語帳と『子どもでも分かる!古事記』を…」

「何してんのっ?!」


心底信じられないとい風に自分の肩を抱いて抗議の声を上げる。

「二人とも何してんのっ?!」

「いやあ、だってなあ…」


孫に物を買い与えてやりたい心境と同じなのだろう。孫にだったら何だって買ってやりたい。世のじいさんばあさんの気持ちが分かるというのは彼らにとって初めての経験だった。なんというかとても目新しい気持ちだ。


「まあ、いいけど珠姫は?」

「私ですか?」

いつの間にか甲斐甲斐しく洗濯ものを取り込んでいた珠姫が通りがかった。

なんとなく聞いていたはずなので話は通じるはずだ。

「私はひらがな、漢字ドリルを買って、絵本を読んでます。ですから心配せずともひらがなはバッチリですよ」

そういう話ではなかったのだが、まあいい。まあいいよ。

「彼女もだいぶ馴染んでくれましたから、私はほっとしています」

はた目から見ても嬉しげに微笑んでいるので、彼女は心の底からほっとしているのだろう。


視線の先にはトリシアとシュトがいる。

「珠姫、可愛がるのはいいがあまり思い入れ過ぎるなよ」

主の鋭い言葉に反射的に目を伏せて視線をさまよわせた。

「はい」






シュトの希望によって庭先でちょきちょきとハサミを振っている。

少しちぐはぐに伸びすぎたシュトの髪を切っているのだ。

じっとしているのは性に合わないようなので見ていて飽きないという庭に木製の丸椅子を置いた。

慣れた手つきは危なげなく音を立てている。

濃く淹れた紅茶のような甘いブラウンは毛先まで艶やかで切るのが勿体ないくらいだった。


洋風の庭先ではあまり分からないが、雑木林は秋の風に吹かれてすっかり紅葉している。燃えるような鮮やかな朱もあれば、煙がかったような色合いの葉もある。とにかく色づいた木々はきれいだった。


「ええっと、『わたし、が?…私、は、シュトの、髪を切ります』」


ちょきちょきというハサミの音の合間にトリシアの覚えたての日本語がスローペースで流れる。

「ちょっと違うな」トリシアは首をかしげて再度日本語を組み立てる。


「『私、は、シュトに?…シュトの、髪を、切っています』」


またちょっと首をかしげて、

「『シュトの髪…を切っています』」

常に主語が入らなくても構わないのが日本語だから省略しても間違いではないだろう。出来に満足しながらハサミを振っていると、シュトがちょいちょいとトリシアの服の裾を引いた。


「トリシア、『髪を切ってあげている』だよ。それから『シュトは髪を切ってもらってる』んだよ」

「え?ああ、そっか…あれ?」


正しく言葉を組み立てるのに数分かかるうえに、別の言葉で同じ行動を言い表せる。日本語は思ったよりも手ごわい。

無意識に唇を噛みしめる。

読み書きはうっすら分かるようになった。片手には辞書が欠かせない。それでも足りないのだ。全然届かない。

悔しくて情けなくて、寂しい。

龍の事を知りたい。澄幸に話を聞きたい。

それを言葉の壁が阻むのだ。

たぶん、澄幸は感化されやすい所があるから何とかしようと思えばハードルを下げてくれるだろう。

でも、それを自分の矜持が許さない。悔しい。


「サッパリしましたね」

和装の珠姫が後ろから覗き込むように声をかけた。にっこりと笑っている。

もっとも、彼女のにっこりは表情の変化が微細すぎてはじめは分からなかったのだけど。最近は彼女の喜怒哀楽が良く分かるようになった。


「トリシアの髪も切ってあげたいのですが…」

「タマキは不器用だもんね」


意地悪く笑うと「もう!」と珠姫はおどけたように怒った。

珠姫は家事をするとき、日本版のエプロンという感じの「割烹着かっぽうぎ姿」でいる。

実のところ家の家事をすべて任されているので割烹着を着ていない姿の方が珍しいのだけど。

彼女の唇が赤く傷ついているのを目聡く見つけて珠姫は居住まいを正す。


「トリシア、やっぱり日本語を1年やそこらで会得するのは無理だと思うんです。やるならば会話か読み書き、いまはどちらか一つに絞るべきだと思います」


珠姫のもう何度めかも分からない申し出にトリシアは今までと同じように首を横に振った。

諦めさせるために更に言葉を重ねる。

トリシアが珠姫に内緒で夜遅くまで単語帳や辞書とにらめっこしているのはもう知っている。知っていて放っておいたが、もう見るに忍びない。


「…主は分かっておられなかっただけです。古事記や日本書紀は日本の学生でも読めるかどうか怪しい本ですし、そもそも好き好んで読むものではないのです。…いいですか?日本人でも国語の教科書で教師に教えてもらえなければ分からない、そういうものなのです」


そう言われて、心が折れなかったというと嘘になる。

希望が遮られ、視界も彩度を失ったような錯覚がした。

燃えるような紅葉も、薄汚い赤茶色にグレードダウンした。


「じゃあ、じゃあ…スミユキは最初から『龍』の事を私に教えるつもりなんてなかったのかな。不可能なことを前にして心が折れてしまえばいいって思ったのかな」



珠姫ははっとしたように目を見開いて。それから全力で首を横に振って否定した。

「決して、決してそんなことはありません!違うんです、信じてください」


必死に否定を重ねて、幾房かの髪がこぼれる。


「主は…きっとトリシアと長く居たいだけなんです。無理難題を押し付けるのは主があなたを手放したくないだけなんです。ですから、意地の悪い事を考えたわけではないんです」


日本語を必死で勉強している彼女に、古事記や日本書紀の事を伝えるべきではなかった。少なくとも、今伝えるべきではなった。

自分の不器用な拙い言葉に思わずほぞをかむ。肝心な時に思っている事をそのまま伝えられない。


「主と、きちんと話をしましょう。意固地にならずに話しあいましょう。無理なことを無理だと言って音を上げるのは惨めなことではないと思います。出来ることから出来るようになることの方が優れているはずじゃないんですか?」


トリシアは珠姫の正論に反論が出来なかった。

言い返そうにも、子どもの駄々のような言葉ばかりが頭の中に沸いては消える。

珠姫の言葉は、トリシアに馴染みのない母親のそれだったことを、彼女は分かっていなかった。


しゅんと肩を落として、

「…タマキの言う通り、会話に絞ってみる…」

項垂れたトリシアの頭を珠姫は優しく撫でた。

「髪は、手先の器用な暉臣に切って貰いましょうね」




日本人なのに日本語が苦手です←

でもそれ以上に英語とか外国語が苦手です

ヨーロッパあたりに住んでる人たちってトリリンガルなんてざらにいるらしいですね

母国語と文法や言葉が似ているとそういうことって簡単にできちゃうらしいです

こわやこわや…


こんかいのタイトル「ほんのちょっとの」の後に来る言葉は

読んでくださっている読者様につけてもらいたいと思ってあえて書きませんでした

トリシアが感じた「ほんのちょっとの」気持ちを

あたたかく見守ってください


今回も読んでくださってありがとうございます!

次話も乞うご期待☆

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