手袋の女
高速道路を飛ばしていると、海沿いにある工場地帯のネオンが見えてくる。夜の暗い海を背景にして、高い煙突やタンクの明かりがきれいに見えた。近づくと地帯はうっすらと赤く光を放っていた。
男は数時間前まで一緒にいた女のことを考えながら、運転していた。
細身の上品な雰囲気の女だった。笑うと白い八重歯が覗く。話をしてみると、雰囲気とは違い、あけすけにものをいう話しやすい女だった。
左手だけ手袋をしていたので、妙に思い尋ねると、小指がないのだという。子供の頃、事故で失ったそうだ。
「よけいな事をきいたね」
男が詫びると、女は屈託なく笑って、
「左手だけ手袋をしているなんて、奇妙だもの。人の眼を引くのは当然よ」
と、左手をひらひらと振ってみせた。
一時間ほど一緒に酒を飲んで別れた。
それから、月に何度か同じ店で顔を会わせるようになった。
女はいつも一人で飲んでいる。服装はブランド品に身を固めるというよりは、趣味のいいものを集めているという感じだった。会社勤めには見えなかったが、所帯じみてもいなかった。何をしている女かはわからない。
男はあえて尋ねなかった。
楽しく酒を飲み、語るだけで愉悦に浸れる。いつの間にか、女と会うことが楽しみになっていた。
ベッドを共にするようになったのは、男と女が愉悦に浸った延長としては、自然なことだったかもしれない。
ベッドを共にしても、互いに名も知らなかった。もちろん、素性など知る由もない。互いに詮索もしなかった。
明け方になると、男はベッドを抜け出して、シャワーを浴びる。女は気配で目を覚まし、男を見送った。一緒に部屋を出ることはしない。次に会う約束もしなかった。
何度、ベッドを共にしても、女は手袋をしていた。下着まで脱いでも、手袋だけははずさない。左手を握ると、一本だけ指の入っていない部分があるのがわかる。
何度目かに尋ねてみた。
「手袋をはずさないの?」
「恥ずかしいわ」
女は笑いながら答えた。
全てをさらけ出すような相手ではないということなのだろうか。
男はそれ以上、手袋のことは触れなかった。深く相手のことを知るような仲ではなかった。
梅雨が終わる頃、男は女に別れを告げた。
「もう会うことはないと思う」
「そう。寂しいわ」
女は言葉通り寂しそうな顔をして笑ったが、理由を聞いたりはしなかった。
男は女と別れた。とはいえ、恋人のような付き合いをしていたわけではない。互いに恋愛感情があったようにも思えなかった。一夜を楽しく過ごしただけだ。
女と会わなくなると、多忙さで女のことは忘れた。時々、手袋をしている女性を見ると、ふっと女の香りが掠める。朝露に濡れた葉のような女の柔らかい肢体や艶やかな唇に浮かべた笑みが思い出された。
何度目かの夏に、男は店に顔を出した。女の姿はなかった。会えるとは思っていなかったが、少しだけ期待はあった。
なじみのバーテンダーに尋ねてみる。バーテンダーは、男のことをよく覚えていたが、女のことは知らなかった。
男は一人でホテルに泊まった。明け方になると、起き出してシャワーを浴びた。
外はまだ、暗かった。高速道路に乗って走っているうちに、空が白んできた。まだ、街のネオンが輝いている。
海沿いの工業地帯を走りながら、女のことを思っていた。
彼女はいま、どうしているのだろう。
車内に光が射し込み、男はバックミラーに目をやった。トラックが追い越し斜線に移動したのが見えた。他に自動車は走っていない。
トラックが追い抜いていく。ちらりとサイドミラーを見る。
次瞬。
バンと大きな音が鳴った。
運転席側のドアに何かが強く叩きつけられたようだった。
男はチッと舌打ちした。
トラックの荷台から何かが落ちてぶつかったのかもしれない。
以前、前を走るトラックから、砂利が落ちてきてフロントガラスにヒビが入ったことがある。トラックの荷でなくても、タイヤで踏んだ何かが飛んできた拍子に車を傷つけることは、よくある話だ。
家に着いて、男はドアのあたりにキズがないか調べた。特にキズは見つからない。凹んだ様子もなかった。
ちょっと安心して、その日は家に入った。
翌朝。仕事に出かけようと愛車に乗り込む。
座席に座って、運転席側のサイドミラーを覗こうとして、窓の汚れに気付いた。脂のようなものがべったりとついている。
それは小さな四本指の手形だった。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
小さな怪談を書こうと思ったら、こんな感じになりました。
「で、結局女はどうなったの?」なんて、ヤボなことはおききくださいませんように(祈