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第3話

 ヴァルカーが来るときは、決まって碌なことがない。


 ビィの中での彼の位置づけは、「兄さんに厄介事を持ち込む不吉な伝書鴉」だった。宮廷魔導師というのは、この国では選ばれた者しか就けない職だ。それなのにヴァルカーがいつもやっていることといえば、書類を届けて用件を告げて帰るだけ。……もしかして、実力がないから伝言係なんてやらされているんじゃないか。その疑念を、ビィはずっと拭えずにいた。


 ――まあ、苦手な相手のことは悪く考えてしまうものだ、とビィ自身もうっすら自覚してはいたが。


 ただ、そういう人物が兄を頼って来るという事実は、素直に誇らしかった。

 宿の軒先で、ヴァルカーは書類を取り出した。


 「依頼です。鏡の魔獣——イルジオンシュピーゲル。二年前の惨劇の折に確認されて以来、今もこの地域で犠牲を出し続けている」


 二年前。凍てつく凶霧(フロスト・タイド)


 あの夜、魔獣の首魁の強襲で、軍の精鋭部隊深霧(ティーフネーベル)が壊滅した。鏡の魔獣イルジオンシュピーゲルはその首魁ではない。しかし、鏡面で個人のトラウマを幻影として映し出し、精神を蝕んで自滅させる——その搦め手が、あの夜の混乱に拍車をかけた一因だったとも言われている。


 首魁を討ったのは、万魔の魔導公(グリモワール)だ。しかし鏡の魔獣イルジオンシュピーゲルは今もどこかに生きている。


 「わかりました」


 カーターが書類を受け取った。ビィはその隣で、依頼の内容を頭の中で整理する。鏡の魔獣イルジオンシュピーゲル。幻惑系。精神攻撃。兄さん一人で当たらせるには、少し――


 「今回は、私も同行します」


 ヴァルカーが言った。

 ビィは顔を上げた。


 「……えっ?」


 聞き間違いかと思った。


 「ヴァルカーさん、ついてくるんですか……?伝言係なんてやってるのに、大丈夫なんですか……? ひえっ」


 最後の一音は、ヴァルカーの目が細くなった瞬間に出た。ビィは即座に兄の背後に回り込み、外套の裾を両手で掴む。

 ヴァルカーの眉が、ぴくりと動いた。引き攣った顔が、何かを言いかけた形のまま固まる。そのまま、視線だけが鋭くビィを刺した。


 「……失礼な方ですね、相変わらず」


 低く、削れた声だった。


 「す、すみません……。でも、本当に大丈夫ですか? 鏡の魔獣イルジオンシュピーゲルは精神攻撃が強力で、対策なしで近づくのは危険で……」


 「ビィ」


 カーターの声だった。それだけで、ビィの言葉が止まる。


 「ヴァルカーさんが来てくれるなら、心強い」


 ビィは外套の裾を握ったまま、ヴァルカーをちらりと見た。

 ヴァルカーはカーターの方を向いていた。その目に何があるのか、ビィにはよくわからなかった。怒りでも、軽蔑でもない。もっと複雑な、言葉にならない何かが、一瞬だけ過ぎった気がした。


 「……では、明朝出発で」


 それだけ言って、ヴァルカーは踵を返した。

 軒先に、霧が流れ込んでくる。

 兄さんを危ない目に遭わせたくない。そう思うたびに、胸の底でじくりと灯るものがある。


 ――今度こそ、役に立たなければ。



 ヴァルカーが去ると、部屋に静けさが戻った。

 カーターが椅子を引いて座る。ビィも向かいに腰を下ろした。霧が窓を白く塗り潰している。


 「今回の依頼だが」


 カーターが言った。抑揚を抑えた、静かな声だった。


 「鏡の魔獣イルジオンシュピーゲルの生息域には、条件の合う個体が潜んでいる可能性がある。これなら期待できそうだ」


 媒介のことだ。ビィは小さく頷いた。


 強力な禁忌の術の媒介となるという高魔力結晶——それを求めて、二人はずっと各地を巡っている。国からの危険な依頼を受けるのも、遠征に出るのも、全部その一点に繋がっている。そしてその糸の先には、王都の奥深くで禁忌の研究に没頭しているという、あの大魔導師がいる。


 万魔の魔導公(グリモワール)


 二年前の凍てつく凶霧(フロスト・タイド)で、絶望的な戦場に一人残り、魔獣の首魁を討ち取った英雄。今は国家の監視下で隠遁しながら、屍を操るという死霊術や、死者を冥界から呼び戻すという反魂術といった、禁忌を研究しているという噂が、ひそかに流れている。


 媒介さえ手に入れば、グリモワールとの約束が果たせる。そうすれば兄は、この危険な任務から解放される——その交換条件が、二人をここまで引っ張ってきた。


 ビィはその名を心の中で転がした。英雄と呼ばれた人が、今は禁忌の暗闇の中にいる。不気味だとは思う。でも今は、それしか道がなかった。


 これまでに何度も、条件に合いそうな個体を仕留めてきた。しかし採取した結晶はいつも、鑑定の結果「属性不適合」と判定された。強力な術の媒介として機能するためには、魔力量だけでなく、属性の比率まで精密に合致しなければならないらしい。


 ビィの資質ではない。ビィの努力ではどうにもならない、世界の残酷な理だ。

 わかっている。でも、何度目でも堪える。


 病院の天井を見た夢を、ビィはよく見る。


 2年前の凍てつく凶霧(フロスト・タイド)——あの惨劇の日、ビィは他の魔導師協会員と同じく、街の防衛任務に就いていた。例年どおりであれば、魔獣たちは前線の魔導師団に阻まれ、街に到達することはないはずだった。しかし、前線は瓦解。魔獣の群れが街を襲った。そのうちの一体の爪がビィを切り裂き……気がつくと、病院のベッドの上だった。


 目を覚ました瞬間の、鼻を突く薬の匂い。身体を内側から焼くような高熱。瞼を開けるのが、石を持ち上げるみたいに重かった。


 視界が滲む中に、兄の顔が見えた。

 触れてきた手が、ひんやりとして、心地よかった。熱に浮かされた身体に、その冷たさだけが、澄んでいた。


 後から知った。自分が生死の境を彷徨っていたその間に、カーターは宮廷魔導師専任護衛騎士——深霧(ティーフネーベル)の専任騎士という栄職を、すでに辞していたのだと。相談も、報告も、一切なしに。


 目覚めた時の安堵より先に、絶望が来た。


 ——兄さんの未来を、僕が奪った。


 その事実は今も、胸の奥に重く沈んでいる。消えない。消せない。何年経っても、ふとした瞬間に浮かび上がってくる。


 「……兄さん」


 ビィは机の木目を見つめながら、言った。


 「媒介が見つかれば、グリモワールとの交換条件が果たせる。そうしたら兄さんは、あの人に縛られなくて済む」


 カーターは何も言わなかった。

 ビィは続けた。自分の声が、少し早口になっているのがわかった。


 「また昔みたいに、二人だけで——」


 そこで、止まった。


 ——昔みたいに。二人だけで。


 その言葉の裏側を、自分で聞いてしまった。


 ——僕だけの兄さんに、戻ってほしい。


 そう思っている。思っていた。ずっと。媒介を求めて走り続ける理由の中に、そのどす黒い本音が混じっている。兄を解放したいという気持ちと、取り戻したいという欲望が、区別もつかずに絡まっている。


 ——最低だ。

 ——兄さんはエリートの道を捨てて、今もそばにいてくれている。なのに僕はその見返りを勝手に計算して、「僕だけのもの」に戻ることを夢見ている。


 ビィは俯いた。


「……ごめん。変なこと言った」

「気にするな」


 短い返事だった。カーターの声は静かで、責める色も慰める色もなかった。感情を律しきった騎士の優しさだ、とビィは思った。不安な自分を安心させるために、あえてそうしていてくれる。


 いつもそうだ。

 だから、ちゃんとしなければ。


 エゴを、贖罪に変えなければ。兄の未来を奪ったのなら、取り戻す手伝いをする。縛り付けているものを、解き放つ。そのために強くなる。いつか本当に、役に立てる「相棒」になる。


 独占したいという醜い気持ちを、そこへ全部注ぎ込む。

 それしか、今の自分にできることがなかった。


 「次の遠征、絶対に成果を出す」


 ビィは顔を上げた。


 「約束する」


 カーターが頷いた。

 霧が、窓の外で静かに流れていた。



 朝の霧は、夜より白かった。


 街の門前に、三人の人影があった。石畳が霧を吸って湿り、足音が妙にくぐもって聞こえる。

 カーターが、ビィの前に片膝をついた。


 「マントの紐が緩んでる」


 言いながら、手際よく結び直す。肩の埃を払い、衿を整える。ビィは大人しくされるがままになりながら、少し俯いた。


 「……兄さん、僕もう子供じゃないんだけど」

 「寒くないか?」


 聞いていなかった。

 ビィは苦笑して、小さく「大丈夫」と答えた。もったいないくらいの幸福だと思う。こんなに構ってもらえる理由が、自分にはまだよくわからない。


 その時、少し離れた場所で、ヴァルカーが露店の店主に声をかけているのが見えた。


 「……すまない、店主。月光草の蒸留液はあるか? できるだけ純度の高い、熟したものだ」


 月光草。

 その言葉に、ビィは思わず足を止めた。


 ——あれ? 月光草って……。


 頭の中で、文献の記述が蘇る。月光草の魔力特性。その蒸留液が持つ、幻影を暴く性質。そして——


 「あの……ヴァルカーさん」


 ビィは、おそるおそる声をかけた。ヴァルカーが振り返る。


 「その月光草って……今回の任務、鏡の魔獣イルジオンシュピーゲル用に、ですか……?」

 「当然だろう」


 ヴァルカーが、憮然として答える。


 「鏡の魔獣イルジオンシュピーゲルの幻影を暴くには、月光の魔力特性が必要だ。何を言っている」

 「あ、すみません……あの、あの……でも……」

 「何だ?」


 ヴァルカーの声に、微かな苛立ちが混じる。

 ビィは一瞬躊躇した。でも、これは確認しておかなければいけない。万が一のことがあったら、大変だ。


 「今回の現場、今は『反転霧』の状態なので……月光系の触媒は魔力干渉を起こして、使った瞬間に術式が爆発すると思いますよ……?」


 ヴァルカーの動きが、止まった。


 「……は?」

 「反転霧っていうのは、霧の粒子が通常とは逆の魔力特性を帯びる現象で……月光草の蒸留液を使うと、魔力経路が逆流して……」


 ビィは、頭の中で文献の記述を辿りながら、言い募る。


 「《氷森の弔い歌》にも載ってるんです。霧の底で月を歌えば、銀の糸が逆流して命を食らう、って」

 「……《弔い歌》だと? あんなものは酒場の酔っ払いが歌う、出鱈目な叙事詩だろう。傍流の道楽研究所が騒いでいると聞くが、魔導院では正式に実証されていない」

 「や、でも、アーベント遺物研究所とクライス気象導力研究所の共同研究では、あの詩の『銀の糸』は反転した魔力経路の隠語だと実証されていて……。実際に、今回の現場の報告書の気象記録の欄に――付記のところです――霧の組成値が通常偏差の一・七倍という数字があって。あの数値だと、反転霧の発生条件を満たしていると思うんですが……」


 こんな基本知識、何を迷うことがあるのだろうか。ビィは、純粋な疑問を口にした。


 「……え? ヴァルカーさん、宮廷魔導師……ですよね? 大丈夫、ですか……?」


 周囲の空気が、一瞬で凍りついた。

 ヴァルカーの顔が、見る見るうちに引き攣っていく。


 「あっ」


 ビィは、はっとした。


 「だ、だからヴァルカーさん、伝言係なんてやらされ……」

 「おい……!」


 地を這うような低い声。ヴァルカーの瞳が、怒りなのか驚愕なのか判別できない複雑な色を帯びて、ビィを射抜いた。


 「ひぇっ! ご、ごめんなさ……っ!」


 ビィは反射的にカーターの背中に飛び込み、兄の服の裾をぎゅっと握りしめた。


 針葉樹の匂いが、鼻腔を抜ける。

 その瞬間、脳の奥を何かが走った。鋭い、一筋の痛みだった。


 ――夜更かしのせいだ。昨夜、資料の照合に夜中まで掛かってしまったから。


 ビィは目を細めて、こめかみを指先で押さえた。

 ヴァルカーが、ビィを見る目を眇める。


 「すまない、ヴァルカー。こいつは少し、根を詰めすぎる癖があってね」


 カーターが、さりげなくビィの前に出ながら、落ち着いた声で言った。

 ヴァルカーは何も言わなかった。視線を霧の向こうへ向け、深く重い息をついた。眉をしかめて、目をそらす。ビィには、自分が呆れられているのだとわかった。無理もない。専門家に向かって失礼なことを言った上に、体調管理もできていない。


 ――情けない。でも、落ち込んでいる場合じゃない。


 ビィはこめかみから手を離し、背筋を伸ばした。


 「あの、ヴァルカーさん」


 ヴァルカーが振り向く。


 「今回の任務、僕も精一杯頑張ります。兄さんの足手まといにならないように、資料の照合も魔力探知も、誰よりも正確にやってみせますから」


 ヴァルカーは、一瞬だけビィを見た。

 その目に何があったのか、ビィにはわからなかった。怒りでも、蔑みでもない、もっと奥の方にある何かが、ほんの一瞬だけ過ぎった。すぐに、霧の向こうへ目をそらした。


 「……行きましょう」


 それだけ言って、ヴァルカーが歩き出した。

 ビィはカーターと並んで、その後に続いた。霧が、三人を静かに包んだ。


 ――今度こそ、ちゃんとやってみせる。


 頭痛は、もう引いていた。



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