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第9話

 はぁっ、はぁっ……


 肺の奥が焼けるように熱い。

 森に漂う魔力の霧は、粘りつくように視界を奪い、ぬかるんだ足場が、まるで底なし沼のように足首を掴んで離さない。


 崖から落ちた際に強打した足が、一歩ごとに鈍い悲鳴をあげる。それでも、ビィは立ち止まらなかった。引きずった足が泥を跳ね上げ、頬を汚しても、ただ「兄さんのところへ行かなければ」という一心だけが、華奢な身体を突き動かしていた。


 霧が、また一段と深くなる。ビィを惑わしたあの「不自然な静寂」が、再び森を支配し始めていた。

 樹影の間に人影が見える。


 「ヴァルカーさん!」


 ヴァルカーは、高価なローブが黒く染まるのも構わず、冷たい泥濘にへたり込んでいた。虚空を彷徨う瞳には焦点がなく、震える唇から掠れた譫言が絶え間なく溢れている。


 ――まずい、幻惑に囚われている……。


 懐から嗅ぎ薬の小瓶を取り出し、蓋を弾く。鼻を突く薬草の香りが、霧の湿り気を一瞬だけ切り裂いた。


 「ヴァルカーさん! しっかりして、ヴァルカーさん!」



 ――……カーさん! ……しっか……して……。


 声が、聞こえる気がする……、誰の……。

 ここは……どこだ……?


 肺を刺す針葉樹の芳香が、魔霧に閉じ込められた夥しい死臭と混ざり合い、大気をどろりと澱ませている。周囲には折り重なる魔獣の死骸と、将兵の遺体。靄のかかったような頭を抱えながら、ヴァルカーは周囲を彷徨った。


 そうだ。自分は偵察に来た。前線壊滅の報を受けて。

 これは、惨劇の跡だ。


 魔獣の爪痕と、並んで――様子の違う痕跡がある。味方の背中を貫いた剣の軌跡。背後から放たれた魔術に焦がされた甲冑。互いに、互いを撃った跡だ。何かに惑わされたのか。あるいは――


 足が、止まった。


 離れた場所に、ひときわ深い魔術の爪痕があった。砕かれた苔の匂いが、焦げ付いた空気の中にも残っている。この場で最も激しく、最も深く、何かが終わった跡だ。


 その傍らに、見慣れたローブがあった。小柄な魔導師が、何かに縋って動かない。その人影が縋り付いている「それ」へ、ヴァルカーの視線が落ちる。


 ひゅっ


 一瞬、息が詰まる。


 カーター・アイゼンハルト。


 もはや言葉を紡ぐことのない口が、泥の上に伏していた。


 「いやだぁぁぁぁぁぁ!」


 ビクリと、肩が跳ねる。


 その人影は、「それ」に縋りついたまま声を上げていた。常に冷静沈着で、感情を見せなかった人が。子供のように――


 栗色の、短く刈り揃えられた髪。惨劇の飛沫を映して血色に歪んだ瞳――


 深い、針葉樹の森。

 砕かれた、苔の匂いと焦げ付いた魔術の残り香が、霧とともに足元へ沈殿していく。その底で、慟哭だけが、世界を拒絶するように響いていた――


 ――……さん! ……しっか……して……。


 また……あの……声が……。


 「ヴァルカーさん!」


 はっ、と意識が浮上する。

 周囲は、濃い霧に沈む針葉樹の森だ。


 目前には、栗色の、短く刈り揃えられた髪。霧の底の不安を映して揺れる、紅い瞳が――


 「グリモ……ワール……」


 言葉が、霧に溶けた。



 「ヴァルカーさん!」


 幾度目かの呼びかけに、ようやく反応があった。ヴァルカーの目の焦点が合い始める。その視線はビィを捉え――


 「グリモ……ワール……」


 「……えっ?」


 遠い名前のはずだった。会ったこともない、王都の奥にいる英雄の名前のはずだった。なのになぜか、耳の奥へ馴染んでいくように――


 ズキッ。


 脳を何かが叩いた。内側から押し広げるような激痛で、視界が歪む。


 「ゔ……うぅ……」


 頭を抱えてうずくまったそのとき。


 「ビィ!」


 声がした。斜面を転落してから、ずっと探していた声。頭痛を振り切って振り向く。


 霧の中にカーターが立っていた。

 その胸元が、深く、裂けて……。


 ――兄さんは強いから。あれくらいの傷、平気なんだ。


 そう思おうとした。カーターが歩みを進めるたび、目が追ってしまう。

 裂け目から滴り落ちるものが、重くて、冷たくて、霧の中をゆっくりと……。


 ――大丈夫だ、兄さんは――


 傷口が腫れていない。周囲の皮膚が赤くなっていない。


 ――これくらい――


 胸が、動いていない。


 「…………」


 カーターが、近づく。

 呼吸の音が、しなかった。


 ――なんで。

 ――なんで今まで、気づかなかった……。


 清流の石のような冷たさも。

 ヒルの傷が腫れなかったことも。

 あの傷を負って、難なく戦い続けられたのも。――全部――全部――


 その時、精緻な炎熱が、カーターの胸を穿った。


 「死霊め! 消え去れ! ……その方を、グリモワールを解放しろ!」


 ヴァルカーの怒声が、霧を裂いた。



 ヴァルカーが、震える指先で精緻な魔術回路を空中に編み上げる。その目にはもう錯乱の色はなく、狂信にも似た熱が深い紫青の瞳の奥で燃え上がっていた。

 点を穿つような鋭利な魔弾が、正確無比な連射となって放たれる。


 カーターは動いた。だが、それは「回避」ではなかった。

 そこに溜めも、予備動作もない。人間の筋肉が収縮する際に生じるわずかな「揺らぎ」を完全に排し、最短の軌跡で体軸が滑り出す。まるで最初からその場所に存在していたかのような、座標移動にも似た無機質な転位。


 直撃するはずの魔術の起点を、思考より早く読み切る。踏み込んだカーターの胸元、破れた衣服の隙間からは、雲を裂くもの(ヴォルケン・ライザー)による裂傷が露呈していた。そこには、血の一滴も流さず、拍動さえ止まったままの、深々と肉を割った無機質な暗がりがあった。


 瞬き一つの間に、カーターはヴァルカーの懐へ潜り込む。驚愕に目を見開くヴァルカーの腕を、掴み上げ――


 その細い体が、重く湿った魔霧を切り裂いて飛んだ。

 鈍い破砕音とともに太い幹へ叩きつけられ、ヴァルカーは泥濘の上へと崩れ落ち、深い沈黙に呑み込まれた。


 森に、静寂が戻った。


 針葉樹の冷たい香気と、焦げ付いた魔術の残滓が混ざり合う中、カーターだけが呼吸一つ乱さず、静止画のように佇んでいた。



 カーターが弟に向き直る。

 激しい戦闘の後とは思えない顔で、完璧な笑みを浮かべて。


 「大丈夫か? ビィ。怖かっただろう」


 弟の、肩の震えが、止まっていた。

 周囲の霧が、音もなく後退する。押し留められるように。重力が変わったように。


 ベリー色の瞳が、深い針葉樹の闇を鏡のように呑み込んで、辰砂の色へと歪んでいく。


 「兄さん……」


 声に、温度がなかった。


 「……いや……」


 卑屈な早口が、消えていた。怯えが、消えていた。代わりに宿っているのは――冷静で、底知れなく、逃げ場のない、絶望だった。


 「お前は、僕が作った、人形だ……」


 ビィ――ヴィンセント・アイゼンハルト。


 万魔(グリモワール)と称された魔導師は、凪いだ声で宣告した。



感想もらえたらうれしいです。

先が気になっちゃうかと思ったので、もう1話同時更新します。

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