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第6話

 脚に、何かが貼り付いている。


 最初はそう思った。泥が跳ねたのか、木の根でも踏み抜いたのか——靴の上から、妙なぬめりと重さを感じる。立ち止まって足元を見下ろした瞬間、それが、ゆっくりと動いた。


 「——っ、ひ、」


 声にならなかった。

 ぞわりと背筋を這い上がるものがあって、次の瞬間にはビィは飛び退いていた。靴の甲に、黒ずんだ細長いものがびっしりと群がっている。一匹ではない。二匹でも、三匹でもない。


 「ひぇっ……! な、なに、なんだこれ、吸い付いて離れない……! 兄さん、助けて……!」

 「吸血ヒルだ。この湿地帯には多い」


 カーターが振り返り、淡々と言った。それだけだった。


 「そ、そういうことじゃなくて……! 取れないんだけど……! どうしたら……」

 「引き剥がすな。口器が残る。塩か、火を近づけろ」

 「し、塩……っ」


 荷物を漁る手が震える。ようやく取り出した小袋の口を、うまく開けられない。

 その間にも、ヴァルカーが自分の脚を見下ろして、低く舌打ちをした。


 「……忌々しい」


 数匹が食いついている。忌々しげに払い落とそうとするが、吸着した口器はびくともしない。


 「この泥濘を、まさか素足同然で歩かせるつもりだったのか。行程の見直しを——」

 「ヴァルカーさん、そこ触ったらだめですよ、口器が残ります」

 「わかっている」

 「わかってたら触らないほうが……」

 「うるさい」


 ぎりぎりと奥歯を噛み締める音が聞こえそうな顔で、ヴァルカーが塩袋を腰の荷物から引っ張り出した。ところが手元が狂い、勢いよく中身が半分ほど地面にこぼれる。


 「……っ」


 沈黙。


 「……もったいない」

 「見ていろ、と言っているのではない」


 低い声だった。ビィは口をつぐんだ。


 ヴァルカーが自分で処置を試みる間、ビィもなんとか塩を振りかけて一匹ずつ剥がしにかかる。じたばたしながら格闘していると、視線の端で、カーターが無言で自分の脚を確認しているのが見えた。ビィよりも、ヴァルカーよりも、明らかに多くのヒルが食いついている。にもかかわらず、その表情は微動だにしていない。眉一つ動かさず、淡々と一匹ずつ処置している。


 「……兄さん、痛くない?」

 「大丈夫だ」


 短い返事だった。


 「すごいな……」


 思わず漏れた。

 横ではまだ、ヴァルカーが悪戦苦闘している。三匹目を格闘の末に引き剥がし、小さく舌打ちをした。


 「……こんなに噛まれても顔色一つ変えない兄さんと比べると、ヴァルカーさん、ずいぶん我慢が足りないんじゃないですか」


 一瞬の沈黙があった。


 ヴァルカーの手が、止まった。


 「……今、なんと言った」

 「え、兄さんはすごいな、って……」

 「その後だ」

 「……ヴァルカーさんは我慢が足りないな、って……。あ、でも悪口じゃないですよ、普通はそういうものだと思うので、兄さんが特別なだけで……」

 「普通」


 ヴァルカーがゆっくりとビィを見た。その目は笑っていなかった。


 「……弁明になっていないと、自覚はあるか」

 「え、あの、えっと……」

 「ない、ということか」

 「ひぇっ……す、すみません……!」


 慌てて兄の背後に回り込む。カーターの上着の裾をぎゅっと握ると、深い針葉樹の匂いがした。静謐な、兄の匂い。のぼせた頬に、ひやりとした空気が触れる。


 ——落ち着く。大丈夫。


 ヴァルカーはしばらく黙っていた。盛大なため息のあと、指先に薄く魔力を灯した。精密に制御された、ほんの一点だけを穿つような細い光。それをヒルの口器に触れさせると、するりと、嘘のように剥がれ落ちた。


 「……最初からそれを使えばよかったのでは」

 「黙れ」


 残りを一匹ずつ、無言で処置していく。その手際は、悔しいくらい鮮やかだった。終わると、うんざりしたような目でビィを見た。


 処置しながら、ヴァルカーが独り言のように言った。


 「……以前、ともに任務に来た時には……」


 視線は手元にある。カーターの方を、直接は見ていない。


 「カーター殿も、愚痴を言っていましたけどね。……今は、何も言いませんが」


 ビィは瞬きした。


 ――そうか、兄さんも昔はそういうことがあったんだ。


 胸の中で、小さく温かいものが灯った。そういう話を聞くのが、ビィは好きだった。自分の知らない兄の姿を、誰かの口から聞かされる瞬間。


 「兄さん、ずっと精神鍛錬を続けてたんですよ。だから今はこういうことにも動じなくなって――ヴァルカーさんも、見習ったらどうですか」


 ヴァルカーが目を伏せた。

 何かを言いかけて、やめた。その動作に気づいたのは、一瞬だけだった。気づいたとしても、意味はわからなかった。ただ、何か——言葉にならない不快なものが、空気の中に溶けた気がした。


 兄の上着の裾を、もう少し強く握る。

 ヒルを剥がした後のカーターの皮膚を、ビィの指先がかすめた。


 赤くなっていない。

 噛まれた跡が、いくつも重なっているのに、一切の腫れがなかった。皮膚はただ、白く、滑らかなままだった。生き物の肌が、防衛のために熱を持つはずのその場所に、何の色もなかった。

 傷口に、ひとすじの血が伝っている。

 暗い色だった。流れが、妙に遅い。


 鉄錆と、焦げ付いた空気の匂いが、ふと鼻腔を打った。


 ——その瞬間、後頭部の奥を、何かが鋭く貫く。


 目の裏が白く弾ける。思考が一瞬、ぶれる。


 「……っ」


 堪えた。表情には出さなかった。


 ——ヒルの毒だ。多少は体に入ったんだろう。不摂生がたたって、知恵熱でも出てきたか。


 情けない。こんなところで倒れるわけにはいかない。

 兄さんに心配をかけるわけにはいかない。


 「……大丈夫か」


 カーターの声が、頭の上から降ってきた。


 「大丈夫だよ」


 即座に答えた。顔を上げ、笑って見せた。


 「ちょっとヒルに驚いただけで。情けないところ見せちゃってごめん……」


 カーターはそれ以上何も言わなかった。

 ヴァルカーは、ビィの方を見なかった。


 森は静かだった。鳥の声も、虫の声も、何もなかった。呼吸の音だけが、湿った空気の中に溶けていった。



 三人は歩き出した。


 後頭部の鈍い重さは、まだそこにあった。ビィはそれを意識しないようにして、前を向いた。

 沈黙が続く。足音だけが、湿った落ち葉を踏んで鳴った。


 ビィは兄の横顔を盗み見て、それからすぐに目を逸らした。さっきの傷口が気になったわけではない。気にしていなかった。


 「……動じなくなった、ね……」


 ヴァルカーが呟いた。問いかけではなかった。独り言のような、低い声だった。

 ビィは少し考えてから、答えた。


 「……兄さんは、変わったんです」


 ビィは足を速める。ヴァルカーの方を向かずに、前だけを見て。


 「僕を守るために、強くなったんです」


 呟きが、少し震える。それ以上は聞きたくなかった。ヴァルカーが何か言いかけた気配がしたが、振り返らなかった。


 歩きながら、口が動いた。


 「このあたりの針葉樹は樹脂の魔力含有量が高くて、霧の干渉を受けやすいんです。だから魔獣の生息域と重なりやすくて……地脈の走り方が北東から南西なので、探知はその軸に沿って……この密度の霧なら、警戒すべきは視覚より嗅覚と音で索敵してくる個体で……」


 言葉が、頭を満たす。考える隙間がなくなる。感じる余地が、塞がれていく。


 その時、根元に目が止まった。

 半透明の、花だ。


 陽の届かない地面に、群れをなして咲いている。霧の中でぼんやりと、冷たい光を滲ませている。ビィはしゃがんで、花の一つに指先を近づける。触れる寸前で止めて、根の広がり方、群生の向き、密度を確かめた。


 「……冥府の吸い口(ウンター・レーレ)です」


 声が上ずる。


 「古い文献の記述と一致します。この花は、媒介となる高魔力結晶を宿した個体の近くにしか自生しない。ほら、この配置なら——この奥に『主』が潜んでいます。間違いなく」


 立ち上がる。確信が、足を動かした。


 「これさえあれば……兄さんは、グリモワール様との約束から自由になれる」


 奥へ、進む。花群が続いている。道標のように、足元に。

 ヴァルカーが何かを口の中に放り込んだ。咀嚼する音が、ビィの耳の端に届く。砂を噛むような、力のない音。


 ビィは気にしなかった。


 森が、変わっていった。

 静寂が、深くなる。さっきまでは遠くに感じていた霧の向こうの気配が、今は底まで凪いでいた。生き物の息遣いが、どこにもない。足音だけが、湿った落ち葉を踏んで鳴った。


 進むほどに、匂いが変わる。針葉樹の清浄な香りの奥に、焦げ付いたような、錆びたような何かが混じり始めた。ビィの鼻腔の奥で、その匂いが何かに触れた。何かを、揺らした。どこで嗅いだのか。いつ――


 ズクンッ


 こめかみの奥が鈍く痛んだ。何かが内側からゆっくりと押し広げようとするような、重い痛みだ。脳の奥で、ぎし、と軋む感覚が鳴る。何かが、内側から、押しのけているような……。


 「っ……また、知恵熱、かな。はは、情けない……」


 ヴァルカーが、眉をしかめながら目を逸らす。きっとまた、呆れているのだ。

 こめかみを抑えながら、歩き出す。こんなところで立ち止まってなんかいられない。


 その時、ふと、気が付いた。


 「急に、静かになりすぎだと思わない……?」


 呟きが口から出る。


 その、瞬間――

 霧が、裂けた。


 隣にいたはずのヴァルカーが、風圧に煽られ吹き飛ばされる。

 大きな羽ばたきが鼓膜を圧した。


 そして、風を遮る兄の肩越しに、ビィは見た。

 巨大な鉤爪が、霧を掻き分けて現れたのを。


 雲を裂くもの(ヴォルケン・ライザー)

 馬車ほどの巨躯を持つ、鷲と獅子が混ざり合ったような魔獣だ。折り畳まれた翼を広げれば、その影だけで人間の視界を塗り潰す。


 ビィの思考が、白く染まる。


 「くそ……こんな魔獣の情報はなかったはずだ……」


 背後でヴァルカーの舌打ちが聞こえる。


 霧が、薄く乱れたかと思うと、音もなく抜かれた剣に、鋭い鉤爪が阻まれていた。

 剣と爪が、霧の中で軋んだ。


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