第13話
最終話です。
目が覚めたとき、初めに感じたのは土の冷たさだった。
頬がじんとしている。口の中に泥の味。瞼が重い。
――どのくらい、経った。
ヴァルカーは意識を手繰った。霧の底。鏡の魔獣。幻惑。あの方の記憶が揺れた。そして人形が――。
起き上がろうとするが、腕が言うことを聞かない。それでも顔を上げて、視線をめぐらせる。
――どうなった。グリモワールは……。
視線の先には……。
二人が、いた。
カーターが、彼の外套の汚れを叩いている。彼が、カーターの袖を払っている。どちらも黙ったまま、どちらも丁寧に、まるで儀式のように互いの泥を落とし合っている。
ヴァルカーのことなど、気にも留めない。
重い体を引きずり上げ、力なく幹にもたれかかった。
後頭部が、じんと痛んだ。肋が、息をするたびに軋む。さっきまで気にもならなかったそれらが、今になって、どっと押し寄せてくる。
あれほどの幻惑だった。
鏡の魔獣が記憶をえぐるなら、封印が揺らぐかもしれない――そう踏んでいた。条件は、これ以上ないほど揃っていた。
だが今、彼は兄の袖の泥を、何事もなかったように払っている。
ポケットの中のドライフルーツを探る。一粒、口に放り込んだ。
味がしなかった。砂を噛んでいるようだった。
怒りはない。嘆きもなかった。それらを感じ続けるには、何かがまだ残っていなければならない。
惨劇の後、あの方が目覚めたとき、国は使い物にならないと判断した。フロスト・タイドで精鋭部隊は壊滅し、あの方の力だけが頼みだというのに、残ったのは魔力も満足に扱えない、か細い「弟」だけだった。だから媒介という餌を用意した。あの方を戦場へ運ぶ取っ手を引く――自分は、その伝言係だ。
もっとも、今回の任務には、自分にも賭けてみたい理由があった。
鏡の魔獣の幻惑による、記憶の封印の決壊。しかし――
これが、その顛末だ。
カーターの手が、彼の首筋で止まる。
外套の内側から、白い布を取り出す。ゆっくりと広げて、丁寧に、首に巻いていく。赤黒い手の痕が、一層ずつ、消えていく。
彼が「ありがとう」と言った。カーターは何も言わなかった。
目を逸らした。
――まるで、鎖のようだ。
ポケットに手を入れ、もう一粒、放り込む。
眉をしかめた。
*
どのくらい、そうしていただろう。
不意に、視線を感じた。項垂れていた顔を上げると、彼がこちらを見ていた。少し気まずそうに、それでもいつもの顔で、首をかしげてみせた。
「……ヴァルカーさんも、使いっ走りをさせられて大変だね」
ヴァルカーは何も言わなかった。
気にした様子もなく、彼が続ける。
「媒介の採取に失敗したから、グリモワール様に怒られちゃうかな……」
少し、顔をしかめた。怒られるのは嫌だ、という顔だった。
彼の中では、そういうことになったらしい。
ヴァルカーは、ドライフルーツを噛んだ。
「使いっ走り」という言葉が、また刺さる。
あの方にとって自分は、二年前からずっと、その程度の存在だ。
「……そろそろ、宿に帰ろうか、兄さん」
彼がそう言うと、カーターは黙って従った。
霧が、二人をゆっくりと包んでいく。
……立ち上がれなかった。
自分が何をしたところで、彼らの平穏は続いてゆく。
……でも、それでも。
瞼の奥には、四年前の閣下の姿が焼き付いたまま、消えない。
きっと、また、伝書鴉に戻るのだ。
***
暗い……。
知らない、部屋。月の、明かり……。
ここは、どこだ……。
あたまが、朦朧として、なにも……。
あたりを、見回す。頭が、重い……。
月明かりのもとの、寝台に、だれか……。
おとうと、弟だ……。
ちぢこまって、うなされて……。
足を、踏み出す。……重い。引きずるように、近づく。
いかなければ。いかなければ……。
――おまえのせいなのに?
びくり。
なにか、きこえた、けれど。
自分が、いって、あげなければ……。
また、足を、踏み出す。
やっと、弟のもとに、たどり着く。
かすかな明かりの下の、首筋に、赤黒い、指のあと。
手を、のばす。
なんで、こんな。だれに……。
――おまえがやった。
びくり。
――おまえのせいだ。
――おまえが縛り付けている。
――おまえが苦しめている。
こえ、こえ、こえが……。
おれの、声が……。
のばしかけた、手が、さまよう。
「にい、さ……いかな、で……」
まなじりに、涙……。
手を、のばす。のばす……。
そっと、涙を、拭って、手を、にぎった。
「だい、じょうぶ……」
裡からひびく声は、まだ、聴こえる、けれど……。
こわばる、くちの端を、ひきあげる。
あたまに、もやが、ひろがっていく。
「ずぅっと、いっしょだよ……」
――そうして、歪な魂は、ふたたび、眠りの底に沈んだ。
おしまいです!
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