第9話
はぁっ、はぁっ……
肺の奥が焼けるように熱い。
森に漂う魔力の霧は、粘りつくように視界を奪い、ぬかるんだ足場が、まるで底なし沼のように足首を掴んで離さない。
崖から落ちた際に強打した足が、一歩ごとに鈍い悲鳴をあげる。それでも、ビィは立ち止まらなかった。引きずった足が泥を跳ね上げ、頬を汚しても、ただ「兄さんのところへ行かなければ」という一心だけが、華奢な身体を突き動かしていた。
霧が、また一段と深くなる。ビィを惑わしたあの「不自然な静寂」が、再び森を支配し始めていた。
樹影の間に人影が見える。
「ヴァルカーさん!」
ヴァルカーは、高価なローブが黒く染まるのも構わず、冷たい泥濘にへたり込んでいた。虚空を彷徨う瞳には焦点がなく、震える唇から掠れた譫言が絶え間なく溢れている。
――まずい、幻惑に囚われている……。
懐から嗅ぎ薬の小瓶を取り出し、蓋を弾く。鼻を突く薬草の香りが、霧の湿り気を一瞬だけ切り裂いた。
「ヴァルカーさん! しっかりして、ヴァルカーさん!」
*
――……カーさん! ……しっか……して……。
声が、聞こえる気がする……、誰の……。
ここは……どこだ……?
肺を刺す針葉樹の芳香が、魔霧に閉じ込められた夥しい死臭と混ざり合い、大気をどろりと澱ませている。周囲には折り重なる魔獣の死骸と、将兵の遺体。靄のかかったような頭を抱えながら、ヴァルカーは周囲を彷徨った。
そうだ。自分は偵察に来た。前線壊滅の報を受けて。
これは、惨劇の跡だ。
魔獣の爪痕と、並んで――様子の違う痕跡がある。味方の背中を貫いた剣の軌跡。背後から放たれた魔術に焦がされた甲冑。互いに、互いを撃った跡だ。何かに惑わされたのか。あるいは――
足が、止まった。
離れた場所に、ひときわ深い魔術の爪痕があった。砕かれた苔の匂いが、焦げ付いた空気の中にも残っている。この場で最も激しく、最も深く、何かが終わった跡だ。
その傍らに、見慣れたローブがあった。小柄な魔導師が、何かに縋って動かない。その人影が縋り付いている「それ」へ、ヴァルカーの視線が落ちる。
ひゅっ
一瞬、息が詰まる。
カーター・アイゼンハルト。
もはや言葉を紡ぐことのない口が、泥の上に伏していた。
「いやだぁぁぁぁぁぁ!」
ビクリと、肩が跳ねる。
その人影は、「それ」に縋りついたまま声を上げていた。常に冷静沈着で、感情を見せなかった人が。子供のように――
栗色の、短く刈り揃えられた髪。惨劇の飛沫を映して血色に歪んだ瞳――
深い、針葉樹の森。
砕かれた、苔の匂いと焦げ付いた魔術の残り香が、霧とともに足元へ沈殿していく。その底で、慟哭だけが、世界を拒絶するように響いていた――
――……さん! ……しっか……して……。
また……あの……声が……。
「ヴァルカーさん!」
はっ、と意識が浮上する。
周囲は、濃い霧に沈む針葉樹の森だ。
目前には、栗色の、短く刈り揃えられた髪。霧の底の不安を映して揺れる、紅い瞳が――
「グリモ……ワール……」
言葉が、霧に溶けた。
*
「ヴァルカーさん!」
幾度目かの呼びかけに、ようやく反応があった。ヴァルカーの目の焦点が合い始める。その視線はビィを捉え――
「グリモ……ワール……」
「……えっ?」
遠い名前のはずだった。会ったこともない、王都の奥にいる英雄の名前のはずだった。なのになぜか、耳の奥へ馴染んでいくように――
ズキッ。
脳を何かが叩いた。内側から押し広げるような激痛で、視界が歪む。
「ゔ……うぅ……」
頭を抱えてうずくまったそのとき。
「ビィ!」
声がした。斜面を転落してから、ずっと探していた声。頭痛を振り切って振り向く。
霧の中にカーターが立っていた。
その胸元が、深く、裂けて……。
――兄さんは強いから。あれくらいの傷、平気なんだ。
そう思おうとした。カーターが歩みを進めるたび、目が追ってしまう。
裂け目から滴り落ちるものが、重くて、冷たくて、霧の中をゆっくりと……。
――大丈夫だ、兄さんは――
傷口が腫れていない。周囲の皮膚が赤くなっていない。
――これくらい――
胸が、動いていない。
「…………」
カーターが、近づく。
呼吸の音が、しなかった。
――なんで。
――なんで今まで、気づかなかった……。
清流の石のような冷たさも。
ヒルの傷が腫れなかったことも。
あの傷を負って、難なく戦い続けられたのも。――全部――全部――
その時、精緻な炎熱が、カーターの胸を穿った。
「死霊め! 消え去れ! ……その方を、グリモワールを解放しろ!」
ヴァルカーの怒声が、霧を裂いた。
*
ヴァルカーが、震える指先で精緻な魔術回路を空中に編み上げる。その目にはもう錯乱の色はなく、狂信にも似た熱が深い紫青の瞳の奥で燃え上がっていた。
点を穿つような鋭利な魔弾が、正確無比な連射となって放たれる。
カーターは動いた。だが、それは「回避」ではなかった。
そこに溜めも、予備動作もない。人間の筋肉が収縮する際に生じるわずかな「揺らぎ」を完全に排し、最短の軌跡で体軸が滑り出す。まるで最初からその場所に存在していたかのような、座標移動にも似た無機質な転位。
直撃するはずの魔術の起点を、思考より早く読み切る。踏み込んだカーターの胸元、破れた衣服の隙間からは、雲を裂くものによる裂傷が露呈していた。そこには、血の一滴も流さず、拍動さえ止まったままの、深々と肉を割った無機質な暗がりがあった。
瞬き一つの間に、カーターはヴァルカーの懐へ潜り込む。驚愕に目を見開くヴァルカーの腕を、掴み上げ――
その細い体が、重く湿った魔霧を切り裂いて飛んだ。
鈍い破砕音とともに太い幹へ叩きつけられ、ヴァルカーは泥濘の上へと崩れ落ち、深い沈黙に呑み込まれた。
森に、静寂が戻った。
針葉樹の冷たい香気と、焦げ付いた魔術の残滓が混ざり合う中、カーターだけが呼吸一つ乱さず、静止画のように佇んでいた。
*
カーターが弟に向き直る。
激しい戦闘の後とは思えない顔で、完璧な笑みを浮かべて。
「大丈夫か? ビィ。怖かっただろう」
弟の、肩の震えが、止まっていた。
周囲の霧が、音もなく後退する。押し留められるように。重力が変わったように。
ベリー色の瞳が、深い針葉樹の闇を鏡のように呑み込んで、辰砂の色へと歪んでいく。
「兄さん……」
声に、温度がなかった。
「……いや……」
卑屈な早口が、消えていた。怯えが、消えていた。代わりに宿っているのは――冷静で、底知れなく、逃げ場のない、絶望だった。
「お前は、僕が作った、人形だ……」
ビィ――ヴィンセント・アイゼンハルト。
万魔と称された魔導師は、凪いだ声で宣告した。
感想もらえたらうれしいです。
先が気になっちゃうかと思ったので、もう1話同時更新します。




