39話 毒が護りし塔 The_Deadly sin part6
それは揺らめく陽炎のような不安定さはなく、確かな実感を持っていた。
今の今まで何もなかった虚空からアイリスが不意に出現したのだ。
「まさかっ……!?」
利用された、人形は気が付き咄嗟に身を翻そうとした。
蜃気楼。それは高温によって熱せられ膨張した空気が、光の屈折率を変える現象。そこにあるものが見えなくなったり、ありもしない幻が見えたりする。有名な事象としては彷徨う熱砂の中でオアシスの幻を見る者の話だろうか。
つまりは、今まで人形の手で蹂躙されていたアイリスはただの虚像で、本物は話術と共に背後へと回っていた、という訳だった。
蜃気楼を発生させるほどの熱が、この冷たい石造りの通路にあったかと思うが、その熱源は他でもない人形自身が作り出していた。
強固な石材をも融解させるほどの高温を帯びさせる『激毒』。その熱を利用してアイリスは蜃気楼を発生させたのだった。
先ほどアイリスの懐から零れ落ちた札。そこには炎熱操作の呪文が記されていた。
毒の鏃で貫いたその時から、人形が見ていたのは幻だったのだ。
それでも、人形はアイリスの戦術を見切っていた。いつも通りならば、回避することも余裕な攻撃のはず。その程度の斬撃だった。
だが、人形は視てしまったのだ。自身の攻撃にさらされ、見るも無残な姿となっている虚像を。そして、その虚像に重ねてしまった。今の、ただ記録をなぞるだけの自分自身を。
それは思考に空白を生む。そして空白は隙を生む。躱せたはずの斬撃を回避不可能な一撃へと変える、致命的な隙を。
人形の脳がようやく思考を取り戻したときには、すでにアイリスの持つ剣は振り下ろされていた。
炎熱操作の魔法を受け赤熱化した炎剣が、人形の左肩から先を斬り落とす。まるで炎天下でバターを切るかのように、何の抵抗もなく左腕は落ちていく。高熱の炎剣は斬ったそばから炭化させ、傷口からは一滴の血も流れなかった。
「ぐぅ……っ」
だが、人形の全身を苛むのは、腕を斬り落とされた苦痛ではない。
本物であればあり得ない醜態。弱体化した『女神』などにいいようにやられているなど、魔界の序列第五位にあるまじき事態である。
それらは、自分自身が人形なのだと、どうしようもなく思い知らせてくる。
「うぁああああああああああ!!!!!!!」
その咆哮が人形に残った最後の理性が崩壊する音だった。
残された右手で杖を構え、毒の鏃をメチャクチャに撃ちまくる。狙いもなにもない、ただただ暴れるだけの、幼子の起こす癇癪と何も変わらない行為。とはいえ、幼子が暴れても壊れるのは精々その子の玩具だけだろう。
だが、人形は粗悪品とはいえ仮にも魔界序列第五位の力を貸し与えられた存在。その力だけは『本物』である。
撃ちだされた毒の鏃は壁という壁を融解させ、周囲を毒で構成された溶岩の地獄へと変えていく。
「!?」
されに人形は杖を溶岩の中へ突っ込み、力任せに振り回す。
それだけで溶岩は恐るべき威力の弾丸となってアイリスを襲い始める。
「うぉおおおお!!!!」
もはや意味を持つ言葉を発することなく咆哮するだけの人形。塔が壊れることも、『魔導書』が失われることも構わず瞳に映る全てを壊すまで決して止まることはない。
「チッ!」
アイリスは飛んでくる炎熱の飛沫を、炎剣による爆発で吹き飛ばす。
『激毒』の力は本物。つまりは防御魔法もまともに通用しないということ。触れずに防御するにはこうするしかなかった。
それでも限界はある。アイリスが持つのは剣だけ。対して人形は周囲全てが武器も同然なのだ。杖を振ればそれだけで全てを飲み込む溶岩が溢れだす。
そもそもの物量が違う。これでは海に砂糖を溶かして砂糖水を作ろうとするのと同じだった。
「マズい……っ!!」
不意に足元がふらつく。それは遂に足元まで毒で融かされ始めた証拠だった。
バランスを崩した状態では高熱の弾丸を捌ききれない。
「くっ!!」
それでも最期の抵抗と炎剣を振るうアイリス。
その時、目の前を魂も凍りそうなほどの冷気が駆け抜ける。冷気は毒に融かされた溶岩ごと人形を凍り付かせていった。




