殿下に「お前に興味はない」と婚約破棄されるも、変装して夜会に出たら殿下に一目惚れされました
庭園の白薔薇が、夜風に揺れていた。
王宮の奥まった一角にあるこの庭は、王族が私的な逢瀬に使う場所として知られている。甘い逢引きの舞台であるはずのその場所で、エレーヌ・ド・ロシュモンは、甘さとは程遠い言葉を聞かされていた。
「お前に興味はない。婚約は破棄する」
第二王子オーギュスト・ヴァン・ブリュンネルは、月明かりの下でそう宣言した。金髪が銀色に光り、碧い瞳にはどこか酔ったような高揚感が浮かんでいる。自分が今、大いなる決断を下した英雄であるとでも思っているのだろう。
オーギュストの半歩後ろに控えているのは、銀髪に紫の瞳の令嬢――ベアトリス・フォン・アッシェンバッハ。一年前に帝国から留学してきた伯爵令嬢で、この数ヶ月、オーギュストの傍を離れなかった人物である。ベアトリスは今、潤んだ大きな瞳でオーギュストの袖をそっと握り、震える声で囁いた。
「わたくしのせいで……ごめんなさい、エレーヌ様……」
その涙は、まるで朝露のように美しく頬を伝っている。一滴も無駄にしない、完璧な泣き方だった。
エレーヌは、その涙を見ながら、心の中で冷静に思った。
(――あの涙、右目から流すか左目から流すか、鏡の前で練習したのかしら)
三年間。エレーヌはこの王子の婚約者として過ごしてきた。政略結婚ではあったが、誠実に務めを果たそうとした三年間だった。
オーギュストが提出期限を三日過ぎた外交書簡を、徹夜で草案から書き直したのは七回。社交の場での失言を事後処理したのは十二回。期末試験の前に参考資料をまとめて渡したのは六回。隣国の大使に対する非礼を、先回りして謝罪の手紙を送ることで帳消しにしたのは四回。オーギュストが「優秀な第二王子」という評判を保てていたのは、その全てがエレーヌの手によって、一つの綻びもなく処理されていたからだ。
そしてオーギュストは、その事実に一度も気づかなかった。
当然だろう。全てが滞りなく回っていれば、それは「当たり前」に見える。歯車が噛み合って静かに回転している機械の内部を、誰がわざわざ覗き込むだろうか。
エレーヌは深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
怒りは、ある。悔しさも、ある。だがそれ以上に、身体の奥底から湧き上がってくるのは――疲労感だった。三年分の、途方もない疲労感。
「承知いたしました、殿下」
エレーヌは静かに答えた。声は凪いだ湖面のように平らかだった。
「三年間、お世話になりました」
オーギュストが目を見開いた。明らかに、この反応は想定外だったらしい。泣いてすがりつくか、怒り狂って暴言を吐くか、せめて理由を問い詰めるか。そのいずれかを予想していたのだろう。婚約破棄を告げる王子に対して、婚約者がどんな反応をするかという「台本」が、彼の頭の中にはあったに違いない。
だがエレーヌは、その台本通りには動かなかった。三年間、王子の台本通りに動き続けた女は、最後の最後で、自分の台詞を選んだのだ。
「……それだけか?」
オーギュストの声には、拍子抜けした響きがあった。
「ええ。それだけですわ」
エレーヌは完璧な角度で一礼すると、踵を返した。白薔薇の香りが、背中に纏わりつく。
(ああ、やっと終わった)
その一言だけが、心の中を満たしていた。
ロシュモン侯爵邸に戻ったエレーヌを待っていたのは、暖炉の前の安楽椅子に座る一人の老婦人だった。
オーレリア・ド・ロシュモン。先代侯爵夫人にして、かつて「社交界の女帝」と呼ばれた伝説的な存在。銀髪を高く結い上げ、翡翠色の瞳――エレーヌと同じ色の瞳――で、孫娘を迎え入れた。
「遅かったわね。紅茶が冷めてしまったわ」
オーレリアは、まるで孫娘が散歩から帰ってきただけのような口調で言った。だがその瞳は、全てを見透かしている。
エレーヌは祖母の向かいに腰を下ろし、冷めた紅茶を一口飲んだ。
「殿下に婚約を破棄されました」
「あらまあ」
オーレリアの「あらまあ」は、驚きではない。確認である。
「理由は?」
「ベアトリス・フォン・アッシェンバッハ様と真実の愛を見つけたそうです」
「あらまあ」
二度目の「あらまあ」は、明らかに呆れを含んでいた。オーレリアは暖炉の火を見つめながら、優雅にため息をついた。
「真実の愛。十九歳の男の子が使うには、少々重い言葉ね。自分の靴紐もまともに結べない子が」
「おばあさま、靴紐くらいは結べますわ」
「あら、そうだった? 外交書簡の期限も覚えられない子が靴紐を結べるなんて、人間というのは不思議なものね」
エレーヌは小さく笑った。こういうとき、祖母の毒舌は心地よかった。同情でも慰めでもなく、ただ事実を事実として、辛辣に、しかし温かく述べてくれる。
オーレリアは紅茶のカップを置き、エレーヌの目をまっすぐに見た。
「それで。次はどうするの?」
その問いに、エレーヌは一瞬だけ目を伏せた。暖炉の炎が、翡翠色の瞳に揺れている。
三年間、エレーヌは「王子の隣にふさわしい令嬢」であり続けた。ドレスの色は宮廷指導官に選ばれた。「殿下より目立ってはなりません」と言われ、いつも淡い水色か薄紫か、存在を主張しない色ばかりを着せられた。髪型も同様だ。エレーヌの母から受け継いだ赤銅色の髪は、「王子の金髪と並んだときに調和しない」という理由で、常にきつく結い上げるよう指導された。会話の仕方さえ制限されていた。「王子の意見をまず立て、それに沿う形で発言すること」。
エレーヌの母は、エレーヌが十歳のときに病で亡くなった。父は外交特使として一年の大半を国外で過ごしている。エレーヌを育てたのは、実質的にこの祖母だった。オーレリアは孫娘に社交術を、情報の扱い方を、交渉の技術を――そして「自分自身であること」の大切さを教えてきた。だがエレーヌは婚約者となったことで、祖母の教えの最後の一つだけを、三年間封印せざるを得なかった。
顔を上げる。
「まず、髪を下ろします」
オーレリアは――今夜初めて――微笑んだ。
それは「社交界の女帝」としての笑みではなく、孫娘の決意を見届けた祖母の、静かな喜びの笑みだった。
「そう。ようやくね」
オーレリアは安楽椅子から立ち上がり、暖炉の上に飾られた肖像画を見上げた。そこに描かれているのは、若き日のオーレリア自身――赤銅色の髪を下ろし、深紅のドレスを纏い、翡翠の瞳を輝かせた、かつての「女帝」の姿だった。
「あなたに見せたいものがあるわ。あの頃の仕立て師がまだ現役でね」
「おばあさま、まさか」
「仮面舞踏会は一週間後でしょう? ちょうどいいわ」
オーレリアの目が、悪戯を企む少女のように光った。
~~~
卒業式典は、恙なく終わった。
「恙なく」というのは、あくまでエレーヌにとっての話である。社交界にとっては、第二王子と侯爵令嬢の婚約破棄は格好の話題だった。式典の間中、エレーヌの背中には無数の視線が突き刺さっていた。同情、好奇、あるいは「やはり」という納得の色を帯びた視線。
「あらエレーヌ様、お辛かったでしょうに」
「でもベアトリス様はお綺麗ですものね。殿下がお心変わりされるのも……」
「ロシュモン家も大変ですわね。お父様が不在がちでは……」
茶会の席で、令嬢たちの言葉は表向き同情の形をとりながら、その実、蜜の匂いのする好奇心をたっぷりと含んでいた。エレーヌはそのすべてに完璧な微笑みで応じた。三年間で鍛え抜かれた「表情管理」の技術は、こういうときにこそ役に立つ。
だが、唯一本音を見せられる相手がいた。
「ちょっと聞いて! 今日だけで十七人に『お気の毒ですわね』って言われたの、数えたのよ私!」
栗色の巻き毛を揺らしながら早口でまくし立てるのは、ナディーヌ・ラトゥール。王立学園でエレーヌと同室だった親友であり、社交界きっての情報通である。小柄な体に、大柄な正義感と、それ以上に大柄な好奇心を詰め込んだような少女だった。
「十七人。新記録ね」
「笑い事じゃないわよエレーヌ! しかもそのうち五人は先月ベアトリス様の茶会に出席していた人たちなの。手のひらを返すにもほどがあるわ」
エレーヌは窓辺に頬杖をつきながら、小さく息を吐いた。
「ねえナディーヌ。悔しくないと言えば嘘よ。でも、泣くのは一晩で十分だったわ」
「……一晩は泣いたのね」
「枕が乾くまでには二晩かかったけれど」
ナディーヌは唇を噛んだ。この親友が、どれほど王子のために働いてきたか、誰よりも近くで見てきたのは自分だ。試験前に徹夜で資料をまとめるエレーヌの横で、何度紅茶を淹れたか分からない。
「それでね」とエレーヌは、少しだけ声のトーンを変えた。何か面白いことを企んでいるときの声色だ。「仮面舞踏会に出ようと思うの」
ナディーヌの目が丸くなった。
「仮面舞踏会に? 婚約破棄の直後に?」
「直後だからこそ、よ。身分を隠せる唯一の公式行事でしょう? 誰にも遠慮せず、自分の社交を楽しめる夜。三年間ずっと待っていた夜だわ」
「……復讐するの?」
「いいえ」
エレーヌは窓の外に目をやった。春の陽光が、ロシュモン家の庭の薔薇を照らしている。
「復讐なんてしないわ。ただ――殿下のことは、もう視界にも入れないつもり。私は私の夜を楽しむだけよ」
仮面舞踏会まであと三日。
ロシュモン侯爵邸の一室で、仕立て師のマダム・テレーズが、エレーヌの寸法を測っていた。白髪混じりの髪を後ろで束ねた小柄な老女で、オーレリアの現役時代からの付き合いだという。
「オーレリア様のお若い頃にそっくりですわ」
マダム・テレーズは感嘆の声を上げた。測定テープを首に巻いたまま、エレーヌの赤銅色の髪を指で梳く。
「この髪を結い上げていたなんて、犯罪ですわよ。よろしいですか、お嬢様。髪は下ろしなさい。あなたの武器はこの色です」
「宮廷指導官には、王子の金髪と調和しないと言われましたわ」
「調和? 調和ですって?」マダム・テレーズは鼻を鳴らした。「赤銅と金は最高の組み合わせですわよ。その指導官は色彩感覚がないのか、それともあなたが目立つのが困る誰かの指示で言ったのか、どちらかですわね」
エレーヌとオーレリアの目が合った。祖母は優雅にウィンクした。
ドレスは深紅。エレーヌの赤銅色の髪と翡翠の瞳に映える、炎のような赤。三年間の「控えめな水色」とは対極の色だ。デザインは大胆でありながら品を失わない、マダム・テレーズの真骨頂とも言える仕上がりだった。
髪型はナディーヌが担当した。「私、こういうの得意なの!」と主張するナディーヌは、実際に器用だった。赤銅色の髪を下ろし、緩やかな巻きを加え、片方だけを耳にかける。そこにオーレリアから譲られた翡翠のイヤリングを添えた。
鏡の前に立ったエレーヌを見て、ナディーヌが息を呑んだ。
「……エレーヌ、あなた、こんな顔だったの?」
「失礼ね。毎日見ていたでしょう」
「見てたけど、見てなかったわ。だってこれ――全然違う人みたい」
全然違う、わけではない。ただ、三年間閉じ込められていたものが、ようやく外に出ただけだ。控えめな色のドレスと、きつく結い上げた髪と、王子の半歩後ろに立つ姿勢。それらの奥に隠されていた本来のエレーヌ・ド・ロシュモンが、鏡の中に立っている。
オーレリアは満足げに頷いた。
「仕上げに、これを」
祖母が差し出したのは、銀の仮面だった。細やかな蔦の意匠が施された、美しい仮面。かつてオーレリア自身が使っていたものだという。
「身分を隠す仮面ではあるけれど」オーレリアは孫娘の目を見据えた。「今夜に限っては、あなたの本当の顔を見せるための仮面よ」
――仮面の夜。
王宮の大広間は、幾千もの蝋燭の光で黄金色に輝いていた。天井から吊るされた水晶のシャンデリアが虹色の光を散らし、壁面の鏡がそれを無限に反射する。仮面を着けた紳士淑女が行き交い、楽団の奏でる旋律が空気を満たしている。
年に一度、身分を隠して参加できるこの舞踏会には、国内の貴族だけでなく、各国の外交官や他国の賓客も多数出席する。仮面の下では誰もが対等になるという建前があり、それゆえに普段の序列を超えた会話や出会いが生まれる場でもあった。
エレーヌが会場に足を踏み入れた瞬間、周囲の空気が変わった。
深紅のドレスに赤銅色の髪。銀の仮面の奥で、翡翠の瞳が蝋燭の光を反射して輝いている。三年間封じていた祖母仕込みの社交術を、エレーヌは今夜、解き放つ。
最初に声をかけてきたのは、東部辺境の領主らしき壮年の男性だった。エレーヌは軽妙な挨拶で応じ、辺境の産物について二言三言交わしただけで、相手を上機嫌にさせた。次に近づいてきた外国の夫人とは、刺繍の話題から両国の織物産業の比較へと話を発展させ、夫人を感心させた。
会話の間合い、視線の配り方、笑いの取り方、話題の転がし方。それらは全てオーレリアから受け継いだ技術だったが、今夜のエレーヌにはそれ以上のものがあった。自由だ。「王子の隣にふさわしい控えめさ」という枷が外れたことで、エレーヌ本来の知性と機転と温かみが、何の制約もなく発揮されている。
会場の一角にいたナディーヌは、情報収集係として各所を巡りながら、親友の変貌を目の当たりにしていた。
(すごい……。エレーヌの周り、人だかりになってる)
そしてその人だかりの中に、一人の青年が加わった。
「失礼。少しお話に加わってもよろしいでしょうか」
穏やかな低い声。黒髪に灰色の瞳。黒い仮面の下に、かすかな笑みを浮かべている長身の青年だった。
「もちろんですわ。どうぞ」
「先ほどの織物の話、大変興味深く拝聴しておりました。東部辺境の染色技術は、我が国でも注目されているのですが、流通経路に課題があるという指摘は初めて聞きました」
「あら、お詳しいのですね。どちらの国の方かしら」
「帝国の者です。外交の末席を汚しております」
ニコラ・ベルトラン。帝国の若手外交官にして、帝国宰相家の三男。エレーヌはまだその名を知らない。だが、この青年の目が真剣であること、知性と誠実さを兼ね備えていることは、数秒の会話で感じ取れた。
二人の会話は外交論から文化論へ、文化論から教育制度の比較へと広がり、気がつけば周囲の人間が会話に聞き入っていた。ニコラはエレーヌの知識の広さに感嘆し、エレーヌはニコラの視野の広さに好感を持った。
「あなたは不思議な方だ」とニコラは言った。「この国の社交界で、これほど率直に話ができる方に出会ったのは初めてです」
「率直が過ぎると嫌われるものですわ、普通は」
「普通を基準にする必要がどこにありますか」
エレーヌは少し目を見開き、それから仮面の下で微笑んだ。三年間、「普通」と「ふさわしさ」の中に押し込められていた自分にとって、その言葉は不思議なほど心に沁みた。
そのとき、楽団が新しい曲を奏で始めた。ワルツだ。
「一曲いかがですか」
声をかけてきたのは、ニコラではなかった。
金髪に碧い瞳。青い仮面をつけてはいるが、その背格好と声で分かる。第二王子オーギュストだった。
エレーヌは一瞬、心臓が跳ねるのを感じた。だがそれは恋の残り火ではない。驚きと、それからじわりと込み上げてくる皮肉な可笑しさだった。
(この人、私だと気づいていない)
当然だろう。オーギュストが知っているエレーヌは、淡い水色のドレスを着て、赤銅色の髪をきつく結い上げ、常に半歩後ろに控えている「地味な婚約者」だ。深紅のドレスに髪を下ろした今のエレーヌは、オーギュストの記憶の中のエレーヌとは重ならない。
三年間、すぐ隣にいたのに。一度も、見ていなかったのだ。
「……一曲だけ、お付き合いいたしますわ」
なぜ受けたのか、自分でも分からない。確認したかったのかもしれない。この距離で、本当に気づかないのかどうかを。
オーギュストの手がエレーヌの腰に添えられ、ワルツが始まった。
オーギュストのダンスは、相変わらず上手くなかった。リードが微妙にずれるのを、エレーヌは自然に補正する。三年間のダンスレッスンで身についた癖だ。
「君はダンスが上手いな」
「お相手が良いのですわ」
(嘘。あなたのリードは三年前から全く進歩していない)
「……名前を教えてくれないか」
オーギュストの碧い瞳が、仮面の奥のエレーヌを真剣に見つめていた。頬がわずかに紅潮している。声が、少しだけ震えている。
(ああ、この人はこういう顔をするのか)
エレーヌは不思議な気持ちだった。三年間婚約者だったのに、オーギュストのこんな表情を見たことがなかった。必死で、不器用で、少年のような――恋をしている人間の顔。
それを、かつての婚約者ではなく、仮面をつけた見知らぬ女に向けているという事実が、悲しいのか滑稽なのか、エレーヌには判断がつかなかった。
「名前を教えてくれ。いや、教えてくれるまで俺はここを動かない」
オーギュストが真剣な声で言った。曲はもう終わっている。二人はフロアの中央で立ち止まっている。周囲の目が集まり始めていた。
「素敵な一曲でしたわ」
エレーヌはそっとオーギュストの手を外した。
「では、失礼いたします」
「待ってくれ——」
エレーヌは振り向かなかった。深紅のドレスの裾を翻し、人混みの中へ滑り込む。オーギュストが追おうとするが、仮面舞踏会の群衆は彼女をあっという間に飲み込んだ。
エレーヌがニコラのもとに戻ると、彼は穏やかな笑みで迎えた。
「大変な人気ですね」
「仮面舞踏会の魔法ですわ。仮面を外せば解ける類の」
「それはどうでしょう」ニコラは灰色の瞳を細めた。「仮面は隠すだけでなく、普段隠しているものを露わにすることもあります」
エレーヌは少し驚いてニコラを見た。この青年は、何気ない言葉の端に、やけに本質を突いたことを言う。
「お茶でもいかがですか」とニコラは言った。「もちろん、今夜ではなく。日を改めて」
「……ええ、喜んで」
仮面の夜が明ける。エレーヌは銀の仮面を外しながら、自分の頬が心地よく火照っていることに気づいた。三年ぶりの、自分のための夜。楽しかった。心から。
会場の片隅で、オーギュストは赤髪の令嬢が消えた方角を、まだ見つめていた。
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仮面舞踏会の翌日から、オーギュストの生活は二つの方向で破綻し始めた。
一つは、「赤髪の令嬢」への執着。オーギュストは側近を呼びつけ、あの女性の正体を調べるよう命じた。だが仮面舞踏会には参加者名簿がない。それがこの夜会の伝統であり、意義でもある。
「殿下、手がかりは赤銅色の髪と深紅のドレスだけでは……」
「あとは翡翠色の瞳だ。声は……そう、落ち着いた声だった。それから、ダンスが上手い。異常に上手い。俺のリードを完璧に補正していた」
側近は内心で思った。殿下のリードを補正できる女性ならば一人心当たりがありますが、とは言えなかった。
もう一つの破綻は、公務だった。
エレーヌの不在は、翌日から効いてきた。まず、北部辺境伯への返礼書簡の期限が過ぎていることに誰も気づかなかった。次に、来月の園遊会の招待リストが未作成であることが発覚した。そして、三日前にオーギュストが受け取ったはずの帝国からの親書が、書斎のどこかに埋もれて行方不明になった。
これらは全て、かつてはエレーヌが管理していた事項だった。
ベアトリスは「わたくしがお手伝いいたしますわ」と申し出た。だが、外交書簡の書式を知らず、貴族の序列も正確に把握していない彼女の「手伝い」は、状況を改善するどころか悪化させた。北部辺境伯への書簡で爵位の表記を間違え、園遊会の招待リストでは対立関係にある二家を隣の席に配置しかけた。
「ベアトリス、ラントベルク公爵家とオルテガ伯爵家は同じテーブルにしてはならない。五年前の領地紛争以来、口もきかない仲だ」
「まあ……存じませんでしたわ。わたくし、留学生ですもの……」
ベアトリスが潤んだ瞳で見上げてくる。オーギュストは苛立ちを飲み込み、「いい。俺がやる」と言ったが、彼自身もこれらの事情を知らなかった。知らなくても、これまでは問題なかったのだ。エレーヌが全て処理していたから。
(エレーヌは……どうやってこれを管理していたんだ?)
初めて浮かんだその疑問を、オーギュストは振り払った。
社交界では、別の波が立っていた。
「仮面舞踏会で殿下が一目惚れなさった赤髪の令嬢」。その噂は、まるで野火のように広がっていた。
火元はナディーヌだった。
「ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ話したのよ。親しいお友達に三人だけ」
「ナディーヌ、あなたの『三人だけ』は三十人に等しいと何度言えば」
「だって! 殿下が赤髪の方を追いかけ回していたのは事実でしょう? ベアトリス様を放置して! これを黙っていろというの?」
エレーヌは額を押さえた。だが正直なところ、この噂はエレーヌにとって悪くない流れだった。「婚約破棄された可哀想な令嬢」という憐れみの視線が、「赤髪の令嬢とは一体誰なのか」という好奇の視線に変わりつつある。そして正体が明かされたとき、その好奇は驚嘆に変わるだろう。
ロシュモン侯爵家主催の茶会は、仮面舞踏会の五日後に開かれた。
これは元々予定されていた定例の茶会だったが、時期が時期だけに、出席者の数は通常の倍に膨れ上がった。全員が同じことを確かめに来ている。赤髪の令嬢の正体を。
エレーヌは、翡翠色のドレスを纏って現れた。深紅ではない。だが、赤銅色の髪は下ろしたままだ。緩やかな巻きが肩に流れ、翡翠のイヤリングが光を弾く。
出席者の間を、ざわめきが走った。
「あの髪……」
「まさか、あの夜の——」
一人、また一人と、点と点が線でつながっていく。赤銅色の髪。翡翠の瞳。仮面舞踏会の夜に会場を席巻した「赤髪の令嬢」。その正体が、王子に婚約破棄されたばかりのロシュモン侯爵令嬢だという事実が、静かな衝撃となって広がっていく。
「ああ、エレーヌ様、本日は髪をお下ろしに? とてもお似合いですわ」
声をかけてきた令嬢の目が泳いでいる。エレーヌは完璧な微笑みで応じた。
「ええ。ようやく、好きな髪型ができるようになりましたの」
その「ようやく」の意味を、聡い者は正確に理解した。
茶会の半ばで、招かれざる客が現れた。
オーギュストは本来この茶会に招待されていない。だが噂を聞きつけ、側近を一人だけ伴って姿を現した。会場に足を踏み入れた瞬間、その視線が一直線にエレーヌを捉えた。
赤銅色の髪。翡翠の瞳。あの夜とは違うドレスだが、纏う空気は同じだ。
オーギュストの足が止まった。顔から、一切の色が消えた。
「……お前、なのか?」
掠れた声が、茶会の喧騒の中に落ちた。
エレーヌは翡翠色のドレスの裾を軽く摘まんで、完璧な一礼をした。
「ご無沙汰しております、殿下。お元気そうで何よりですわ」
声。仮面の夜に聞いた、あの落ち着いた声。あの夜のダンスの感触が、オーギュストの手のひらに蘇る。自分が一晩中追いかけた赤髪の令嬢が、一週間前に「興味がない」と切り捨てた元婚約者だったという事実が、遅れて脳に到達する。
オーギュストの顔が、みるみる赤くなった。
さらに追い打ちをかけるように、エレーヌの傍らに一人の青年が立っている。黒髪に灰色の瞳。穏やかな笑みを浮かべた長身の青年――ニコラ・ベルトランだった。仮面舞踏会の夜に約束した「お茶の席」が、この茶会だったのだ。
「エレーヌ嬢、先日の外交論の続きをぜひ」
「ええ、ニコラ様。帝国の通商条約について、少しお聞きしたいことがありましたの」
二人の間に流れる、自然な親しさ。知的な会話を楽しむ者同士の、軽やかな空気。
オーギュストは、その光景を前に、立ち尽くすことしかできなかった。
ベアトリスが隣で顔を青くしていることにすら、気づかないままに。
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茶会の翌日、オーギュストの執務室の机の上には、未処理の書類が三十七通積まれていた。
そのうち十二通は期限超過、五通は至急の対応が必要、三通は内容を理解するために過去の書簡との突き合わせが必要だった。かつてエレーヌがいた頃、この机の上に書類が二通以上積まれることはなかった。彼女は毎朝、書類を「至急」「重要」「定型」に分類し、至急のものには付箋で要約を添え、定型のものには返信の雛形まで用意していた。
オーギュストはその事実を、今になって初めて知った。いや、正確には、「知らなかったことを知った」のだ。
「殿下、帝国大使からの催促が来ております」
側近が、申し訳なさそうに報告する。
「何の催促だ」
「先月の通商会議の議事録確認の件です。期限が二週間前に——」
「二週間前!? なぜもっと早く言わない!」
「申し上げました。三回ほど。ですが殿下は『後でやる』と……」
オーギュストは口をつぐんだ。「後でやる」。彼の口癖だ。そしてかつて、その「後で」を拾い上げ、期限内に全て処理していたのがエレーヌだった。
オーギュストは手元の書類の束を見下ろした。書類の一枚一枚が、自分の無能を証明する証拠品に見えた。
父王からの叱責は、すでに三度を数えていた。最後の叱責では、国王は露骨にこう言った。
「ロシュモン侯爵令嬢には、まだ宮廷に戻っていただけぬのか」
婚約を破棄したのはオーギュスト自身である。にもかかわらず、宮廷がエレーヌの帰還を求めているという事実が、どれほどオーギュストの自尊心を傷つけたか、本人以外には想像もつかないだろう。
一方のエレーヌは、祖母の邸で穏やかな日々を送っていた。
穏やかではあったが、退屈ではなかった。茶会の招待状は毎日のように届き、ニコラとの書簡のやり取りも続いていた。彼の手紙はいつも知的で、丁寧で、そしてどこか温かかった。外交論だけでなく、帝国の季節の花の話や、帝都の市場で見つけた珍しい香辛料の話など、硬軟取り混ぜた内容が心地よかった。
ある午後、ニコラがロシュモン邸を訪れた。
「少し、お伝えしたいことがあります」
庭園の東屋で向かい合い、ニコラは穏やかな声のまま、しかし慎重に言葉を選んで話し始めた。
「ベアトリス・フォン・アッシェンバッハ嬢のことです」
エレーヌは紅茶のカップを置いた。
「彼女が留学してきた理由は、学問のためではありません」
ニコラの話はこうだった。ベアトリスの実家であるアッシェンバッハ伯爵家は、帝国内の派閥争いに敗れ、現在は深刻な窮地にある。領地の半分を没収され、宮廷での発言権も剥奪された。ベアトリスの留学は、表向きは学業だが、実態は王家との婚姻によって家の再興を図るという密命を帯びたものだった。
「彼女は本国でも、同様の手法で別の貴族子息に近づいています。男爵家の嫡男と婚約まで漕ぎつけましたが、経歴の詐称が発覚して破談になりました」
「……経歴の詐称?」
「アッシェンバッハ伯爵家の現在の爵位と領地の状況について、虚偽の説明をしていたようです。没収された領地をまだ所有しているかのように見せかけていた。つまり、オーギュスト殿下への『真実の愛』は——」
「最初から計算だった、と」
エレーヌの声は平坦だった。驚きはない。ベアトリスの涙が「練習された涙」であることは、最初から感じていた。だが感覚と事実は違う。こうして裏付けを得ると、胸の中に浮かぶのは怒りでも溜飲でもなく、奇妙な虚しさだった。
「この情報を、どうされますか」とニコラは静かに問うた。
エレーヌは庭の薔薇を見つめた。母が好きだった白薔薇が、午後の日差しの中で咲いている。
「暴露すれば、ベアトリス様は一瞬で終わるでしょうね」
「そうでしょう」
「でも、それは私がすることではないわ」
ニコラが少し目を見開いた。
「理由を聞いてもよろしいですか」
「同じ土俵に降りたくないのよ」
エレーヌは紅茶を一口飲んだ。
「ベアトリス様は嘘と涙で人を動かす人。私がもし彼女を暴露したら、今度は私が『婚約破棄の恨みで元恋敵を貶めた嫉妬深い女』になるわ。そんな役柄は御免ですわ」
ニコラは数秒の沈黙のあと、小さく笑った。
「あなたは、自分が思っている以上に外交官に向いています」
「褒めていますの?」
「最大級に」
エレーヌが選んだ方法は、直接的な暴露ではなかった。
彼女は三年間かけて作成・管理してきた公務記録の「引き継ぎ書類」を、正式な文書として宮廷に提出したのである。
表向きの名目は「婚約解消に伴う業務の円滑な引き継ぎ」。至極事務的な手続きだ。だが、その書類の内容が宮廷に与えた衝撃は、どんな暴露よりも大きかった。
外交書簡の草案テンプレート——百二十通分。各国貴族の人物相関図——三つの大国にまたがる複雑な関係図が、注釈つきでまとめられている。王子の日程管理表——過去三年分が月単位で整理されていた。過去の失言記録とその修復対応——日時、場所、関係者、対応策、結果、全てが記録されている。
宮廷官僚は、その書類の束を前に絶句した。
「これを……お一人で?」
「ええ。婚約者としての務めの一環でしたので」
エレーヌは淡々と答えた。
「引き継ぎが遅くなり、申し訳ございません。本来は婚約解消の翌日にお渡しするつもりでしたが、最終確認に少々お時間をいただきました」
宮廷官僚は書類をめくる手が震えていた。一ページ一ページが、エレーヌの三年間の仕事の痕跡であると同時に、現在の宮廷がいかに機能不全に陥っているかの証明でもあった。
そしてこの書類が宮廷に回覧されることで、もう一つの事実が明白になる。ベアトリスがこれらの業務を一切引き継げていないということだ。引き継ぎ書類の存在そのものが、「前任者と後任者の能力差」を無言で語っていた。
宮廷の廊下で、官僚たちが囁き合う。
「百二十通の草案テンプレートだぞ。各国の慣習に合わせた書式の違いまで注記してある」
「人物相関図など、我々情報局でも持っていない精度だ」
「それを一介の婚約者が、独力で……」
エレーヌは一切手を汚していない。ただ事務的な引き継ぎをしただけだ。だが、その「事務的な引き継ぎ」こそが、最も雄弁な反撃だった。
~~~
引き継ぎ書類の衝撃が宮廷を駆け巡った頃、社交界におけるエレーヌの評価は、完全に反転していた。
「婚約破棄された可哀想な令嬢」——その認識は、もはや過去のものだった。代わりに囁かれるのは「王子が手放した有能な令嬢」という評価であり、さらに一部では「王子は自分の右腕を自ら切り落とした」という辛辣な論評すら聞かれた。
各家からの茶会の招待が殺到し、縁談の打診まで届き始めた。ロシュモン侯爵邸の玄関には、毎朝、招待状と花束が山のように届く。
「今日だけで招待状が二十三通、花束が七つ、詩が四編ですわ」
侍女が苦笑しながら報告する。エレーヌは朝の紅茶を飲みながら、詩の一編に目を通して即座に閉じた。
「この詩を書いた方には丁重にお断りしてちょうだい。『紅蓮の髪は燃える情熱の如く』って、私の髪は赤銅色であって紅蓮ではないし、情熱で燃えてもいないわ」
祖母オーレリアが向かいの椅子で新聞を読みながら、くすりと笑った。
「あらまあ、選り好みできる立場になったのね」
「おばあさまが仕込んでくださったおかげですわ」
「私はきっかけを作っただけよ。中身はあなた自身のもの」
穏やかな朝だった。だが、この穏やかさを乱そうとする者がいた。
ベアトリスは焦っていた。エレーヌの評価が上がれば上がるほど、自分の立場が危うくなる。「王子が真実の愛のために選んだ女」という看板が、「王子が有能な婚約者を捨ててまで選んだ、それほどの女」でなければ成立しないからだ。そしてベアトリスには、エレーヌの「引き継ぎ書類」に匹敵する実績など何一つなかった。
ベアトリスが選んだのは、噂という武器だった。
茶会の席で、彼女は同情を誘うような口調でこう語る。
「わたくし、エレーヌ様のことはとても尊敬していますの。でも……お聞きした話では、婚約者時代の殿下はとてもお辛そうでしたわ。エレーヌ様は仕事ばかりで、殿下のお気持ちには寄り添っていらっしゃらなかったとか……」
「ベアトリス様は本当にお優しいのね」
「まあ、わたくしが殿下の傍にいるのは、殿下のお心を支えたいからですもの。仕事だけが婚約者の務めではありませんわ」
ベアトリスの言葉は巧妙だった。エレーヌの能力を認めつつ、「だが人間味がない」という印象を植えつけようとしている。仕事はできるが冷たい女。頭は良いが心がない女。そういう像を作り上げようとしていた。
この噂が広がり始めた頃、王都で大規模な夜会が開かれた。主催はラントベルク公爵家——王国でも屈指の名門であり、この夜会に招かれること自体が社交界での地位を意味する。
エレーヌは招待を受けて出席した。深い翡翠色のドレスに、赤銅色の髪を片方だけ編み込んだ装い。落ち着いた色調だが、もはや「控えめ」とは誰も思わない。エレーヌが纏うのは、控えめさではなく、静かな自信だった。
ベアトリスもオーギュストの同伴で出席していた。淡い桃色のドレスに銀髪を巻き上げた姿は華やかだったが、エレーヌと並ぶと——比較するつもりなどなくても——周囲の目は自然とその差を見比べてしまう。
夜会の談話室で、それは起きた。
ベアトリスがエレーヌの近くで、数名の令嬢たちと談笑していた。声は控えめだったが、エレーヌの耳に届く程度の音量だった。意図的なのかどうか、エレーヌには判断がつかない。
「エレーヌ様は、婚約者としての務めを果たしていらっしゃらなかったのかもしれませんわね。書類の整理は完璧でも、殿下のお心の声には耳を傾けていらっしゃらなかったようですもの……」
周囲の令嬢たちが、ちらりとエレーヌを見る。
エレーヌは紅茶のカップを持ったまま、穏やかに口を開いた。
「ベアトリス様」
ベアトリスが振り向く。エレーヌの声は、何の感情もない。
「一つお伺いしてもよろしいですか?」
「ええ……もちろんですわ」
「殿下の次の外交日程はいつかご存じ?」
ベアトリスの笑顔が、ほんのわずかに固まった。
「……外交日程、ですの?」
「ラントベルク公爵家への返礼書簡の期限は?」
「それは……わたくし、そういった事務的なことは……」
「では、殿下が先月帝国大使に贈られた品物の産地は? あの品は北部辺境の特産品なのですけれど、大使のご出身地とは犬猿の仲の領地のもので、ご存じなければ外交問題になりかねませんわ」
沈黙。
談話室の空気が凍りついた。周囲の令嬢たちが、息を詰めてエレーヌを見ている。
エレーヌの表情に怒りはない。声に嫌味もない。ただ純粋に事実を確認しているだけの口調だ。だからこそ、その言葉は鋭い。
「あら……ご存じないのですね。まあ、婚約者としての務めに対するお考えは、人それぞれですものね」
エレーヌは微笑んだ。完璧な微笑みだった。
「わたくしは、殿下のお心に寄り添うことと、殿下が恥をかかないようお支えすることは、矛盾しないと思っておりました。ですが、ベアトリス様のおっしゃるように、考え方は色々ありますわね」
ベアトリスは唇を開いたが、言葉が出てこなかった。反論しようにも、エレーヌが述べたのは全て客観的事実であり、感情的な攻撃は一切含まれていない。「あなたは仕事ができない」とは一言も言っていない。ただ「ご存じないのですね」と確認しただけだ。
だが、その「ただの確認」こそが、ベアトリスの「殿下のお心に寄り添う」という看板を木端微塵に砕いていた。お心に寄り添うと言いながら、殿下を支える実務を何一つ理解していないのだから。
周囲の令嬢たちの目が変わった。同情の目ではない。評価の目だ。
エレーヌが紅茶を一口飲んだとき、隣でニコラが小声で囁いた。
「あなたは怒っているときほど丁寧になりますね」
「丁寧なのではありませんわ。正確なだけですわ」
ニコラは灰色の瞳を細めて、かすかに笑った。
「それは興味深いですね。外交の世界では、正確さこそが最も残酷な武器ですから」
~~~
ラントベルク公爵家の夜会の一件は、翌日には社交界の隅々まで伝わっていた。
伝えたのはもちろんナディーヌではない。今回は彼女が動くまでもなく、目撃者たちが自発的に語り広めた。「ロシュモン侯爵令嬢がベアトリス嬢を正論で黙らせた」という話は、尾ひれをつけるまでもなく十分に劇的だったからだ。
だが、エレーヌにとっての本当の反撃は、あの夜会での言葉ではなかった。
引き継ぎ書類だった。
あの書類が宮廷を回覧された結果、各部署から次々と報告が上がってきたのだ。「ロシュモン侯爵令嬢の記録によれば、この案件の進捗はここまで進んでいたはず」「この書簡の返信期限は三日前に過ぎている」「この人物相関図に従えば、来月の会議の席順はこう変更すべきだ」——エレーヌが残した記録が、宮廷の業務基盤として機能し始めていた。
皮肉なことだった。エレーヌは宮廷を去ったのに、エレーヌの仕事は宮廷に残り続けている。そしてその仕事の精度と量が明らかになればなるほど、「後任者」であるベアトリスの無能が浮き彫りになっていく。
オーギュストはエレーヌに直接会って話がしたいと申し入れた。手紙をロシュモン侯爵邸に送り、面会を求めた。
返書は二日後に届いた。エレーヌの筆跡で、丁寧に、簡潔にこう記されていた。
「お気持ちは大変ありがたく存じます。ですがわたくしはもう殿下の婚約者ではございませんので、お二人の間に立ち入る理由がございません。殿下のご多幸をお祈り申し上げます」
完璧な拒絶だった。感情的な言葉は一つもない。礼節を尽くし、理路整然としている。だからこそ、つけ入る隙がない。
オーギュストは執務室で、その手紙を何度も読み返した。
「殿下」
側近が、珍しく踏み込んだ口調で言った。
「恐れながら申し上げます。エレーヌ嬢がいなくなって初めてお気づきになったのではありませんか。あの方がどれほど殿下をお支えになっていたか」
オーギュストは答えなかった。側近は静かに続けた。
「エレーヌ嬢は三年間、殿下の影として働いてこられました。殿下がお気づきにならなかったのは、あの方が完璧だったからです。完璧すぎて、存在が見えなかった。空気のように」
「……分かっている」
「では、もう一つ。仮面舞踏会の夜、殿下が一目惚れされた赤髪の令嬢。あの方は、仮面をつけて初めて殿下の目に映ったのではありません。仮面をつけて初めて、ご自身を解放なさっただけです。あの方は最初からあのお姿だったのです。殿下がご覧になっていなかっただけで」
オーギュストは頭を抱えた。
その夜、オーギュストは自室で、エレーヌが残した引き継ぎ書類を一ページずつ読み返した。
書類は事務的に正確で、感情的な記述は一切なかった。だが、その端々に、エレーヌの小さな配慮が添えられていた。
『ランドール男爵は犬が好きなので、犬の話題を出すと打ち解けます』
『この書簡の返信が遅れると辺境伯は不機嫌になりますが、地元の果実酒を贈ると機嫌が直ります』
『この会議は長引く傾向があります。殿下は空腹になると判断力が鈍るので、事前にパンを一つ召し上がっておくことをお勧めします』
最後の一文で、オーギュストは書類を閉じた。
手が、震えていた。
これは業務の引き継ぎなどではなかった。三年間、自分のことを見つめ続けてくれた人間の——自分は一度も見返さなかった人間の——手紙だった。
(俺は——何を捨てたんだ)
その問いに答えてくれる者は、もうこの部屋にはいなかった。
ベアトリスの化けの皮は、エレーヌの手によってではなく、外交の歯車の自然な回転によって剥がれた。
ニコラが本国から取り寄せた情報——アッシェンバッハ伯爵家の窮状と、ベアトリスの過去の破談歴——は、エレーヌの手を経ず、外交ルートを通じて宮廷に届いた。帝国側が自主的に情報を開示したのだ。ベアトリスの行動が両国間の信頼関係を損なう恐れがある、と帝国外務省が判断したためだった。
ベアトリスが本国で男爵家の嫡男に対して行った虚偽の経歴説明、没収された領地を所有しているかのように装った詐術、そして計画的にオーギュストに近づいた経緯。全てが書面として、王宮に提出された。
宮廷の空気が一変した。
「真実の愛」は、外交カードだった。オーギュストが信じた「儚げな令嬢の純粋な想い」は、没落した伯爵家の生存戦略だった。
ベアトリスは宮廷での立場を失い、オーギュストとの婚約話は白紙に戻された。彼女は留学生としての身分も取り消され、本国への帰還を命じられた。
最後の日、ベアトリスは荷造りをしながら、初めて仮面を外した顔を見せた。儚げな微笑みも、潤んだ瞳も、か弱い声も、全て消えていた。残ったのは、紫の瞳に鋭い光を宿した、したたかな女の顔だった。
「あの侯爵令嬢には勝てなかったわ」
誰に言うでもなく呟いたその一言が、ベアトリスの本音の全てだった。
エレーヌがベアトリスの退場を知ったのは、ナディーヌからの手紙だった。
「ベアトリス様が帰国されることになりましたわ! ねえエレーヌ、これで全部終わったのよ!」
エレーヌは手紙を読み、紅茶を一口飲み、小さく息をついた。
「全部終わった」とナディーヌは書いたが、エレーヌの感覚は少し違った。ベアトリスが去ったことへの溜飲は、思ったほど下がらなかった。それよりも、あの書類の引き継ぎが終わり、宮廷との最後の糸が切れたことへの、静かな解放感のほうが大きかった。
三年分の仕事を全て返した。一つ残らず。手元に残ったのは、自分自身だけだ。
それで、十分だった。
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春が深まり、ロシュモン侯爵邸の庭では白薔薇が満開を迎えていた。
エレーヌは祖母オーレリアと、庭に面したテラスで朝の茶を飲んでいた。朝の光の中で、赤銅色の髪が柔らかく輝いている。もう結い上げてはいない。
「宮廷から、また書状が届いたわ」
オーレリアが封書を差し出す。エレーヌは受け取って開封した。
宮廷外交局からの正式な書状だった。内容は、エレーヌを宮廷外交官として登用したいという打診。王子の婚約者としてではなく、その実務能力を買っての正式な官職への招聘だった。宮廷官僚の署名がある。
「婚約者としての復帰ではなく、外交官として、ですわ」
「あらまあ」オーレリアの声には、珍しく感嘆の色があった。「あの頑固な宮廷が、女性を外交官に?」
「前例がないわけではありませんわ。八十年前に一人だけ」
「それが私の友人だったのよ。まさかあなたが二人目になるとはね」
エレーヌは書状を読み返した。条件は悪くない。だが即答はしなかった。
「受けるの?」とオーレリアが問う。
「条件次第ですわ」
「条件?」
「わたくしが求めるのは、誰かの付属品としてではなく、自分の名前で仕事をすること。肩書きが『元王太子婚約者』ではなく『外交官エレーヌ・ド・ロシュモン』であること。それが保証されるなら、喜んでお受けしますわ」
オーレリアは紅茶のカップを掲げた。
「いい条件ね。交渉は私に任せなさい」
「おばあさま、ご自分の出番を作りたいだけでしょう」
「あら、ばれた?」
二人は声を上げて笑った。白薔薇の花びらが、春風に乗ってテラスに舞い込んできた。
ニコラの帰国は、その週末に迫っていた。
ロシュモン邸の庭で、二人は最後の茶を共にした。春の午後の陽光が斜めに差し込み、東屋の中に柔らかな影を作っている。
「外交官への登用、おめでとうございます」
ニコラの声は、いつもと変わらず穏やかだった。
「まだ正式には受けていませんわ。交渉中ですの」
「あなたの交渉なら、宮廷に勝ち目はありませんね」
「おばあさまの交渉ですわ」
「それならなおさらです」
エレーヌは笑った。この数週間で、ニコラとの間に築かれたものは、恋愛と呼ぶにはまだ早く、友情と呼ぶには少し深い、不思議な関係だった。知的な信頼。穏やかな敬意。そして、お互いの言葉を正確に受け取れるという安心感。
「帰国されたら、お忙しくなりますの?」
「宰相家の三男ですから、忙しくもあり、自由でもあります。書簡を書く時間くらいは確保しますよ」
「あら、社交辞令ですか?」
ニコラは灰色の瞳をエレーヌに向けた。
「私が社交辞令を言う人間に見えますか?」
エレーヌは少し目を見開き、それから——仮面舞踏会の夜に、同じ問いかけをされたことを思い出した。あの夜も、同じ瞳で、同じ口調で。そしてあの夜と同じように、その言葉に嘘がないことが分かった。
「いいえ。見えませんわ」
「では」ニコラはかすかに笑った。「外交官になられた暁には、ぜひ帝都にいらしてください。歓迎しますよ。公式にも、個人的にも」
「……考えておきますわ」
エレーヌの頬が、紅茶の湯気とは関係なく、ほんのりと温かくなった。
ニコラが帰国した翌日、エレーヌのもとに一通の手紙が届いた。
差出人は、オーギュスト・ヴァン・ブリュンネル。
手紙の文面は短く、不器用だった。三行の本文と、一つの願い。
『エレーヌ。最後に一度だけ、会って話がしたい。頼む。断る権利があることは分かっている』
エレーヌは手紙を読み、窓の外を見つめた。庭の白薔薇が風に揺れている。
「……一度だけ、ね」
今度は、断らなかった。
面会は、王宮でも侯爵邸でもなく、王都の一角にある小さな公園で行われた。かつてエレーヌとオーギュストが婚約した直後、一度だけ二人で散歩した場所だ。三年前の春。あの日も白い花が咲いていた。
オーギュストは一人で来ていた。側近もベアトリスも伴っていない。金髪が春風に乱れ、碧い瞳には、かつての尊大さの代わりに、疲労と悔恨が宿っていた。
「来てくれたのか」
「殿下のお手紙に、断る権利があると書いてありましたので。わざわざ権利を認めてくださるなら、行使しないでおこうかと」
オーギュストは苦笑した。「相変わらず、お前は……」と言いかけて、口をつぐんだ。
二人はベンチに並んで座った。かつて婚約者だった頃よりも、少しだけ広い間隔を空けて。
しばらくの沈黙のあと、オーギュストが口を開いた。
「引き継ぎ書類を読んだ」
「お読みになったのですね。活用していただければ幸いですわ」
「パンの件が書いてあった」
エレーヌは一瞬、何のことか分からなかった。
「空腹になると判断力が鈍るから、会議の前にパンを食べろ、と」
ああ。あれか。エレーヌは少し気恥ずかしくなった。あの注記は、書類を整理する勢いでつい書いてしまったものだ。事務的な引き継ぎ書類に挟むにはあまりにも個人的な——いや、あれは業務上必要な情報だ。王子の判断力が鈍れば国政に関わるのだから。
「……実務上の助言ですわ」
「ああ。実務上の助言だな」
オーギュストの声が、少し震えた。
「俺は——お前の価値を、何も分かっていなかった」
エレーヌは横目でオーギュストを見た。碧い瞳に浮かんでいるのは、取り繕いのない後悔だった。仮面はない。演技もない。この男がこんなに素直な顔をするのを、エレーヌは三年間で初めて見た。
「謝って済む話じゃないことは分かっている。お前が俺のためにしてくれたこと、全部当たり前だと思っていた。いや、当たり前だとすら思っていなかった。気づいてすらいなかった」
エレーヌは前を向いたまま、静かに答えた。
「殿下。一つだけ訂正させてください」
オーギュストが顔を上げた。
「殿下は『お前に興味はない』とおっしゃいましたわね。でも——」エレーヌは少しだけ間を置いた。「殿下はそもそも、わたくしを一度もご覧になっていなかっただけですわ。興味がある・ないの前に」
オーギュストは口を開き、そして閉じた。反論できなかったのだ。反論する材料がなかったのではない。反論する権利がなかった。エレーヌの言葉が、あまりにも正確に事実を射抜いていたから。
三年間、隣にいた。毎日のように顔を合わせ、言葉を交わし、同じ空間で過ごした。なのに、エレーヌの髪の色すら、きちんと見ていなかった。赤銅色の髪を下ろした姿を、仮面舞踏会で初めて「見た」のだ。三年経って。仮面越しに。
その事実が、どんな罵倒よりも重くオーギュストの胸に落ちた。
エレーヌは立ち上がった。春風が赤銅色の髪を揺らす。
「でも、感謝していることもありますの」
オーギュストが驚いて見上げた。
「殿下に婚約破棄していただけなければ、わたくしはずっと殿下の影で、自分の色を知らないまま過ごしていたでしょうから」
エレーヌは振り向いて、微笑んだ。それは社交用の完璧な微笑みではなく、もっと自然な——少しだけ寂しさを含んだ、本物の笑みだった。
「殿下が手放してくださったからこそ、わたくしは自分の足で立てましたの。ですから、これでおあいこということにいたしましょう」
オーギュストは何か言おうとしたが、言葉にならなかった。目尻に光るものが浮かんでいたが、エレーヌはそれには触れなかった。
「殿下。パンは召し上がってくださいね。会議の前に」
「……ああ」
エレーヌは一礼して、公園を後にした。振り向かなかった。振り向く必要がなかった。
白い花びらが、エレーヌの後を追うように風に舞った。
夕暮れ。ロシュモン侯爵邸。
エレーヌは自室で、来週の夜会のドレスを選んでいた。
今度の夜会は、宮廷外交局の歓迎会を兼ねている。エレーヌの外交官としての正式な登用が決まったのだ。オーレリアの交渉は完璧だった。肩書きは「宮廷外交官エレーヌ・ド・ロシュモン」。「元王太子婚約者」の文字はどこにもない。
衣装棚を開けると、深紅、翡翠、群青、琥珀——鮮やかな色のドレスが並んでいる。三年前の衣装棚にはなかった色たちだ。淡い水色のドレスは、先月まとめて仕立て直しに出した。もう着ることはないだろう。
ドアをノックする音がして、ナディーヌが飛び込んできた。
「エレーヌ! 来週の夜会のドレス、もう決めた?」
「今まさに選んでいるところよ」
「何色にするの? ニコラ様への手紙にも書いたでしょう、次はどんな装いかって。あの方、きっと気にしていらっしゃるわ」
「ナディーヌ、あなたの想像力は小説家になれるわね」
「褒めてないでしょう!」
エレーヌは衣装棚の前に立ち、一着のドレスに手を伸ばした。
深紅。仮面舞踏会の夜に着た、あの色。封印を解いた夜の色。自分自身を取り戻した夜の色。
「どの色にするの?」
ナディーヌが尋ねた。
エレーヌは深紅のドレスを両手で抱え、鏡に映る自分を見た。赤銅色の髪が肩に流れ、翡翠の瞳が笑っている。三年前に抑え込まれていた色が、今は何の制約もなく輝いている。
誰かの隣に合わせる必要はない。誰かの影に収まる必要もない。
自分の名前で、自分の色で、自分の場所に立つ。
それだけのことが、こんなにも晴れやかだとは知らなかった。
エレーヌは振り向いて、親友に笑いかけた。
「決まっているでしょう?」
深紅のドレスを掲げる。
「私の好きな色よ」
春の夕日が窓から差し込み、深紅の布地を黄金色に染めた。
ナディーヌが「きゃあ!」と歓声を上げ、二人は少女のように笑い合った。
最後まで読んでくれた皆様、本当にありがとうございます!
他にもいくつか短編を掲載しています。私のユーザページから見れるので、読んでもらえればとても嬉しいです! 感想、リアクションもお待ちしています。よろしくお願いします!




