29話 太古の叡智は研鑽を望む The_Evil-Treatise part10
往人とリリムスが慌てて振り返る。
そこには一人の男が立っていた。年は三十くらいだろうか、真っ黒な修道服を着た男だった。だが、とても神父には見えなかった。
香水でもつけているのか甘い香りを漂わせている。肩にかかるくらいの青白い髪は左の襟足だけ漆黒に染められ、両の耳には鈍色のピアスがいくつも覗いている。口元では煙草の小さな火が小刻みに揺れている。
「……マルバス」
「お久しぶりです、我が魔王。いや、元魔王でしたね」
マルバス、と呼ばれた男は言葉遣いこそ丁寧だったが、その端々からはリリムスを見下した態度がありありと見て取れた。
「アレはアナタが?」
「ええ、我が毒の秘術で人間を使役しているのです。どうです? なかなかよくできているでしょう」
部屋の中のアレ、つまりは呪文を詠唱し続けている人間たち。それはこの目の前の魔族が元凶だったのだ。『毒』を使ったと言っているあたり薬物によるトリップに近い物だろうか。
「今すぐあの人たちを解放しろ!!」
「構いませんよ?」
「え……?」
マルバスはあっさりと往人の要求を飲んだ。あまりのあっけなさに往人は拍子抜けしてしまう。
中へ入ろうとマルバスが一歩を踏み出したその時だった。
「待ちなさぁい……」
リリムスが静かにそれを制止した。マルバスも素直にそれに従う。
「どうしたのですか? あのままではあの人間たちは死にますが?」
「ふっ、自分でやっておいてよく言うわぁ。それに魔導書の魔法は詠唱者以外が無理やり止めると術の逆流が起こるのを知っているくせに……」
「なんだとっ!?」
往人が怒りのこもった目を向けると、マルバスはバカにしたようにクスクスと笑っている。
「クフフ、ウソは言ってませんよ? 生きることから解放して差し上げようとしたんですから」
ふざけていた。この男にとって人間は単なるオモチャに過ぎないのだろう。適当に遊び、飽きたら捨てる。いくらでも変えの利く、都合のいい遊び道具。
「てめぇ……」
「相変わらずの悪辣さねぇ。簡単に裏切る訳だわぁ」
「フフフ、我ら魔族は元来一枚岩でもありませんのに何を仰る」
一笑に付し、マルバスは手の中に杖を出現させる。リリムスのとは違う、鈍い金色で先に赤黒い珠が嵌められた杖だった。
「あまり遊んでもいられませんので。申し訳ありませんが死んでいただきます。元・我が魔王」
マルバスの杖の先が毒々しい紫色の粘液を放つ。杖の先から迸る粘液は階段を、壁を伝い往人とリリムスへと向けて遅いかかる。
「くっ!」
リリムスは反撃の火球を指先から放つが、粘液に届く前に爆発を起こす。粘液から生じていたガスが可燃性のものだったらしい。
「フン、とはいえっ!!」
だが、マルバスは手を止めることなく、杖の先から鋭い毒の針を撃つ。『魔王』であるリリムスがあの程度で死ぬはずがないと分かっていたからである。
「油断してくれたら楽なんだけどぉ」
舞い上がる煙の中に声が聞こえる。放たれた毒針を全て防御魔法で防いだリリムスの声だった。
「霊衣憑依……ですか。らしいと言えばらしいですね」
肉体の主導権を往人から譲り受け、『魔王』として戦おうとするリリムス。
「安易な力に頼るその姿勢、どれほど愚かなのか分からせてあげるわぁ」
「出来ますかね? 私も魔導書を押さえているのですよ?」
その言葉にもリリムスは怯むことなく不敵に笑った。
「それはアナタ自身が一番分かっているはずよぉ?」




