第12話
ビィが、泣いている。
霧の中で、名前を呼んでいる。何度も、何度も。声が震えている。
泣かなくていいのに。ちゃんと守れた。それだけで十分だ。
雪が頬に落ちた。
刺さるように冷たい。背中が、熱く、ぐっしょりと濡れている。生々しく、焼けるように熱かった。
鉄錆と、砕かれた苔の匂いが、鼻腔の奥に張り付いている。焦げ付いた空気の残響が、まだそこにある。
喉からは、声の代わりに、かすれた息がでるばかり。
意識の縁が、滲んでいた。
そのまま、懐かしい記憶に、滑り込む。
*
歳が離れて生まれた弟。ちいさな手足をばたつかせて、いつも泣いていた。
おそるおそる抱き上げると、顔をくしゃりとさせて、笑顔を見せてくれた。
*
ビィは体が弱かった。熱を出すたびに寝込んで、外に出られない日が続いた。
両親は仕事に出て不在が多い。カーターが学校から帰ると、魔導書を絵本代わりに抱え、一人待っていた。
扉を開くと、ぱっと顔を上げ、ほころぶように微笑む。
それが、嬉しかった。
*
両親が亡くなって、二人きりになった。
弟には、もう、自分しかいない。
自分が、ビィを守らなくては。
*
幼年学校の中庭。
迎えに行ったある日、石畳の端に、ぽつんと立つ、ビィを見つけた。
「親なしのチビは向こう行けよ」
心無い言葉が飛び、身体がさらに小さく縮こまる。まるで、周りから見えなくなろうとするように。
「ビィ!」
大きく手を振りながら呼びかける。
ビィが顔を上げた。
涙に潤む目がこちらを向き、――ぱっと、花が開くように、頬を紅潮させて、笑った。
自分だけが、この顔を知っている。
自分だけが、この子を笑顔にできる。
*
弟は人づきあいが得意ではなかった。
必要なことしか口にしない。感情的な言葉を持たないのではなく、届ける手順を学び損ねたように見えた。
周囲はそれを冷たさ、見下しと受け取ったようだった。
「偉そうに命令ばかり」
「人を人とも思っていない」
カーターにはそう見えなかった。
ただ、恐れているだけだ。周りへの警戒で、自分を大きく見せようと振る舞っている。
でも自分は、その奥に、中庭で肩を縮めていたあの子がいると、知っていたから。
「弟は、不器用だから、言葉選びがうまくないんだ。ごめんね」
「閣下は、繊細でいらっしゃるから、私が代わりにお伝えしますよ」
だから、自分が間に入って、相手との間を取り持った。
そのたびにビィは言った。
「ありがとう」
「やっぱり兄さんは頼りになるね」
「兄さんは僕のことなんでもわかってくれる」
中庭で見た、あの、花が開くような笑顔で。
*
ある日、生真面目な同僚の魔導師が、珍しく自分へ声をかけてきた。
深い紫青の瞳は、不機嫌そうに、しかし真剣な色を滲ませていた。
「あなたのその振る舞いは、閣下の社交の機会を奪っているのでは? 」
カーターは穏やかに受け流した。
弟は繊細なのだから、自分が緩衝してあげなければ。
彼らはわかっていない。やはり、弟を理解できるのは、自分だけだ。
*
あの時もそうだ。
弟が魔導学校に通っていたころ、学友と思しき青年と話しているのを見かけた。
ビィは彼に笑いかけていた。胸の奥に、ざわつきを感じた。
――これが、兄離れ、かな。よかった……うん、よかった……。
しばらくして、二人の間で言い争いがあったようだった。
術式の見解が食い違ったらしい。
――ほら、やっぱり、うまくいかない。
弟は繊細だから、自分が助けてあげないと。
正しい形に、収まった気がした。
「すまないね、弟の言い方が悪かったようで」
穏やかに、そう言った。
相手は「いえ、こちらこそ」と言って、その場は収まった。
ビィは何も言わなかった。
彼とビィは、それ以来話さなくなった。
あの時だって、ビィは泣きそうな顔をしてうつむいて……。
――そうだったか?
ビィは。彼と口論をしたあの時、ビィは、どんな顔をしていただろうか。
うつむいて、目に涙を溜めて……。
しかし、カーターが相手に歩み寄る、その直前。
ビィは、息を吸っていた。
口を、開きかけていた。
怖がっていた。震えていた。それでも――覚悟を決めた顔を、していなかったか。
――違う。
ビィは、自分で頑張ろうとしていた。
――違う。
自分が、邪魔をしていた。
――違う。
ビィが笑いかけているのを見て、胸がざわついて。ケンカになっているのを見て、やっぱり自分が守らないといけない、これが正しい形だって……。
――――違わない。
*
弟の、泣き声が、耳に届く。
――ビィが……泣いている……。
――なぐさめて、あげなくては……。
意識が、遠い。
口の端を引き上げて笑った。いつものように。
声をかけてあげなければ。自分がいなくなっても、やっていけるように。
兄としての、最後の、仕事だ。
『俺がいなくなっても、前を向いて生きていきなさい』
大丈夫。両親がいなくなった時と同じ。
少し、落ち込むかもしれないけれど。
やがて、顔をあげて、立ちあがって、笑って……。
――俺じゃない、だれかに……?
言葉が、のどに絡まる。
弟の手を包む掌に、力がこもる。つよく、つよく……。
「大丈夫……」
口の端が、引きつり、歪んだ。
「ずぅっと、いっしょだよ……」
最期に口をついて出たのは、みにくくあふれた、「願い」だった。
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