第2話
「はぁ」
「ん? 神崎君、どうかしたかな?」
思わず溜息を付いてしまったところを、今年で六十五歳になる古典担当の大森先生の目に付いてしまった。
「あ、いえ、ちょっと気が緩んでいたようで」
そう答えると、周りからクスクスと笑う声が聞こえてくる。ちなみにクラスの半分近くが、大森先生の古典の授業という悪魔の子守唄によって睡魔と奮闘中、もしくは陥落していたりする。
「まあ、入学したばっかりだし、春だからねぇ」
今後はしっかりとね、と言われてしまった。まあ、大らかというかなんというか。この先生は、聞くやつだけ聞けばいいという方針との噂も流れてる。今回は見逃してもらえたようだ。
「ふぅ」
今度は気付かれないくらいにため息をつく。
そしてこのため息の要因の一つである彼女ら――神崎悠に宮野小春を見る。窓際最後列の席を獲得したのは幸運だな。こうして、廊下側の後方の列にいる彼女らを見ることができるのだし。
睡魔と闘う様子もなく大森先生の話を聞いている神崎。うん、あの腰まで届きそうな黒髪が素晴らしいのは変わりない。
宮野は……ちょっとそわそわしてて落ち着きがないな。昨日のことか? そんなことを考えていたら宮野がこっちを見てきた。
宮野が何か言いたそうにしているのはわかるが、何を言いたいのかはわからない。心配しているのか、こっち見てるんじゃねぇとでも言いたいのか。後者に関しては彼女の性格からしてなさそうだけど。
それにしても、視線が合ってお互い逸らさぬままでこの無言は辛い。
やっぱり昨日のことだろうか。思い出すのは昨日、意識を回復したところからだった。
「―――ん、か――ん、神崎君」
誰かがの声が聞こえる。それはこの場所に似つかわしくないクラスメイトの声で……
最初に感じたのは後頭部の柔らかい感触だった。それに暖かかったことも付け加えておく。背中に感じるのはあのショッピングモールの硬くて冷たい床だったおかげか、後頭部に感じる感触が一際心地よかった。もう動きたくないってくらいに。
「まだ起きないか?」
続いて聞こえてくるのはちょっと低めの凛とした声。
「うん。さっきちょっと意識が戻ったみたいだったんだけど」
いえ、(後頭部が気持ちよかったので)動きたくなかっただけですよ? 一応体の節々も痛いし。
「ふむ……神崎、起きているだろ?」
バレてらっしゃった。てか、なんで俺は寝てたんだっけ? たしか学校からの帰り――
「って、そうだ、やつはっ――」
そうだ、あの時襲われて、それで!
「がっ!」
勢いよく上半身を起こした瞬間、激痛が体中を痛みが奔る。特に背中は激痛だ。
「つっおぉ……」
今までに数回ほどしか経験したことないくらい、一気に脂汗が流れる。さっきまであった宮野の膝枕が恋しくなる。
「ま、まだ無茶したら……」
ええいっ! あのひょろすけから追いかけられた時から全力だったツケが、ここで来たみたいだ。支えてくれた宮野が天使に見える。
「いっつ……」
「辛いのはわかるが、答えてもらいたい。神崎は、なぜさっきの男に襲われていた?」
そんな俺を、険しい目をした小野川が、非常に落ち着いた冷静な声で聞いてきた。彼女の冷静な言葉で、ちょっとは落ち着いてきた、かな。痛みで思考が儘ならない、というのもあるだろうけど。
「あ、ああ、学校から帰ってるとき、いきなり襲われた」
はぁ、これだけしゃべるのでも一苦労だ。
「あいつに見覚えは?」
「ない。こっちとしては、ふぅ、なんで俺を襲ったのか、聞きたいくらいだよっ」
何度思い出しても腹が立つ。一方的で、理不尽な暴力に。
「そうか。体の調子は、よくないだろうが、どうだ?」
「体中が、痛い。まともに、動くのは厳しそう、かな」
今のままでは立つことすら辛い。昔、犬に追いかけまわされて全力で走り続けた時ぐらいにひどい。それに――
「背中が、かなり、ヤバい……」
ちょっとでも背中を動かそうものなら激痛が走る。おかげで声も震えっぱなしだ。起き上ったときは更に酷かった。多分、背骨が骨折やらヒビが入ってるってことはなさそうだけど、こんな痛みは初めてだ。
「小春、頼めるか?」
「え、ええ!?」
なんか宮野が焦ってるみたいだけど、どうしたんだ?
「で、でも、うまくいくか分かんないし……」
「神崎、動けそうか?」
「うえ? む、無理すれば、歩くことぐらいは……出来るかも」
一連の話の流れの意味がわからない。思わず、変な声も出してしまった。
「このままでは、神崎の生活にも支障が出る。それに、私の時はうまくいったんだ。ちょっと規模が大きくなっただけのようなものだ。上手くいくさ」
「う、うん……わかった。やってみる!」
そこの笑顔がまぶしい天使さん。俺に何かしようとしているのはわかった。わかったけど、だ。やってみる! ってそんな気合の入ることを、俺に何しようとしてるんですか!?
「ん? ああ、そう不安そうな顔をするな。神崎の治療をするだけだ」
「治療って、いったいどうやって――あぁ」
思い出すのはひょろすけのカマイタチ、小野川の撃ち出される炎の矢、宮野の不可視の防壁、まさにファンタジーのような、実際にあった出来事。あんなことがあったんだ。確かに、今の俺の傷を治せることも、可能かもしれない。
「わ、わたしに任せてください!」
……そこはかとなく不安になるのは何故だろうか?
多数の切り傷に擦り傷、そして足がひどい筋肉痛、とここまでだけでも今までにない酷さだ。さらに背中に受けたあのひょろすけの一撃。小野川の話によると、あれは最後の力を振り絞っての最低限の出力で放たれたものらしい。おかげで切断効果がほとんどなかったようで、衝撃波のようなものになったのだろう、と聞かされた。もし、あいつにまだ力が残っていたら、俺は真っ二つになっていたのかもしれない。
「そ、それじゃあ、始めますよ」
顔を真っ赤にした宮野が、上半身裸になり前かがみに胡坐をかいて座る俺の背中に、両の手を合わせて置く。
「“治癒”」
宮野の緊張した声が響くと、背中から何か、暖かいものが流れ込んできた。同時に、背中の痛みから、全身の痛みが緩和されていくのがわかる。
「お、おお……!」
後ろを見てみると、俺の背中に当てた宮野の両手が、淡い黄色い光を放っている。
「――ふぅ、これくらいかな?」
始めてから数分ぐらいだっただろうか? あの全身を暖かなもので包まれるような、至福といっても過言ではない時間が終わった。
「どう?」
「すごいな、背中の痛みはほとんどないぐらいだ……!」
普通じゃあり得ない。最低でも、数週間は長引くものだと覚悟していたぐらいなのだ。それをわずか数分で癒すとは……
「それに、全身の痛みも、動くのにほとんど問題ないくらいだ」
確認に起き上がって軽くストレッチを行ってみる。うん、問題ない。
「そっかぁ、よかったぁ」
うん、本当にいい笑顔だ。
「ありがとう、助かった」
そういって宮野に頭を下げる。
「そ、そんな……原因は私の不注意だったんだし……」
「それはそれ、これはこれ。それに、悪いのはあのひょろすけだろ?」
今の時点で普通に動けるのが、ありえないことなのだ。それを可能にしたのが、目の前にいるほわっとした雰囲気を持つ彼女だ。感謝してもし切れない。
「それに、小野川も。ありがとう。君等が来てなかったら、俺は死んでたかもしれない」
小野川にも頭を下げる。
「ああ。こっちも、もっと早く駆けつけてればよかったんだがな」
「命があるだけ儲け物だよ」
「そう言ってもらえるとありがたい」
苦笑するクールビューティーってのもいいもんだね。
大変いいものなんだが、しかし、俺にはそれより気になるものがある。
「ところで、俺が気絶してからどうなったの? それに、これは一体何事?」
「――あぁ」
「ッ!?」
明らかに小野川の様子が変わった。そう、あの時、この場で行われていた戦闘時より上の緊張感。
「神崎が気絶した後、あいつには逃げられた。そのおかげで、こうゆっくりもできるんだがな」
小野川は忌々しそうに語った。あの視界が悪い中なら仕方ないとも言えるが、彼女にとったら許せないことなのだろう。
「後、今日の出来事だが――」
来た。今日の出来事、あの戦闘、俺が一番気になっている出来事だ。
小さい頃も憧れていた、まさに魔法のようなもの。次の言葉を待つ俺は、自然と力が入ってくる。
しかし、次に小野川の口から出た言葉は、俺の期待しているようなものではなかった。
――――忘れろ
視線を宮野から外し、机の上に向ける。真新しい様子の机だ。ピカピカである。
今でも一瞬で昨夜のことを細部まで思い出せる。嫌な面、狂気と、拒絶もだ。
なんで、と聞いたら、『忘れろとは言わんが、何も知らない一般人が、これ以上関わろうとするな』と言われてしまった。
あの言葉を聞いたときは、思わず呆然としてしまった。
今考えると、確かに何も知らない一般人の俺が関わったところで、邪魔にしかならないのは間違いない。
それにあのひょろすけが襲ってきたら? というのに対しては、話を聞く限りだと、適当に俺を選んだみたいだし、また襲いかかってくるかもしれないが、その可能性は低いだろうと判断していた。実際、目についたから俺を襲ってきた、みたいな感じであった。
それに、あれだけ消耗していては、数日は動けないだろうとのこと。制服から隣町の高校に通っている(ちゃんと登校しているかは不明だが)ことも分かったし、小野川たちがひょろすけの体力が戻る前に何とかするとも言っていた。どうやって何とかするのか、非常に気になるところだが、関わるな、と言われた以上、何も知らない俺は関わるべきことではないのだろう。しかし、だ。俺も人の子だし、気になるものは気になる。
「ふぅ」
おかげでため息が朝から止まらん。
「どうしろってーの……」
迷惑だし、危ないし、関わらない方がいいという理性と、あのひょろすけにやられっぱなしでいいのか?それに、あれはなんだったのだ? という欲求の板挟み。
正直、辛い。
天に昇った満月は曇天に隠れ、街中にある街頭だけが頼りの薄暗く人気のない住宅街を、ボロボロになった制服の少年――(統夜によれば)ひょろすけがヨロヨロと歩き回っていた。
「ハァッ、ハァッ……」
昨夜の戦闘で満身創痍になっていた彼は家にも帰らず、町をうろうろと漂っていた。既に財布の中にあったなけなしの小金も昼ごろには尽きており、それから一切なにも口にしていない彼は、昨日よりさらに窪んだ目、まさに幽鬼ともいえるような、やつれた顔になっていた。
「チクショウッ! アイツ等がっ、アイツ等がぁっ!」
昨夜の出来事は彼のプライドに傷をつけた。
自分より弱いくせに、馬鹿みたいに逃げ回っていた統夜を、追い詰めはしたものの仕留めきれなかった。それに途中邪魔をしてきたあの悠と小春の二人にも、理不尽な逆恨みを向ける。
「どいつもこいつも俺の邪魔をしやがってぇぇぇぇ!!」
電柱に殴りかかろうとするも、痛いのは自分と僅かな理性が抑制を掛け、力なく電柱を叩いた少年は、勢いだけは良く叫んだ。
「クソがぁっ!!」
「おやおや、穏やかではありませんねぇ」
「ああ!?」
背後から掛けられた人を小バカにしたような言葉に、血走った目を背後の暗闇に向ける。
カツカツカツッと足音を立てて暗闇から現れたのは、歳は三十路を迎える頃だろうか。逆三角形を思わせるような造形をした顔に、闇夜の中に異端の様に映える白衣を纏った学者風の男。
「おまえ……どういうことだよっ! 誰にも負けない強大な力を得るんじゃなかったのかよっ!?」
少年は学者風の男に詰め寄りる。
男は怯むことなく何を当然のことを、と呆れた風に首を振る。
「"異能"を持っているのは相手も同じ。基本的に1人と2人では2人が勝つに決まっているじゃないですか」
「くっ、だったらなんでも良い! なんとかすることは出来ないのかよっ!!」
暗に男が、昨日の出来事を知ってるということと、少年を小馬鹿にしたことを言っていたのだが、激高した少年がそれに気づくことはない。
「ふむ……ないことは、ないですよ」
「だったら何でもいいからさぁっ!!」
だからこれも気づくはずもなかった。少年自身を見る男の、まるでゴミのように価値の無いものを見るかのような目に。
「その代わり、と言ってはなんですが――」
「なんだっ!?」
少年のその言葉を聞いた男は、気付かれないくらい小さく口の端を上げた。
ただいま意向錯誤中。
アドバイス、変だろこれ、分かり辛い、誤字脱字などなどありましたら、ご報告していただけたら幸いです。