第8話
剣と爪が、霧の中で軋んでいた。
頭が、真っ白だった。
霧が深くて何も見えない。音だけが届いてくる。金属と何か硬いものが噛み合う摩擦音、重い羽ばたきが大気を叩く圧、梢が折れて地を打つ轟音。それだけを手がかりに、兄がまだ戦っているとわかった。
――魔術を、組まなければ。
指先に意識を集め、練ろうとした。しかし、砂が零れるように散っていく。また枯渇だ、またこのタイミングで――指先を、もう一度。駄目だ。もう一度――
その時、霧が、裂けた。
目の前で、鱗に覆われた翼が大きく開く。雲を裂くものの翼が生んだ突風が、地面ごとビィを巻き上げ、細い体を叩きつけた。
「ゔはっ……!」
泥の冷たさが肺を直撃して、息が出ない。起き上がろうとするが、手が滑る。追撃が来る。はやく態勢を整えなければ、と身を起こした瞬間――
強い力に突き飛ばされた。
背中から地面に転がされる。頬に、生温かい何かが散った。
カーターが、立っていた。雲を裂くものの間に、盾のように。
「大丈夫か」
振り返ったカーターの胸元が、深く裂けている。暗く重いものが溢れ出して、霧の湿り気の中をゆっくりと落ちていく。落ちていく。
頬に散ったものが、何か、わかった。
「逃げろ」
鋭くそれだけ言うと、カーターは雲を裂くものへ向き直った。
上空に舞い上がった魔獣を、迎撃しようと構える。
――待って。
膝が笑っていた。それでも立った。術が組めなくていい、隣にいるだけでいい——と前へ踏み出したところで、首根っこを掴まれるように腕を引かれた。ヴァルカーの手だ。
「離して、兄さんがあんな――!」
「足手まといだ!」
肺の底まで刺さった。
「……あいつなら大丈夫だ。君は知っているだろう」
静かな声だった。怒鳴ったわけじゃない。それが余計に、胸に沈んだ。
返す言葉がなかった。鉤爪が来た瞬間、ビィは竦んで一歩も動けなかった。だから兄があの傷を負った。足手まとい。その通りだった。
引きずられるように走り出した。隣を走るヴァルカーの横顔が、血の気の抜けた土気色をしていた。
――あれほどの魔獣、宮廷魔導師でも怖気づくのだ。なのに兄さんは一人であれと……。
振り返るたびに、霧の向こうでカーターが戦っているのが見えた。
――大丈夫だ、兄さんは強い、必ず……。
もう一度振り返ろうとした、その足が、宙を踏んだ。
斜面だとわかったのは、転がり始めてからだった。木の根が脛を打ち、泥が口に入り、空と地面の区別がつかなくなる。
手が、伸びた。
いつもそこにあるはずの手を探して、指先がさまよう。
虚空をつかむ。
斜面の底に叩きつけられて、しばらく何も聞こえなかった。羽ばたきも、剣の音も、ヴァルカーの声も。
霧だけが、静かに流れていた。
*
右手が、まだ虚空を探っていた。
泥の冷たさが指先から這い上がってくる。起き上がろうとすると足首が悲鳴をあげた。折れてはいない。それだけ確かめて、立った。
「ヴァルカーさん……! 兄さん……!」
声が霧に呑まれる。返事がなかった。羽ばたきの音も、剣の音も、もう、届いてこない。足跡は、もうない。
――戻らなければ。
足首をかばいながら歩き出す。術式を組もうとして、また指先が空振りした。今だけは、今だけでも……。
霧の質が、変わった。
さっきまでと違う。粘りつくような、視界だけでなく思考まで塗り潰してくるような重さが、肌にまとわりついてくる。足の裏が地面を踏んでいる感覚が、薄い。
――鏡の魔獣。
息を呑んだ。鏡の魔獣だ。幻惑が、始まっている。
部屋だった。
狭い、埃っぽい部屋の天井。窓の外から笑い声が聞こえる。軽くて、遠い。熱が下がらなくて、ずっとあの天井を見ていた、あの頃の部屋だ。
笑い声が遠ざかっていく。自分は窓を開けることもできなかった。ミルク粥の甘い匂いと、兄が運んでくる足音だけが世界の全てだった……。
――幻だ。
目を閉じた。でも瞼の裏まで部屋の天井が焼き付いている。足を動かした。地面の感触がない。霧の中を歩いているのか、あの部屋を歩いているのかわからない。
気づくと、石畳の広場にいた。幼年学校の中庭だ。
小柄な子供が広場の端に立っていた。
「おい、親なしのチビ! こっちに来るなよ、うつるだろ」
身体が、小さくなった。肩が縮んで、首が沈んで、できるだけ場所を取らないように。いなくなれないなら、せめて見えなくなれるように。兄が迎えに来てくれるまでの辛抱だったから……。
――足を止めるな。
歯を食いしばった。
霧がまた揺れて、気づくと廊下にいた。壁の向こうから声がする。
「……あいつ、ちょっとデキるからって。鼻につくんだよな、小賢しいんだよ」
息を、吐いた。そうか、と思った。それだけだった。怒りも、悲しみも、どこかへ落ちていった。飲み込むことには、もう慣れていたから……。
霧が、滲んだ。
深い、針葉樹の森だった。
砕かれた、苔の匂い。その奥に、焦げ付いたような、熱を持たない残り香が混じる。
霧の中に、影がある。
動かない、影が。
足が止まる。
金の、髪だ。泥に汚れた、動かない、金の髪。霧がその輪郭をぼかしても、色だけははっきりと見える。見えてしまう。
逃げようとする。目を逸らそうとする。
離れない。
――兄さん……
喉の奥で固まったまま、出てこない。影は、動かない。
霧が滲む。
身体の奥底から、冷えた感覚が這い上がってくる。兄がいなくなる、予感。いつか兄がいなくなる――自分の手が届かないところへ、行ってしまう――
膝が、折れそうだ。
ここに座り込んでしまったら、もう立てない気がする。それでもいいような気が、する。幻でも、ここにいれば。このまま霧に溶けてしまえば……。
――足手まとい。
自分の声だった。
頭の中に鳴った、自分の声。
今もそうだ。兄があそこで戦っているのに、幻に足を縫い付けられて、膝を折りかけている。また逃げている。霧の中でうずくまって、目を逸らして……。
――またいつもの、僕だ。
拳を、握る。爪が泥ごと掌に食い込む。
「兄さんに――」
声が震えた。霧に呑まれて、すぐ消えた。それでも続けた。
「愛想を尽かされたくないんだ!」
醜かった。痛々しかった。でも、嘘じゃなかった。
強くなりたいとか、役に立ちたいとか、そういう綺麗な言葉の一番底に、ずっとそれだけがあった。
捨てられたくない。
置いていかれたくない。
それだけだった。
呼吸が荒い。膝が笑っている。魔力は底をついている。
でも頭だけが、動いている。
魔力がない。術は霧散する。正面から組んでも勝てない――ならば。
幻惑は外縁から侵食してくる。内側を潰しにいけば魔力をごっそり持っていかれる。だから外縁を叩く。反転霧の極性を逆用する。逆位相の干渉を一点に集中させれば、魔力がなくても、触媒一つで――
懐を探る。指先が小瓶に触れた。
冷えて、震えて、倦怠感で骨まで重い指が――それでも、迷わず動いた。
霧が、弾けた。
一瞬、視界が白く飛んだ。
次の瞬間、泥の冷たさが足の裏に戻ってきた。足首の痛みが鋭く蘇る。針葉樹の生の匂いが、鼻腔に飛び込んでくる。本物の霧だ。粘りつく重さがない。頭が、澄んでいく。
術が、通った。
膝が笑いそうだった。でも立っていた。
――兄のもとへ。向かわなくては。
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