夜明け
喪失した記憶が、戻ってくる。
胸から瞳へ溢れる思い出が、容赦なく胸を穿つ。
あの日だけではない、一緒に過ごしたたくさんの時間、父と母とロッテと過ごした時間が胸にいくつもの孔を刻みつける。
あの夏、シャルロッテと過ごした時間、彼女の本当の姿を愛してしまった私。
一緒に過ごした時間が戻ってくることを喜び、哀しむ私。
あのあと、ドラゴンの姿を私に見せたシャルロッテは母さんに大目玉をくらった。赤ちゃんのことを大事にしなさいと口を酸っぱくして、目を三角にして怒ったお母さんが怖いけど可笑しくて。
そのあと…なぜか私も正座で彼女と一緒に説教を聞くはめになった。ロッテの正体を知ってしまったことは想像以上に悪いことだったらしい。
でも、それ以来シャルロッテは私の前でドラゴンの姿になる事の方が多くなり、私はその時彼女の逆鱗を見せてもらった。触る事は赦されないけど、見る分には構わないと言って。
他愛のない日々、くだらない会話、愛する人の顔…
シャルロッテの昔話、秘密の話、誰も知らないおとぎ話、魔法が生きていた時代の話…
全てが一瞬のうちに頭に戻ってくる。
しかし、記憶は膨大すぎた。
時に感覚を、時に感情を、鮮明すぎる記憶に頭が追いつかなくなってき、た。天井がぐるぐるまわって思わずえずいた。
頭が割れそうな頭痛と胃がねじきれそうな吐き気。
膨大な記憶の帰還は唐突に終わりを迎えた。
父さんも母さんもいない、シャルロッテもいない。
大切な人がいない世界。
何にも代えがたい痛みが襲ってくる。空っぽの部屋、記憶に穿たれた空っぽの自分。
喪失した記憶を取り戻した故に、大切な人を失った痛みが襲ってくる。
指先から肌が粟立つ。
…指先?そうだ、私の体はどこ?
馬鹿な事を考えた。私は幽霊になった覚えはない。
私の体はここだ。
指先がかすかに動く。
爪が床を引っ掻く。
その音にギアは敏感に動いた。
「トリシア…?私が分かるか?」
焦点の合わない瞳が…ギアに結ばれる…私の顔を心配そうにのぞきこんでいた。
でもちょっと、顔が近いんじゃない?顔が火照る。
体はとても重かった。
魔法がどういうものか分からないけど、一度にあんなに鮮やかな記憶に飲み込まれたらしょうがないような気もする。
「トリシア…?」
軽口をたたこうとおもって開いた唇がわなないた。優しさで傷口に触れられた、ら…っ。
枯れたはずの涙がどんどん出てくる。
今日は泣いてばかりだ。あんたのせいだ、あんたが来てからぜんぶおかしくなってしまった。
喪失の感覚は、途切れることなく押し寄せた。
子どものように泣きじゃくった。
私シャルロッテの事もドラゴンの事もドラゴンのいる世界の事も全部知ってたよ。
大事な大事な約束をしていたよ。
忘れるなんてどうかしてるんじゃないかっていうくらい、たくさん。
嗚咽の間に言葉をはさんでそう言った。
彼には私が何を言ってるのか理解できないのだ。
感情が高ぶる。
直後、じゅうーっという何かが蒸発するような音がした。
私は体が動かせない。……何事?
彼ら二人の視線は私の右手に釘づけになっていた。
「トリシア!逆鱗を放せ!」
「おまえは自分の事になるとどうしてこうも鈍感なんだっ!」
ギアは逆鱗を握りしめた右手の指を逆鱗から剥がし取った。
あの音は手が焼ける音だったのかと、自分はどこまでも他人事。
怒鳴ったり怒ったりしてるのはギアと伯父さんの方だった。
「ディブ、水と氷!たくさんな、あとやけどの薬も。早く!!」
「指図するな!お前こそ何とかしろ!!」
伯父は気圧されたようにドタドタと廊下に大きな足音を撒き散らして部屋を出て行った。
困ったことに私はいま痛覚が麻痺しているようだ。
熱源だと思われる逆鱗はまだ蒸気をあげている。
しかし変形した様子も特別変わった様子もみられない。
ギアは結び付けられた紐を慎重に持ち吊り上げた。
「逆鱗には魔法がかかってたよ」
知ってる。
「君にどうしても伝えたいことがあったみたいだね」
それも知ってる。
「何を見た?」
私は彼を見上げる。
「…ロッテと過ごした夏のこと。彼女、私の前でドラゴンの姿になったのよ?だから魔法で記憶を改ざんしたの。それをぜーんぶ私に返してくれたの」
「ふーん、ずいぶん親しかったんだ」
彼はちょっと妬けたようにそう言った。
「色々、今思うとまずいんじゃないかなってことも教え込まれてたみたいだし。ドラゴニスタにばれたら都合が悪かったんじゃない?」
おどけた口調で申告してみたけど、かれはおもしろくなさそうな顔をしている。
子どもっぽいなあ。
だから、つい口を滑らせてしまった。
「全部返してもらったわ、だからもう龍の言葉だって使えるわね」
記憶の中で徹底的に叩きこまれたのは口伝の物語の他に龍の言葉だった。決して絶やしてはならないと言って、いつか絶対に必要になるから、祝福をあなたに贈るから…と。
母さんは顔を真っ青にしていたけれども、それは私が「部外者」だからなのか本当に「まずい」からなのかいまいちわからない。
龍の言葉がいつか絶対に必要になるからというからには、ドラゴニスタでは普通に使うもののはずだ。
ねぇ、と上目づかいに見つめると、ギアは顔面を蒼白にしていた。
「…そんなにやけどひどいの?ごめんなさい私、今痛覚が麻痺してるみたいで…」
「何故それを知ってるんだ」
彼は突然怒りにも似た感情の高ぶりに身を震わせて声低く問うた。
トリシアは子どものように身をすくませることしかできない。…息をする事さえ赦されな気がした。
「…私なにかまずい、ことした?」
声がひっくり返らないように聞く。
「…それはドラゴンが独自にコミュニケーションをとるために使う母語だ。禁忌といってもいいくらいだ!なんで知ってる!小娘のくせに!」
「小娘で悪うござんした!ロッテが必要になるからって教えてもらったの!私は…悪くない!」
「いいやそんな、君の事情なんて知らないね!善悪の分別のつかないような君が悪い!」
「私はドラゴンの事なんて詳しくないもん!」
「シャルロッテと接触してたくせに!」
「彼女は人格者よ!」
「人じゃないけどな!」
低レベルな罵りあいになってきた頃伯父が部屋に戻ってきた。
「おー、思ったより元気じゃないかトリシア。こんな男けちょんけちょんに言い負かしてやれ」
伯父だけが穏やかである。
金属製のこの家で一番大きなボウルに氷水をはって持ってきた。
壊れ物を扱うように伯父は慎重に私の右手を冷やす。
「痛っっったあああ!!!」
そこでようやく痛覚が回復した。
ジンジンと手が燃えているようだ。
痛みに身悶えする私の姿をみてざまあみろと言わんばかりにギアはほくそ笑んでいたが、徐々に心配そうな顔になっていった。
「私、そんなにひどそうに見える?」
少し強がった。本当は手がちぎれそう。
「大丈夫、やけどはひどくない2週間くらいで痛みは引く」
伯父は安心させるように言う。
「ディブ、悪いが少し二人にしてくれないか。本部に報告しなくちゃならないかもしれない」
「このやけど、悪いのか?」
「いいや、お前の見立ては正確だ」
伯父は年頃の男女を二人きりにするのをためらったが、しぶしぶ席をはずした。
二人は黙ったまま口を開かなかった。
ギアきっかけをつかみ損ねて、気まずい思いをしていた。
彼女は顔を背けていた。拒絶オーラ全開。本人は全く自覚してないようだが、彼女は美人の部類に入る。
目立たない美人はたいてい自覚がないということを彼のデータベースが立証済み。
自覚がないとこちらは困ってしまう。どんな事をしてもかわいく見えてしまうだろうが。くそ、と心の中で悪態を吐く。
「…やけど、痛い?」
「…それほどじゃない」
窓の外が少しずつ明るんできていた。
「…なんで、そんなこと教えたんだろう」
か細い声で問うた声がふるえていて。
「…あの言葉は禁忌なの?」
彼女の肩が大きく震えた。
ロッテはむやみに危険を教えたりしない。必要だから、私に必要だから禁忌であっても教えたはずだ。
獣が吠えるような唸るような、しかし何か音楽のような調和を持った声がする。
人間の声帯で出せる音じゃない。
それは、ギアが発していた。
トリシアには言葉としてその音が理解できた。
彼女も彼の発する言語で応える。
『龍の母語は、言葉にすることもできない文字として残す事も出来ない』
『…それでも、いつか絶対に私に必要になるの、彼女は…ロッテは私に祝福を贈ったから、嘘じゃない』
どのくらいうなっていたのだろう。
ギアは観念したようにため息をついた。
「禁忌だとされている。けれど、遅かれ早かれ君には必要だと私も思う。龍の母語は子どもを育てるためには必要不可欠だ…怒鳴ってすまなかった」
トリシアが知識としてではなく使えることを試した。
見事に使ってみせられて対処の出来ない頭痛の種に笑う。
「やっぱり、私が交流を持つのはロッテの赤ちゃんなんだ…」
窓から朝日が差し込んだ。眩さに瞬いた。
「…ああ、そうだよ」
夜明けが来た。
これは、私が歩むべき道の夜明け、そんな予感がした。
こんにちは、いちおうこれで一章完結です
でもまだまだ続きますからね!
春休みが終わる前にどうしても書きあげたかったんだよね!
これからはご都合主義によって不定期更新になりそうです
預言は当たりましたね!←
それでは読んでくださりありがとうございました
次章および次話も乞うご期待☆




