第11話
「兄さん……いや……お前は、僕が作った、人形だ……」
そう、宣告された瞬間、カーターの表情が止まった。
凪いだのではない。止まった。眦の角度、口角の位置、わずかに開いた唇の形——慈愛を模した造形が、そのままの輪郭で固定され、光だけが消えた。清流の色だったものが焦点を失い、ただの透明な球体になっていく。
次の瞬間、背中から地面が迫る。
胸をつかまれ、泥の上に叩きつけられた。
カーターはそのまま圧しかかり、ヴィンセントの首に手をかける。
締め付ける力に加減はなく、骨が軋んだ。濡れた腐葉の匂いが、鼻腔に押し込まれた。
壊れた蓄音機のように、声が鳴り続けていた。「何も怖いことはない」「ずぅっとそばで守ってあげるから」――。
――またか。
視界の端が滲み始めていた。これで何度目か。首の骨の鳴り方だけが、ほんの少し気に障った。損傷が深ければ、修繕に手間がかかる。
カーターの眉間に、指を添える。
額に触れるより先に、術式の核心へ届いた。
「停止」
圧しかかっていたものが、音もなく崩れる。
金の髪が、霧の中に広がり、温度のない指先が、泥の上で開いた。
「それ」が、戻ってくる。
空いた器に、力が満ちる。
重しが外れ、懐かしい全能感がよみがえる。
上体を起こし、首に触れた。五本の指の形が、皮膚に刻まれて、紫黒く変色しつつある。舌打ちが漏れた。また始末が要る。
――手間をかけさせる。
腰を上げかけた、その刹那。
霧の質が、変わった。
粘りつくような、視界だけでなく思考まで塗り潰してくるような重さ。大気の密度が増し、流れの向きが変わった。霧の奥深くから、何かがこちらへ向かってくる気配が、指先まで伝わった。
姿が見える前に、それが何かわかった。
鏡の魔獣。
霧の中に、円い鏡が姿を現す。
その身体には輪郭がない。背後の針葉樹も、足元の泥も、そのまま体を透けて見える。ただ、周りの濃密な霧だけが、微かに歪み、その存在を示していた。
ヴィンセントは、それを静かにねめつけながら、立ち上がる。
――充分な魔力。使えそうだ。
泥を払う気にもなれなかった。
霧の中で、鏡面が広がり始めた。白く滑らかな面が展開し、何かを映そうとしている――像が結びかける、その刹那。
指を、持ち上げた。
霧が、沸いた。
大気が一瞬だけ軋み――次の瞬間、白光の奔流が霧を縦に割って迸った。
幾重にも束ねられた光の柱が、さまざまな軌道を描きながら鏡の魔獣へ向かって収束していく。
梢が揺れ、霧が吹き散らされ、鬱蒼と閉じていた視界が一瞬だけ開く。
轟音が、遅れて響いた。
鏡の周囲の景色が剥がれるように揺れ、実体を結ぶ。
鏡面が、粉々に砕けて散っていく。
異形の輪郭が内側から瓦解し、重力に従って崩れ落ちた。
森の静寂が戻り、残滓の燐光が霧に溶けた。
霧が、ゆっくりともとの場所へ戻ってくる。
ヴィンセントはその様子を眺めると、白い靄の中に沈んだ骸に、ゆっくりと歩み寄った。
骸の傍らに膝をつき、内部に手を差し込みかけ、一瞬、手が止まった。
――何度、こうして来たか。次、こそは……。
ゆっくりと息を吐いた。
そして、手を差し入れる。
何度も味わった感触。指先で探った。奥へ。もう少し奥へ。
硬いものに触れた。引き抜く。
手のひらのそれは、暗い光を帯びた結晶だった。透明な深さがあった。
鑑定。意識を沈め、指先から流し込んで、確かめた。
魔力量――十分だ。
属性の比率――合っている。
複数条件の精密な合致――全て、全て――
手が、止まった。
結晶を透かし見たまま、動けなかった。これまで討伐してきた何十という個体とは、根本的に違った。二年間、この答えを待っていた。
脳がしびれ、頬が紅潮する。
ヴィンセントは、結晶を握りしめたまま立ち上がった。
手が震えていた。呆れでも不機嫌でもない、別の何かが、身体の奥から突き上げてきていた。
儀式の手順が、頭の中で目まぐるしく展開されていく。
どこで行うか。魔法陣の構成は。全魔力の配分は――全部、見えていた。この瞬間のために何度も組み立て直してきた手順が、今初めて、動き出す。
――兄さんを、本物に戻す。
それだけが、今、世界の全部だった。
*
結晶を、中心に置く。
泥の上に膝をつき、霧の中で、魔法陣を描き始める。指先が動くたびに光の線が走り、術式の経路が地面に刻まれていく。この瞬間のために何度も組み立て直した手順が、今、初めて本物になっていく。
手が、震えていた。
止める気にはなれなかった。震えているなら震えたまま描けばいい。線は乱れなかった。乱れるはずがなかった。この手順は夢の中でも描ける。目を閉じていても描ける。
魔法陣が、完成した。
ヴィンセントは、全ての魔力を注ぎ込んだ。
光柱が立ち昇る。霧を押しのけて、木々の梢を越えて、天へ向かって伸びていく。
周囲の大気が震えた。冷たい霧が熱を帯び、足元が、光の脈動に合わせてかすかに揺れた。
――来る。
――来るはずだ。これだけ揃っていれば、来ないはずがない。
冥界の門を、叩いた。
全力で、呼んだ。
――兄さん。
光柱が一段高く昇った。術式の経路が完全に開いた。接続が確立された。門の向こうへ、声が届いている感触があった。あとは――あとは、応えてくれれば――
待った。
霧が、ゆらりと揺れた。梢で葉が擦れる音がした。遠くで枝が軋んだ。術式の光が地面を照らし、泥の凹凸に影を作っている。
……光の中に、応えはなかった。
――まだだ。まだ届いていないだけだ。
魔力をさらに絞り出す。術式の深度を上げた。経路を広げた。
もう一度、呼びかける。
待った。
風が、止んだ。森が、静まり返った。光柱だけが揺れている。
その揺れが、どこか頼りなかった。
術式の手ごたえが、薄い。
何かに吸われる感触はなく、ただ、空白へ向かって流れ出ているような――応えのない空洞へ、魔力が消えていくような――
経路を組み直す。魔力を足した。
もう一度、呼ぶ。
葉擦れだけが、聞こえた。
――拒絶。
脳裏に浮かぶ。押し込めた。違う。もう一度――
呼ぶ。
光柱が、揺れた。細くなった。梢が鳴った。光の中に、応えはない。
――拒絶。
また浮かぶ。今度は、押し込もうとして、できなかった……。
唇が、震えた。鼻の奥が熱くなる。
視界がぐらついて、涙が溢れ出した。
声にならない何かが、喉の奥から、漏れ出る。
――どうして。
――どうして来てくれない。媒介は揃えた。術式は完璧だった。何のために……何のために、ずっと…………。
――――禁忌を、犯したから。
涙が、滴り落ちる。
打ち消す言葉が、どこにもなかった。
――器を、もてあそんだから……眠りを、ふみにじった……から……。
――だから、戻りたくない……兄さんは、自分のもとには…………。
光柱が、消えた。
魔法陣の光が、外縁からなぞるように、音もなく薄れていく。ヴィンセントはそれを呆然と眺めていた。止めなかった。止めるための何かが、もう残っていなかった。泥の上に両手をつく。震えが、肩まで伝わる。頭が、重かった。
手の中の結晶が、暗い光を帯びたまま、静かにそこにある。
完璧な結晶が、何も変えなかった。
――ずぅっと、いっしょだよ。
声が、聞こえた気がした。ずっと、耳の奥に刻まれている。あの夜の温かい手のひら。凍える夜に、自分の震えを止めてくれた声。
その声に、しがみつきたかった。
理屈ではなかった。兄が戻ってこないなら……せめて、声だけでも。あの手のひらだけでも…………。
反魂術は、失敗した。
しかし、死霊術ならば。
声を聴かせてもらえる。隣にいてもらえる。
それは本物ではない。
本物ではないと、知っている。知っていて……それでも…………。
手が、兄の骸に伸びた。
気づいたら、触れていた。冷たい肩に。
術式を組む。慣れた手順だった。慣れていることが、みじめだった。
それでも、手は止まらなかった。
魔法陣が昏く光り、魔力が、骸へ流れ込んでゆく。
兄の瞼が、ゆっくり、持ち上がった。
ヴィンセントは眉間に指を当てた。
封じる。この夜を。この結晶を。この沈黙を。
――封じなければ、生きていけない。
意識が遠くなっていく。視界が滲んでいく。
薄れゆく意識の中で、兄の顔が、少し、歪んで見えた。
「……ごめんなさい」
声が、零れた。
意識は、そこで途絶えた。
*
目が覚めると、霧の森だった。
冷たくて、静かで、深い針葉樹の匂いがした。
ビィは瞬きをした。地面は固く、泥の匂いがした。
身体が重かった。
「起きたか」
兄の声がした。
ビィは上体を起こした。カーターが隣に座っている。静謐な清流の瞳が、こちらを見ていた。
「……兄さん」
「大丈夫か。随分うなされていたぞ」
うなされていた。そうか。
ビィは自分の手を見た。泥で汚れていた。膝も、外套の裾も、酷い有様だった。
「兄さんも、汚れてる」
「お前ほどじゃないがな」
カーターが立ち上がり、外套の裾を払った。
ビィも笑いながら立ち上がる。ふらつくが、カーターの手が、さりげなく肘を支えた。
二人で、互いの汚れを払い始める。
ビィが兄の肩の泥を叩くと、カーターがビィの外套の裾を払う。ビィが兄の袖を払うと、カーターがビィの頬の汚れを拭う。
言葉は少なかったが、それでよかった。
カーターの手が、ビィの首筋で止まった。
「少し、冷えるな」
外套の内側からストールを取り出し、丁寧にビィの首に巻いた。柔らかかった。温度はなかったが、それでも、息が、少し、楽になった。
「……ありがとう」
カーターは、何も言わなかった。ただ、その手で丹念に、ストールを整えた。
ビィは兄の胸に、額を預けた。
深い針葉樹の匂いがした。清流の石のような、ひんやりとした静けさがあった。
魔力を使いすぎた頭が、だんだん静まっていく。
霧が、二人を包んでいた。
「……ずぅっと、いっしょだよ、兄さん」
返事は、なかった。
ただ、カーターの手が、ビィの背に、そっと置かれた。
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