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第7話

 王都は、今日も霧の中にあった。


 魔導院の廊下。石畳を踏む靴音が、天井の高い回廊に反響して消える。ヴァルカー・フォン・シュトラウスは足を止めず、ポケットの中のドライフルーツをひとつ、口に放り込んだ。


 砂を噛むような味がした。

 いつからそうなったのか、もう覚えていない。甘いはずのそれが、ずっと砂の味しかしない。


 出会いは、四年前に遡る。


 当時のヴァルカーは、自分の才を疑ったことがなかった。名門の出、魔導院での首席、宮廷魔導師への最速任官——積み上げてきたものは本物だという自負があった。だから最初は、反発だった。


 実績不明の後輩が、自分を追い抜く速度で出世していく。それを「実力だ」と周囲が口を揃えるたびに、選ばれし者としての矜持が音を立てた。才というのは積み上げるものだ。地道な研鑽の上にしか、本物の魔導は宿らない——そう信じていた。


 しかし。


 職務を共にするうちに、その信念は静かに削られていった。

 知識の深さが、まず違った。魔導書を読み解く速度でも、術式の理論的な精度でも、こちらが太刀打ちできる領域がない。それでも当初は「暗記の秀才だ」と高を括っていた。知識は武器だが、実戦は別だと。


 ――四年前の、あの雨の日まで。


 大規模な霧潮。降りしきる雨の中、魔獣の群れが前線を突き崩しつつあった。ヴァルカーは計算盤を叩いていた。最適な術式の構成を、数式として組み上げていた。それが自分のやり方だった。論理で積み上げ、誤差を排除し、確実な一手を導き出す。


 閣下には、計算など不要だった。

 雨の匂いを嗅ぐように顔を上げ、大気の震えに耳を澄ますように目を細め——次の瞬間、術式が走った。


 後から検証した。あの一手がいかに精緻であったか、数式に落とし込もうとした。できなかった。計算で辿り着ける場所ではなかった。世界の軋みから直接、最適解を掴み取っていた。まるで世界そのものと会話するように。


 自分の術式が、砂細工に見えた。


 それまで積み上げてきたものが、音もなく崩れる感触があった。絶望、と呼ぶには静かすぎた。ただ、圧倒的な「差」の前に立ち尽くした。宗教的な、と言うしかない感覚だった。信仰、というものがあるとすれば、おそらくこういうことだと思った。


 自分が深霧(ティーフネーベル)への選抜を辞退したのは、その直後だ。精鋭の隣に並ぶ資格が、自分にはないと理解した。それだけのことだった。


 閣下の傍らには、いつも護衛騎士がいた。


 カーター・アイゼンハルト。


 金の髪、空色の瞳、非の打ち所のない剣技。周囲の評判は一様だった。善良で、献身的で、主君に誠実な理想の騎士。確かにそうだった。表面だけを見れば。


 ヴァルカーには、馴染めない何かがあった。

 最初はやっかみだと思っていた。閣下にもっとも近い場所を占める人間への、感情的な嫉妬だと。だが、そう整理しようとするたびに、どこかで引っかかった。


 閣下が外との接点を持つ機会に、あの騎士はいつも先回りしていた。閣下は繊細でいらっしゃるから、と柔らかく笑いながら。その言葉に偽りはなかった。善意だったと思う。だが結果として――閣下は、箱庭の中にいた。


 職務上の批判として言えば、こうなる。過剰な庇護は、庇護される者が他者と摩擦し、自立する機会を奪う。それは善意の形をした、緩やかな隔離だ。


 しかしヴァルカーが感じていた不快感は、そういう論理的な整然さとは少し違う場所から来ていた。うまく言語化できなかった。ただ、あの騎士が閣下の傍らに立って微笑む様子を見るたびに、背筋に何かが走った。結局、自分はそれを「やっかみ」と名付けて引き出しに仕舞った。


 二年前の惨劇が、全てを変えた。


 凍てつく凶霧(フロスト・タイド)深霧(ティーフネーベル)の壊滅。そして――。


 閣下が魔獣の首魁を討ち取ったことは、国民の誰もが知っている。救国の英雄。揺るぎない事実だ。


 だが、その後。

 惨劇以来、あの方は本当に変わってしまった。


 かつて「禁忌の研究」という噂が流れたとき、ヴァルカーは一蹴した。天才を理解できぬ凡俗のやっかみだ、と。だが今は、その噂を否定する言葉が出てこない。反魂術。死霊術。生者の領域を踏み越えた、禁忌の術式群。あの輝きを知る者にとって、今のあの方は――あまりに、無残だ。


 かつて戦場を焼き尽くしたあの至高の魔導を捨て、今はたった一体の人形のためだけに、卑俗な禁忌の研究に没頭されている。


 止めることができない。

 あの方に言葉を届ける勇気は、私にはない。それを口にすれば――あの方が、完全に壊れてしまうからだ。信仰した天才が、自らの手で砕けていくのを、ただ傍で見ていることしかできない。


 国家上層部の会議室を出たのは、一刻前だ。


 命を受けた。二年前の後始末——鏡の魔獣イルジオンシュピーゲルの討伐。他組織では手に負えない難敵を、魔獣処理の道具として片付けさせるための、不愉快な使いっ走り。国家はあの方の執着を利用し、その手足を道具として使い潰している。私はその伝言の運び手に過ぎない。


 廊下の突き当たりに、城門が見えた。その先に霧。そのずっと奥に、兄弟がいる。


 ヴァルカーはまた、ドライフルーツを放り込む。

 やはり、砂の味がした。


 ――もっとも。

 一つだけ、違うことがある。


 鏡の魔獣イルジオンシュピーゲルは、トラウマを幻視させる。あるいは――何かが、動くかもしれない。


 あわよくば――という言葉が、胸の底に沈んでいる。それを希望と呼ぶには、あまりにか細い。それでも。


 ヴァルカーは城門へ向かって、歩き出した。


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