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第12話

 ビィが、泣いている。


 霧の中で、名前を呼んでいる。何度も、何度も。声が震えている。

 泣かなくていいのに。ちゃんと守れた。それだけで十分だ。


 雪が頬に落ちた。

 刺さるように冷たい。背中が、熱く、ぐっしょりと濡れている。生々しく、焼けるように熱かった。

 鉄錆と、砕かれた苔の匂いが、鼻腔の奥に張り付いている。焦げ付いた空気の残響が、まだそこにある。


 喉からは、声の代わりに、かすれた息がでるばかり。

 意識の縁が、滲んでいた。


 そのまま、懐かしい記憶に、滑り込む。



 歳が離れて生まれた弟。ちいさな手足をばたつかせて、いつも泣いていた。

 おそるおそる抱き上げると、顔をくしゃりとさせて、笑顔を見せてくれた。



 ビィは体が弱かった。熱を出すたびに寝込んで、外に出られない日が続いた。

 両親は仕事に出て不在が多い。カーターが学校から帰ると、魔導書を絵本代わりに抱え、一人待っていた。


 扉を開くと、ぱっと顔を上げ、ほころぶように微笑む。

 それが、嬉しかった。



 両親が亡くなって、二人きりになった。

 弟には、もう、自分しかいない。

 自分が、ビィを守らなくては。



 幼年学校の中庭。

 迎えに行ったある日、石畳の端に、ぽつんと立つ、ビィを見つけた。


 「親なしのチビは向こう行けよ」


 心無い言葉が飛び、身体がさらに小さく縮こまる。まるで、周りから見えなくなろうとするように。


 「ビィ!」


 大きく手を振りながら呼びかける。

 ビィが顔を上げた。


 涙に潤む目がこちらを向き、――ぱっと、花が開くように、頬を紅潮させて、笑った。


 自分だけが、この顔を知っている。

 自分だけが、この子を笑顔にできる。



 弟は人づきあいが得意ではなかった。

 必要なことしか口にしない。感情的な言葉を持たないのではなく、届ける手順を学び損ねたように見えた。

 周囲はそれを冷たさ、見下しと受け取ったようだった。


 「偉そうに命令ばかり」

 「人を人とも思っていない」


 カーターにはそう見えなかった。

 ただ、恐れているだけだ。周りへの警戒で、自分を大きく見せようと振る舞っている。

 でも自分は、その奥に、中庭で肩を縮めていたあの子がいると、知っていたから。


 「弟は、不器用だから、言葉選びがうまくないんだ。ごめんね」

 「閣下は、繊細でいらっしゃるから、私が代わりにお伝えしますよ」


 だから、自分が間に入って、相手との間を取り持った。

 そのたびにビィは言った。


 「ありがとう」

 「やっぱり兄さんは頼りになるね」

 「兄さんは僕のことなんでもわかってくれる」


 中庭で見た、あの、花が開くような笑顔で。



 ある日、生真面目な同僚の魔導師が、珍しく自分へ声をかけてきた。

 深い紫青の瞳は、不機嫌そうに、しかし真剣な色を滲ませていた。


 「あなたのその振る舞いは、閣下の社交の機会を奪っているのでは? 」


 カーターは穏やかに受け流した。


 弟は繊細なのだから、自分が緩衝してあげなければ。

 彼らはわかっていない。やはり、弟を理解できるのは、自分だけだ。



 あの時もそうだ。


 弟が魔導学校に通っていたころ、学友と思しき青年と話しているのを見かけた。

 ビィは彼に笑いかけていた。胸の奥に、ざわつきを感じた。


 ――これが、兄離れ、かな。よかった……うん、よかった……。


 しばらくして、二人の間で言い争いがあったようだった。

 術式の見解が食い違ったらしい。


 ――ほら、やっぱり、うまくいかない。


 弟は繊細だから、自分が助けてあげないと。

 正しい形に、収まった気がした。


 「すまないね、弟の言い方が悪かったようで」


 穏やかに、そう言った。

 相手は「いえ、こちらこそ」と言って、その場は収まった。

 ビィは何も言わなかった。


 彼とビィは、それ以来話さなくなった。


 あの時だって、ビィは泣きそうな顔をしてうつむいて……。


 ――そうだったか?


 ビィは。彼と口論をしたあの時、ビィは、どんな顔をしていただろうか。

 うつむいて、目に涙を溜めて……。


 しかし、カーターが相手に歩み寄る、その直前。

 ビィは、息を吸っていた。

 口を、開きかけていた。


 怖がっていた。震えていた。それでも――覚悟を決めた顔を、していなかったか。


 ――違う。


 ビィは、自分で頑張ろうとしていた。


 ――違う。


 自分が、邪魔をしていた。


 ――違う。


 ビィが笑いかけているのを見て、胸がざわついて。ケンカになっているのを見て、やっぱり自分が守らないといけない、これが正しい形だって……。


 ――――違わない。



 弟の、泣き声が、耳に届く。


 ――ビィが……泣いている……。

 ――なぐさめて、あげなくては……。


 意識が、遠い。


 口の端を引き上げて笑った。いつものように。

 声をかけてあげなければ。自分がいなくなっても、やっていけるように。


 兄としての、最後の、仕事だ。


 『俺がいなくなっても、前を向いて生きていきなさい』


 大丈夫。両親がいなくなった時と同じ。

 少し、落ち込むかもしれないけれど。

 やがて、顔をあげて、立ちあがって、笑って……。


 ――俺じゃない、だれかに……?


 言葉が、のどに絡まる。

 弟の手を包む掌に、力がこもる。つよく、つよく……。


 「大丈夫……」


 口の端が、引きつり、歪んだ。


 「ずぅっと、いっしょだよ……」


 最期に口をついて出たのは、みにくくあふれた、「願い」だった。


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