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第5話

 足を踏み出すたびに、腐葉土が静かに沈んだ。


 深い針葉樹の森だった。陽の光が梢に遮られ、昼だというのに薄暗い。苔むした岩が点在し、踏み荒らされた形跡のない獣道が、茨の中へ消えていく。一歩踏み込むごとに、湿った土と腐葉の匂いが鼻腔の奥まで届いた。その底に、かすかに、何か別のものが混じっている気がした。


 焦げたような、空気の滓。


 ――なんだろう。魔術の残響かな。古い文献で読んだことがある。大規模な術式が使われた跡地には、長年にわたって魔力が染み込み、独特の残臭が漂い続けることがあると。……二年前の、凍てつく凶霧(フロスト・タイド)の舞台がこのあたりだったはずだから、そのせいかもしれない。


 頭の隅でそう処理して、ビィは古びた地図を広げた。


 「……ええと、この沢を右手に見ながら北北東に進めば、目標の生息域まであと二時間かからないはず。ただ、この地図、三十年前のものだから……」


 地形が変わっていないかが問題だ。地図の端に書き込まれた等高線と、目の前の斜面を見比べる。濃霧の中での方向確認は、魔力に頼るより地形を読んだほうが確実だ。特に今回の任務地のように、過去の大規模魔術の影響で局所的な磁場の乱れが生じている可能性のある地域では。


 「……合ってる。この岩の並びが目印になってる」


 誰に言うでもなく呟いて、地図を折り畳んだ。


 「ヴァルカーさん」


 おずおずと声をかける。


 「……なんだ」


 振り返りもせずに、ヴァルカーが答えた。今日の彼はどことなく機嫌が悪い――というか、もともと機嫌がいいところを見たことがないかもしれない。


 「あの、このあたりは霧の溜まりやすい地形で、外套の内側まで湿気が回りやすいので……結び目をきつくしておいたほうがいいと思います。魔石の反応精度が落ちると、探知の際に……」


 「わかっている」


 ぴしゃりと遮られた。ビィは口をつぐんで、兄の背中を見た。カーターが無言で外套の結び目を確認している。


 ――余計なことを言ったかな。でも本当のことだし。…………うん、本当のことだし。


 言い訳を心の中で繰り返しながら、泥濘に足を取られないよう慎重に歩く。

 森は、静かだった。

 不自然なほどに。


 風が梢を揺らす音はある。沢の水音もある。しかしそれ以外が、ない。鳥の声がない。虫の羽音がない。小動物が茂みを揺らす気配もない。魔獣の多い地域では生き物が息をひそめることがある――そう知識の引き出しが言っている。だからこれは魔獣の予兆だ。警戒するべきだ。


 うん、そうだ。

 それ以外の理由など、あるはずがない。


 「ビィ、荷物を見せろ。触媒の固定が緩んでいる」


 兄の声に、はっと我に返る。


 「あっ、ほんとだ。ありがとう兄さん」


 背嚢の留め具を締め直してもらいながら、ちらりとヴァルカーの背中を盗み見た。彼は先行して地形を確認しているらしく、小さな魔石を手のひらに乗せて何かを計算している。宮廷魔導師の探知術式――ビィには扱えない高度な技術だ。


 ――すごいな。あの精度で方位と残滓濃度を同時に割り出せるなんて。……でもなんで伝言係なんだろう。こんなに腕が立つのに。


 疑問が口まで出かかって、飲み込んだ。前に聞いたとき、ものすごく睨まれた。


 「このルートで問題ない。予測された残滓の濃度も――」


 そのときだった。

 霧の奥で、何かが動いた。


 音より先に、ヴァルカーの手が動いていた。


 指先から伸びた一条の光が、音もなく霧を裂く。ぐしゃ、という小さな湿った音。次の瞬間には、霧の中に何かが落ちる気配がして、それきり静かになった。

 周囲の木の葉が、一枚も揺れていなかった。


 「……」


 ビィは息をのんだ。魔術が放たれた瞬間がわからなかった。構えもなく、詠唱もなく、魔力の高まりを感じる間もなく――気づいたときにはもう、終わっていた。


 「霧雀(ネーベルエルスター)だ。群れではない、偵察個体だろう」


 ヴァルカーが淡々と言った。地図から目を上げてもいなかった。


 「……すごい」


 思わず漏れ出た。ヴァルカーがこちらを見る。


 「ほ、本当に、範囲が完璧で……周りへの余波が全然なくて……。あの速度で単独の個体だけを、しかも霧の中で……」


 「当然だ」


 吐き捨てるように言って、ヴァルカーは地図に視線を戻した。


 「……ちゃんと、宮廷魔導師だったんですね」

 「どういう意味だ」

 「ひぇっ、ご、ごめんなさ……」

 

 慌てて兄の後ろに引っ込む。

 そっとヴァルカーの様子をうかがうと、その横顔は、少しだけ、何か――なんだろう。機嫌が悪いのとは、違う何か。うまく言葉にならない。


 ――伝言係をしながら、あの腕を持て余してる。……なんで?


 答えを出せないまま、また一歩、腐葉土の上に足を置く。



 三十分ほど進んだところで、ヴァルカーが足を止めた。


 「ここから先は残滓の密度が下がる。生息域はもう少し東寄りのはずだが……」


 魔石を手に、眉を寄せている。計算と地形が合わない、という顔だ。

 ビィは黙って地図を広げた。現在地と、文献で読んだ記述を照らし合わせる。


 「……あの、ヴァルカーさん」


 おそるおそる声をかけた。


 「なんだ」


 「この地形、見てもらってもいいですか。ここ――この稜線の形なんですが、雨水の流れがこっちに集まる構造になっていて、魔力を帯びた霧もそれに引かれるはずなんです。文献によると、霧潮の残滓は水脈に沿って蓄積する性質があるので……東ではなくて、もう少し北東、この窪地あたりが濃度のピークになると思うんですが」

 「…………」


 ヴァルカーが振り返った。じっとビィを見て、それから地図を見た。

 何も言わずに魔石を掲げ、示した方角へ向ける。少し間があった。

 唇が、わずかに引き結ばれた。


 「……合っている」


 低い声だった。


 「よかった」


 ビィは兄の背後でほっと息をついた。兄の足を引っ張らずに済んだ。ヴァルカーに恥をかかせてしまったかとも思ったけれど――それは仕方ない。本当のことだったし。


 ヴァルカーが黙ったまま歩き始める。その背中が、少し固い気がした。

 ビィも黙って後に続いた。


 また、腐葉土が静かに沈んだ。

 森は、相変わらず息をひそめている。鳥も、虫も、どこにもいない。カーターの足音が、隣で規則正しく刻まれている。


 ――魔獣がいる。気を抜いたらだめだ。


 ビィは地図を握り直して、前を向いた。


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