88話 終り迎えしベトレイヤー
夥しい量の出血をしていた男は、そのまま失血によるショック症状を引き起こし手を施す間もなく死亡してしまった。
「駄目か……」
アイリスは手の中の中年男を優しく地に寝かせ、悔しそうに呟く。
「でもなんでこの男が……?」
リリムスが、二度と動くことのない男の顔を複雑そうな表情で眺めながら疑問を口にする。
今まで戦っていたのは、確かに『天族』ウートガルザだった。二メートルを超す長身に、三つ編みにされた茶色の髪、くすんだ白色のロングコートを身に纏った、あのウートガルザのはずだった。
「……恐らくだが」
『霊衣憑依』を解除し、往人と別れたアイリスがポツリと呟く。
彼女にも確証はなかった。だが、一つ心当たりがあったのだ。
「鏡合わせの魔法を使ったんじゃないかと思う……」
「なんだよ、それ?」
――『鏡合わせの魔法』
アイリスの口から語られたその魔法は、対象となる者(この場合は中年男になる)に自分自身をトレースさせる魔法だという。
動きだけでなく容姿や言葉遣い、戦いにおけるクセまで文字通り鏡で映したように。
だが難点もある。一つは自分も動かなくてはならないということ。鏡合わせという以上、自分が動かなくては鏡の中の自分、つまり対象者も動かないのだ。
もう一つの難点は、消費魔力の大きさである。自分の分身を作る、言ってしまえばそれだけの為に払う対価としては異様ともいえる量の魔力を消費しなければならないのだ。
明らかに費用対効果が合っていない。
「だからこそ、目にするまで気がつかなかったんだが……」
言い訳だな、と拳を握るアイリス。
魔法の存在も、敵の悪辣さも知っていたというのに後手に回ってしまったのが許せなかった。
「アイリスのせいじゃない」
そう言ったのは往人だった。以外にも冷静だった彼は、静かに横たわる男の見開かれた瞳を閉じる。
だが、その心にはマグマのように燃え滾る怒りが噴火の時を待っていた。
「本当に頭にきた時って、以外に冷静なんだな……」
そう言って、静かに拳を握り締める往人。その指の間からは、血がうっすらと滲み出ていた。
それほどまでにウートガルザのやり方が気にくわなかった。
人間を平気で道具として使って心を破壊し、そのうえ自分の身代わりに仕立てて安全圏で見ているだけ。
あまりに卑劣な行為に、もはや『魔導書』のデメリットを差し引いても止められないほどの怒りが彼の心の中に渦巻いていた。
「あの男だけは、俺の手で……殺す」
「そうか……そうだな。あの男は一線を越えた、もはや生きる資格すらない」
人間に手を出す事、クーデター以降形骸化していると言っても過言ではないが存在はしている禁則事項。
だが、アイリスもその事を追及するつもりはなかった。
クーデターを起こされたこと、異界人である往人を戦いに巻き込んでいること、自分自身の弱さ故に起きたことであるから、禁則事項を破られていることも自身の責任として受け入れるつもりだった。
それでも『天族』として、何よりも戦士として自分自身が戦おうとしない事は決して看過できなかった。
それは決して破ってはならない不文律。どんなことがあろうとも『天族』であるならば守られるべき事柄と思っていただけに、怒りと同時にショックも大きかった。
「ユキトがあいつを殺すと言うのなら、私はその為の道を作ってみせよう」
それは、アイリスにとって初めて『明確に同族を殺す決意』をした瞬間だった。




