表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/13

第4話

 雨が、戦場を叩いていた。


 横殴りの豪雨の中、カーターは泥濘に膝をついた兵士たちの間に立ち、前方を見据えていた。退路はすでに断たれている。霧と雨が視界を潰し、魔獣の唸りだけが四方から迫ってくる。騎士団の誰もが、今夜ここで死ぬと思っていた。


 そこへ、ローブの人影が現れた。


 激しい雨を裂いて、上質な布地が擦れる音が近づいてくる。最短の理(ことわり)をその身に宿したかのような足取りは、一歩ごとに歪んだ戦場の秩序を塗り替えていく。

 焦りも誇示もない。ただ、必然が近づいてくるような、逃れがたい静かな圧迫感だけがそこにあった。


 隣に立ったヴァルカーが、息を呑んだのがわかった。


 「……閣下」


 誰かが、掠れた声で呼んだ。


 人影は答えなかった。辰砂の瞳で、戦場を睥睨する。雨に打たれるまま、瞬き一つせず、何かを見ていた。雨を、霧を、大気そのものを——カーターには、彼が何を掴もうとしているのかわからなかった。ただ、その静止が、周囲の絶望とまるで位相の違う場所にあることだけは、わかった。


 「絶縁術式を同期させろ」


 低く、平坦な声だった。感情の起伏に乏しい。


 「……指を三度、鳴らす間だ。それを過ぎれば、座標内における安全の保証は失われる」


 それだけだった。命令でも警告でもなく、天気の変化を告げるような、事務的な通告だった。


 ヴァルカーが計算盤を取り出した。術式の構築を始める。その手が、微かに震えていた。理論上の最適解を弾き出そうとする動きが、雨と焦りで滑っている。


 しかし彼は、計算盤など持たない。


 ただ、立っていた。目を閉じ、雨に打たれながら、大気の震えを素手で受け取るように、静かに、立っていた。


 次の瞬間、術式が展開された。

 光が、空を割った。


 降雨を媒介に走る広域の雷撃が、地平線まで連鎖した。魔獣の群れが、声もなく消えていく。数千の命が、一つの術式の中に呑み込まれ、跡形もなく薙ぎ払われた。精密で、冷徹で、一切の無駄がなかった。慈悲も、躊躇も、そこにはなかった。あるのは、最適解だけだった。


 沈黙が落ちた。

 雨だけが、残った。


 兵士たちは誰も動かなかった。声を上げる者もいなかった。ただ、呆然と、その背中を見ていた。命を救われたという事実と、自分たちとは根本的に異なる何かを目撃したという事実が、同時に胸の中に沈んでいくのを、カーターも感じていた。


 隣でヴァルカーが、計算盤を静かに下ろした。弾き出しかけていた術式の数値が、もはや意味を持たない記号の羅列に見えた。その顔に浮かんでいたのは、屈辱ではなかった。もっと深い場所にある、何か別のものだった。


 後に「連鎖雷撃事案」と称されるこの夜によって、彼は畏怖をもってこう呼ばれることとなる。


 ――万魔の魔導公(グリモワール)と。



 彼の専任護衛騎士に配属された当初、カーターは、彼に対する周囲の反応の激しさに少し驚いた。


 嫉妬と、畏敬と、困惑が、入り混じっていた。年功序列を無視した異例の抜擢。軍の伝統を塗り替えるスピード出世。エリートたちの間には、「実績の乏しい若造が上に立つこと」へのやっかみが、公然と流れていた。


 しかし、カーターはそれよりも別のことが気になっていた。


 彼は、人と話すのが得意ではなかった。

 正確に言えば、必要なことしか言わなかった。事実を述べ、命令を下し、それで会話を終える。感情的な言葉を持たないのではなく、それを相手に届ける手順を、どこかで学び損ねたように見えた。周囲はそれを「天才ゆえの傲慢」と受け取った。カーターには、そうは見えなかった。


 ただ、対話の仕方がわからないだけだと思った。


 だから周囲は彼を恐れ、近づかなかった。彼もまた、近づこうとしなかった。その距離が積み重なって、彼はいつの間にか、同じ場所に立っているはずの人間たちから、一人だけ切り離されていた。


 あの夜の雨が、まだ記憶に残っている。


 術式を行使した直後、彼は天を仰ぎ、深く、長く、息を吐き出した。雨に濡れた髪が額に貼り付いていた。荒い吐息が、冷気の中で白く立ち昇った。大規模な魔術行使の後の、生命が燃え尽きる寸前のような熱が、隣に立つカーターにも伝わってきた。


 生きている、と思った。


 それ以外に言葉がなかった。圧倒的な術式の後にも、確かな体温があった。荒い呼吸があった。血が巡る音が、すぐ隣にあった。どれほど人間離れした力を振るっても、その肉体は人間のそれだった。


 しかし、兵士たちの視線が彼に向けられた瞬間、カーターはわかった。

 もう、届かない。


 命を救われた者たちの目が、彼を「人間」として見ていなかった。英雄として、象徴として、神話として——手の届かない何かとして、彼を見ていた。その視線が、彼をそこへ押し込めていく。彼自身が望んだわけでもないのに。


 ――この方は、こうしてまた独りになられるのか。


 カーターは、雨の中に立つ背中を見ていた。

 功績が大きくなるたびに、周囲との距離が開いていく。届く声がなくなっていく。それでも彼は、そのことを誰にも言わないだろう。言い方を、知らないから。


 今日を境に、彼は真に人の手の届かない象徴となった。


 ――ならば、せめて私だけは。


 カーターは、静かに決めた。この鋭すぎる刃を収める鞘であり続けよう。どこへ行っても、何を成しても、その隣に立ち続けよう。それが、自分にできる唯一のことだった。


 雨が、まだ降り続けていた。



感想もらえたらうれしいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
続編が楽しみです
2026/03/12 18:56 kunito moroyama
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ