108話 トール ――Supremacy
――強すぎる。
宵闇。強い風が吹き荒れる氷原で、『魔族』の女は怯えた表情を浮かべる。
その手に握られた杖は半ばで折れ、周囲には同胞だろうか『魔族』の死体がいくつも転がっている。
とある目的の為、人間界へと赴いていた彼女たちの部隊。
それなりに訓練も受け優秀と評価もされて、いわゆる鳴り物入りという形で人間界へと来訪していた。
それだというのに。
身を隠す場所のない、氷原の上でカチカチと歯を鳴らしながら震える女の視線の先にいる『敵』。
それは白いはずの大地を『魔族』の血で染め上げ、転がる死体の中心に立つたった一人の少年。
年は十三、四歳ほどで、ほっそりとした体形に、透き通るように白い肌、それとは対照的に焼き焦がしたように赤黒い髪。
薄灰色の民族衣装のような恰好も相まってミステリアスな印象の少年だった。
その少年は、見る者に斬れ味鋭い刃物を想起させる。それも無理からぬこと、記録に残る彼の戦績はただの一度も敗北はない。戦場に立てば全戦全勝。
噂では、かすり傷一つ負ったことすら無いとまで言われている。
少年は、回避や防御など考えない一撃必殺の剣、それを追及した『鋭利さ』を内包していた。
少年の名は『トール』。
その名を知らぬ者はいないとまで言われる、『天族』最強の人物。
戦場を駆る雷翼。閃光の雷鎚と渾名される、『天界』でもナンバーツーの実力者。
(勝てるはずがない……)
恐怖に支配された『魔族』の女は、もはやその場から動くことすら出来なくなっていた。
本来なら、ここでトールと戦うのは目的ではなかった。
完全にイレギュラーな事態で、元々勝てる見込みなど在りはしなかったのだ。
そもそも、この世界でトールと真正面から戦いを挑んで勝てる者など存在しないかもしれない。
少し前にその座を追われた『魔王』ですら、トールと戦うことは避けていたくらいである。
だからといって、逃げることが叶う相手でもない。
結局、彼女たちの部隊が選んだのは、ほんの微かな、針の先ほどもないような確立に賭け戦うことだった。
無敗記録は公的な記録だけ。
残っていないだけで、負けたこともあるのではと半ば現実逃避気味に戦いを挑んだのである。
それでも、優秀と言われていた実力に嘘があるわけではなかった。
単独のトールに対し、彼女らは十数人の部隊。
数の差では圧倒している。
通常、数の差というものは実力で埋めることは出来ないと言われている。
二、三人ならまだしも、それ以上となればほぼ不可能である。とはいえ、トールはそれすらも埋められるだろうが、時間は当然かかる。
彼女らは、その圧倒的な差を使い、不意打ちの一点突破に全てを託した。
どれだけ一撃の威力が大きかろうと、それを標的に当てることが出来なければ意味はない。
意識の外、大威力の一撃を出せない位置から狙えば勝てると踏んだ。
その策は当たり、トールは数の差を埋めることができずに攻めあぐねていた。
もちろん、一撃が重いのは変わらない。幾人かによる防御魔法も駆使してもジリ貧という状況だった。
そして、突破の一撃には彼女が任されていた。
意識が集中している、その外からの一撃。たった一度の勝ちの目。
それを外せば、全員が死ぬことは明白。
だから、それを実行することにまったくの躊躇はなかった。
激しい攻防の中、遂にトールの意識が狭まったと確信できる瞬間が訪れた。
彼女は迷わず自身が使える魔法の中で最大力のものを行使した。
注げるだけの魔力を注ぎ、敵の命を奪うことだけを考えて魔法を発動させる。
氷原に迸る雷撃はトールの脳天を貫き、流れ出る血が白き大地を赤く染め上げるはずだ。
そう。本来ならば、そうなっていなくてはおかしいのだ。
瞬間、迸る雷撃が彼女の杖を半ばで砕く。それを握る両の手を真っ赤に染めながら。
何が起こったのか分からなかった。
だがそれでも、一つだけ理解できることがあった。
(負けた……)
薄く笑った少年の顔がそれを確信させる。
一陣の風が吹き、その刹那で彼女以外の『魔族』は物言わぬ肉塊へと変わる。
「何をするかと思ったが、存外つまらないな」
つまらなそうに呟いた言葉と共に、雷撃が『魔族』の女を襲う。彼女の放った渾身の一撃とは比べ物にならないほどに、強大で鋭い雷撃が。
それは、『魔族』の女に一言の断末魔も上げさせることなく、彼女を氷原の染みへと変えた。
トールはそれを見ることもなく、退屈そうにその場を去っていった。