残響チヨコレイト
ざん‐きょう【残響】
ある音が鳴り終わったあとも、天井などに反響して、音が響いて聞こえる現象。
*
「一緒に遊ぼ。グリコ教えてあげるから」
現れた少年は、いかにも明朗快活そうだった。
うん も ううん も言わない私を、優しく公園に誘導していく。
「ルール、ぼくが考えたんだよ」
そして、道すがら、彼が急にそんな事をいうから面食らった。
「ルールって、一つじゃないの?」
目を白黒させながら訊くと、
「一つだなんて、夢がないなあ」
そう嘆いて、彼は空を仰ぐ。
「楽しいよ。“けいひん”があるんだ」
それってとってもいいね。
私は彼に、心酔してしまった。
“けいひん”という言葉と、やけに甘美な彼の声に、乗せられたのは、きっと今日が転校初日だからだ。
*
「グーリーコ!」
「チヨコレイト」
「グーリーコ!」
「パイナツプル」
ここでのグリコはどんなものだろう。
かすかな期待を抱きじゃんけんをしたのもつかの間、まったくもって普通のグリコで閉口してしまう。
「グリコ、普通だね」
咄嗟にそう口走ってしまった。しかし、少年は平静を保ったまま、
「これからが面白いよ。“けいひん”がもらえるんだ」と言った。
「一番にゴールした人のお菓子を、最後の人が買ってくるんだ!」
なにやら途轍もなく楽しいことのようだが、いまいちよく分からなかった。
*
「パイナツプル」
それから幾ばくもなく、一人ゴールした。
「みんなそこまでー」
少年が指示すると、最下位の子が一目散に公園を飛び出した。
しかし数分後、パインアメを手に舞い戻ってきた。
そして、皆に配って回る。
「一番にゴールした人のお菓子を、最後の人が買ってくるんだ!」
この意味がようやくわかった。
つまり、一等の人がグリコでゴールしたらグリコを、チョコレートならチョコを、パイナツプルならパインアメを、最下位の人が買ってきて配るのだ。
納得し、早速あめを口に放る。
“けいひん”は甘かった。
身も心もこころよく溶きほぐされるような感覚。
やにわに、買ってきてくれた子にお礼を言いたくなった。
「さっきは、あめ ありがとう」
「そんな、気にしないくていいよ」
「それにしてもさ、なんか変わったルールだね」
「そう。ケンちゃんが決めたの。でもね、なぜかケンちゃんだけ最下位になったことがないんだ」
彼女いわく、少年は、ケンちゃんというらしい。
でもね、なぜかケンちゃんだけ最下位になったことがないんだ。
ここでの生活も軌道に乗り、すっかり馴染んだあとも、この言葉だけがずっと気がかりだった。
*
「よーし、みんな、グリコするぞー!」
ケンちゃんの声は、いつにも増して朗々と響く。
だから、誰も気が付けなかった。
彼の顔の左側、口元のあたりに、わずかながら、陰りがあることに。
「グリコ!」
「グーリーコ」
「グリコ!」
「パーイーナーツプル」
夕焼けチャイムが鳴る。
いまのところは、ケンちゃんが優勢だ。
「グリコ!」
「チーヨーコレイト」
そしてそのまま、圧勝した。
なのに、なのに。
「あの、ぼく」
ケンちゃんは浮かぬ顔で、何やら言い淀む。
「あの。あの」
「ケンちゃん?どうしたの?」
「何でも、ないよ」
ケンちゃんは、子細顔でそう言った。
何か心配事でもあったのかな。
不可解に思いつつも、負けの私は駄菓子屋に直行する。
*
「ほら、チョコ。ケンちゃん元気だして」
パキンと軽快な音とともに、板チョコは割れた。
「あ、ありがとう。ぼくは元気だよ」
取って付けたようなセリフ、白々しい視線。
懐疑心を抱きつつも、チョコを口に押し込む。
ミルクチョコレートは、あっさり胃に消えた。
でも、歯に、口に、余韻が残って、完全には消えきらなかった。
「私、買う役ばっかり。ケンちゃんも、いつかはお菓子買ってよね」
「うん、そうだね。買ってもらってばかりで、悪いな」
にかっと笑う、太陽のような端正な顔を、斜陽が照らす。
*
あれから、早幾年。
そして、とうとう、ケンちゃんは約束を破った。
奇異なルールを作った彼は、食べる役のまま消えた。
もう、彼に奢られる機会はきっとない。
彼はあのあとすぐ、すっかり姿をくらましたのだ。
父と、母と、年子の弟と、高校生の姉とともに。
不審に思って同級生に訊いたが、
皆、「覚えてない」と口を揃えていい、
何処か遠いところを見る目つきをする。
みんな覚えていないのだ。
しかし、私は彼を忘れられない。
彼の存在自体は消えても、記憶からは消せない。
彼は、この上なく強烈だったから。
今も、夢うつつ、彼は私に言うのだ。
「一緒に遊ぼ。グリコ教えてあげるから」
私はいつもそうだね、と返す。
やっぱり彼は消えてくれない。
あの日食べた、ミルクチョコレートのように。
*
ざん‐きょう【残響】
ある音が鳴り終わったあとも、天井などに反響して、音が響いて聞こえる現象。
いつか、辞書をくっていたら、こんな言葉を見つけた。
何の変哲もない、私には縁もゆかりも無い言葉なのに、胸が締め付けられた。
そして、なぜだろう。
ふと、
「チヨコレイト」
とつぶやいていた。
口内に、ミルクチョコレートの甘みが満ちる。