124話 ヒューマン――The_New_Standard part7
痛みは感じなかった。
恐る恐る往人が目を開くと、ほんの数ミリというところで氷の刃は止まっていた。
「なんだと……!?」
殺されそうになった往人以上に驚いているのはクオーツ自身。それも無理もなかった。
自分の意思では指先一つ動かすことができないのだから。まるで見えない糸にがんじがらめにされているようだった。
「っ! クリスッ、貴様ぁ!!」
何が起きたのかをいち早く気が付いた博士がクリスを殴りつけようと拳を握る。
そう。クオーツが急に動けなくなった理由、それはクリスの持つ能力によるものだった。
彼女は遺伝子改造の結果、その瞳に視認した物体の動作を停止させる効果を有するに至っている。
しかし、その異能は彼女自身にもうまく制御できず、またその瞳を持つが故に他の魔法は施設が求める基準値に達していないなど、問題も多いため『失敗作』として扱われていたのだ。
「余計なマネをっ!!」
握られた拳がクリスの可愛らしい顔へと吸い込まれるその直前、博士の顔面に鋭い上段蹴りが炸裂した。
「それを大人しくやらせるはずがないだろう」
博士は普通の人間、『天族』の長であるアイリスの一撃をまともに受けて意識を繋いでいるのは不可能だった。
壁に思い切り叩きつけられ、そのままぐったりと動かなくなってしまう。
しかし、極度の緊張感の中で急に異能を使った弊害か、クリスをもフッと意識を失い床へと倒れこんでしまった。
「ああ、マズい!」
そうなれば、当然彼女に由来していた停止の異能も消失する。
もちろん、そうなって動かないクオーツではない。
「残念だったな……あともう少しでワタシを殺せたのに」
距離を取り、再び氷のサーベルへと形状を整えるクオーツ。その瞳は凍てつくサーベルとは対照的に怒りに燃えていた。
「プロフェッサーをよくもっ!!」
彼女は受精卵の状態から遺伝子改造を受けている改造人間。
故に生みの親とも言える博士に絶対の服従を誓っている。
その為、その親を傷つけられた怒りは相当な物だった。
「まずは貴様だっ!!」
疾風のごとく駆けたクオーツが向かう先は同胞、いや姉妹とも言えるクリスだった。
彼女が異能が発動しなければ博士が意識を失うような事態にはならなかった。
燃える怒りを凍てつくサーベルへと乗せ、横たわるクリスへ向けて突き出す。
「させないっ!!」
炎剣がそれを阻み、青い炎が氷の刃を融かしていく。
「邪魔……だっ!!」
刃を融かしながらも前へと押し進み、そのままの勢いでアイリスへと膝蹴りを叩き込む。
その反動を軸に、同様に止めようと駆ける往人へと宙返りをしながら踵落としを見舞う。
「がっ!?」
「死ねっ!! 愚かな失敗作が!!」
半ばまでとなったサーベルだが、それでも幼い少女を突き殺すには十分すぎるほどだった。
真っ直ぐ突き出されたサーベルがクリスの喉元から鮮血を噴き出させる直前――
「この混戦の中で、守りを固めていないはずがないでしょう?」
クオーツの体から鮮血が噴き出す。眠るように横たわるクリスから不意に放たれた紫電の槍によって。
それはリリムスが仕掛けたトラップ。
最初にクリスへ触れた、あの時に何かのためにと仕掛けておいたのだった。
「こんな形で役に立つとは思わなかったけどねぇ」
カラン、と冷たい音が小部屋に響き渡る。それは震えるクオーツの手がナイフを取り落とした音だった。
「馬鹿な……!? このワタシが……?」
ボタボタと溢れ出る鮮血は留まることはなく、むしろ彼女がよろめくその度にゴボゴボと音が聞こえそうなほどに出血量を増やしていく。
床の色が一秒ごとに赤くなるにつれて、クオーツの顔色は反比例して青ざめていく。
それは死が近づく証し。いくら改造された新人類といえども死を免れることは出来ない。
明滅し、段々と暗くなっていく視界の中でもクオーツはナイフを拾い上げる。
「ワタシの使命……は、侵入者と……失敗作の処……分」
まともに言葉すら紡げなくなっても、得物を再び落としたことに気が付かなくなってもクオーツの足は止まらなかった。
遺伝子に刻まれた絶対服従の意思に従って。
「ワタ……s……の」
不快な水音を響かせ、伸ばした手は往人の靴に赤い汚れを一点付けただけだった。