地下室の女
テンションだけは高いです。
新しい部屋。新しい壁紙。新しいカーテン。
新しい木のにおい。
すがすがしい気分がこの部屋にはあふれている。
昨年できたばかりの新築アパート、並木道ハイツ。
名前のとおり、このアパートが面している通りは数百メートルの並木道で都内でも有名な場所である。
アパートからその並木道を北へまっすぐ歩けば私鉄の駅。そこから3駅ほど電車に乗れば私立大学の最寄り駅。
そして、その大学に通っているのがこのアパートの202に今日の朝に引っ越してきたばかりの新入生が阿川 凛太郎。この物語の主人公である。
「よぉ~し。とりあえず今日寝るスペースは確保できた。とりあえず今日はこんな感じかな」
今この部屋は段ボール箱でいっぱいだった。
家具と大量の段ボール箱を引越し業者に部屋に入れてもらい、その日に凛太郎がしたことは、とりあえず段ボール箱の中身を確認するため片っ端から箱を開けたことくらいだった。
もともと整理整頓は苦手なO型の凛太郎。部屋が完全に綺麗になるのはだいぶ先かもしれない。
「もう7時か。そろそろ腹減ったし、夕飯でも買いに行くか」
部屋の電気を消し、玄関へ向かう。
凛太郎は靴を履いてドアノブに手をかける。それから、ふと部屋のほうを振り返る。
「今日からここが俺の家だ。よろしくな……って、さっきから独り言が多いなぁ。やっぱ一人暮らしってこんな感じなのかな。はははは……」
凛太郎はドアを開けて外へ出て行った。凛太郎がいなくなり、誰もいなくなった部屋。
その部屋にかすかに間延びした声が響いた。
「ったく……今時の若者は片付け方も知らないのぉ?」
そして、かさかさ……かさかさ……と、物音がし始めた。
何の音なのかは、返ってきた凛太郎が知ることになるのだが。
凛太郎は近くのコンビニへ行った凛太郎は、カップラーメンやらレトルト食品やら、とにかく体に悪そうなものを大量に買い込んでいた。
「これで一週間くらいは持つ……かな」
両手にビニール袋を持ってコンビニから出ようとしたとき、後ろから声がかかった。
「凛太郎!?」
少し長めの茶髪、そしてまだ春は先だというのに妙に薄着。穴の開いたジーパンを着た男がそこに立っていた。
正直ダサいとしか言いようがないけれど、切れ長の目に鼻筋の通り、すっきりと整った顔が何もかもを肯定する。
「悠人……?」
大学の友人の加山 悠人だった。凛太郎と悠人は高校も同じということもあり、入学時から流れるままに一緒に行動することが多く、腐れ縁の関係だった。
「凛太郎、お前なんでこんな時間にここに……?」
「あのさ、悠人。俺、春休みにこっちに引っ越してくるって言ったよな。」
凛太郎の言葉に、悠人は「そうだっけ?」と、ぽかんとした表情を見せる。
それを目に渋い表情をしながら、凛太郎はさらに尋ねる。
「というか、お前のアパートの近くにもコンビ二あるのに、なんでこんなところにいるんだよ?」
それを聞いた悠人は、顔に似合わずモジモジと照れながら言った。
「あのさ、実はここのコンビニでバイトしてる女の子に可愛い子がいるんだよなぁ。今日は、いないみたいだけど。次に会ったら声でもかけようかと思ってさ。ははは。まぁ気にするな!」
お前は手を出すなよ、言いながら悠人は凛太郎の肩をバンバン叩く。
「あぁ、そうかそうか。とにかく引っ越してきたばかりで部屋が片付いてない。暇なら手伝いに来てくれよ」
「あぁ、気が向いたらな。じゃあな!」
悠人は何も買わずにさっさと出て行った。
彼の背中を見送りながら、凛太郎は「まぁ来ないよな」と苦笑する。しかし、先程の恋する乙女のような彼の仕草を目に、凛太郎は静かに思った。
──あいつはバイトの女の子だけのためにここまで来たのか
凛太郎は取り残され、友人の性格に改めてため息を吐く。
確か、彼は実家住みで大学から1時間以上はかかる場所にあったはずだ。
つまりはここからもだいぶ距離がある。
「すごい情熱だな」
凛太郎は呆れたような感心したような、複雑な思いだった。
凛太郎は荷物をかかえ、ようやくアパートへ着いた。
アパートの外壁についている時計を見るともう22時を回っていた。
「結構迷ったからな……」
自分の部屋へと向かうため、階段を上がろうとすると上から声がかかった。
「あの、隣に越してきた阿川さん……だよね?」
綺麗な黒髪をなびかせた女の子が、凛太郎の部屋のちょうど右隣の部屋のドアから顔を出した。
「は……はい! あぁ、すみません。挨拶もせずに。引越しうるさかったですよね」
女の子は大きな目を輝かせながら慌てた様子ですぐに言った。
「いえいえ。大丈夫です。このアパートわりと防音しっかりしてるんですよ。そんなにうるさくなかったです」
──そんなにってことは、多少はうるさかったよなぁ
「うふふ。私、201の笹丘詩帆です。よろしく」
凛太郎ははっとして答えた。
「わっ先に名乗らせちゃいましたね。すみません。俺は202の阿川凛太郎です。よろしくお願いします。って、笹丘さんですか。大家さんと同じ苗字なんですね」
詩帆は笑って答えた。
「大家は父なんですよ。あと、同じ学生なんだから敬語はいらないかな。そこの賢木大の1年なんでしょ? このアパートって、賢木大生がほとんどなんだ。私も賢木大の1年だよ、凛太郎君。詩帆でいいから」
「え、そうなんだ。じゃ、じゃぁ詩帆ちゃん、よろしく」
「ま、特に関わることはないと思うけど。お隣さん同士だから仲良くやろうね」
フレンドリーなんだか牽制されているのか、よくわからない。そんな詩帆の言葉に、凛太郎は愛想笑いを浮かべながら「あ……。はい。よろしくおねがいします」と、形式的な挨拶の言葉を述べて、その場を後にした。
自分の部屋に戻りながら、凛太郎は独りごちる。
「可愛い子だった……」
笑顔は作られたものなのだろうが、実際、詩帆は丸顔に丸い目。茶髪のショートボブは、やや幼気ではあるがソレがいい。つまりは、誰が見ても可愛い女の子だったのだ。
「しかも同じ大学! 同じ屋根の下。まさか……これが出会いか!』
引っ越し早々、頭が沸いているとも思える思考回路ではあるが、凛太郎はなぜか自身を持ってそう口にしたのだった。
凛太郎は、にやけながら短い廊下を通り、居間兼寝室につながる扉を開け、明かりをつける。
そして次の瞬間、柔らかい明かりに包まれた自室の光景に、凛太郎は絶句することになるのだ。
ダンボールが全て綺麗に折りたたまれビニール紐で縛って壁に立てかけられ、中に入っていた服やらなにやらは全てきれいに片付けられていたのだ。
タンスを開けると服が綺麗に折りたたまれ収納されている。
おまけにノートや教科書も机の上に並べて置かれていた。
実家から持ってきてあったCDやDVDまでもがちゃんと棚に収納されていた。
おまけに部屋中掃除されたらしく、ホコリもチリもなにも落ちていない。
「おいおいおいおいおいおい、どういうことだよ、これ……!!」
背後に冷たい汗が流れ、体が小刻みに震える。凛太郎は妙な胸騒ぎがして、おもむろにたんすの小さな引き出しを開けた。
「なんで下着も全部しっかりたたんで入ってんだよ! 気持ち悪りぃぃいい!」
声が震える。凛太郎はここがまるで自分の部屋ではないようだ。所持金は全て出かけた際に持ち出した財布の中。キャッシュカードも一緒だ。
体をがたがた震わせながら、印鑑や銀行通帳を突っ込んでいた書類ケースを恐る恐る覗き込む。見れば、中にはいっていた一式は全て揃っており、凛太郎はそっと胸をなでおろす。
貴重品類の所在を確認し、気持ちを落ち着かせたところで凛太郎はその場に崩れ落ちるように座り込んだ。
「なんで? どうして? 一体誰がこんなこと……!」
凛太郎はふと考えた。
「まさか、詩帆ちゃんが……? さっき俺に声をかけてきたのもそれを言うためだったのか?」
凛太郎はうーん、とうなりながら腕を組んで新しく買ったばかりのカーペットに座り込んだ。
「いや、でも……んん? そうか、そうだった、のか……?」
だが、会ったこともない男の部屋に忍び込みこんなことをする女子大生が果たしているのだろうか。完全に不法侵入であるし、どう考えても変態だ。
凛太郎は、あまりの想像し得ない状況に思考が混乱している。
「警察案件? でも何も盗まれてないっぽいし……」
凛太郎は頭をぐしゃぐしゃにかき回しながら「どうすりゃいいんだよーー!」と、混乱のあまり大声を上げてしまった。
すると、すぐさま詩帆の部屋側の壁が、ドンッと低く響いて揺れた。
「…………」
凛太郎は「ごめんなさい」と、誰も居ない空間に虚しい言葉をぽつりと零す。
「きょ、今日はとりあえず飯食って寝るか」
凛太郎はコンビニ袋から買っておいたオニギリを3つ取り出し、無理やり流し込むように軽くたいらげる。そして布団を広げると、そのまま横になる。
「とりあえず、朝起きたら母ちゃんに相談して……」
通常の思考回路であれば、落ち着かずに出ていくか、警察に通報するか、である。しかし、彼は多少なりとも気が動転していた、もしくは頭が緩かったのである。
深夜。凛太郎が寝入っている横に立っている怪しい影があった。
「食事のあとに、歯磨きもしないとは、不潔ねぇ。あと~少しは危険意識持ちなさいよ」
その声は「凛ちゃぁ~ん」と、続く。それからきれいな細い指が、寝入った凛太郎の鼻先を突くのだった。
* * * * * * * * * * * * * * * *
午前8時半。凛太郎はまだ布団の中でまどろんでいた。
それから、唸りながら寝返りを打った彼は部屋の中の異変に気づく。
「味噌汁のにおい、がする……!?」
びっくりして飛び起き、さして遠くもないキッチンスペースへと急ぐ。
見れば、流し台の上に味噌汁が注がれたお椀とご飯が盛られた茶碗が置いてあったのだ。しかも丁寧に箸まで添えて。
「なんじゃこりゃぁ!!!」
目の前にある現実に信じられなかった。凛太郎は汚い頭をかきむしって考える。
「俺が寝ている最中に一体誰がこんなことを! というか、何の目的ですか!?」
気が動転した凛太郎は、何故か語尾が敬語になるようだ。
――嫌がらせなのか? もしくはストーカーとかの類か?
そんなこんなで考えていると呼び鈴がなった。
「凛太郎君! 詩帆だけど」
はっとした。自分が着ているものを見ると昨日と全く同じ格好だった。
――やばい。詩帆ちゃんに不潔な男だと思われてしまう!!!
「凛太郎君?」
「今出るよ!!」
凛太郎はかつてないほどの速さで着替え、ドアを開けた。
「あのさぁ……昨日の夜からホントマジでなんなの?」
ドアの向こうで待ってたのは、笑顔であるのに不機嫌な雰囲気を醸し出す詩帆だった。彼女の言いたいことは「うるさい」というたった一つのことであろう。
「さっきの雄叫び何?」
「うぐっ」
――身だしなみとか気にして出た俺って馬鹿すぎぃ!
「本当に申し訳ない」
「わたし、大家の娘なんでヨロシク」
詩帆は両腕を組んで高圧的な態度を見せる。その言葉は「なにかあったら出てってもらう」と語っている。顔は可愛いのに、性格が可愛くないタイプの女子のようだ。
「じゃ、そういうわけで」
「あ、ちょっとまって!」
そう言って立ち去ろうとした詩帆だったが、それを凛太郎の腕が阻む。
「ぎゃーーーっ……せ、せいやぁあああ!!」
が、詩帆は反射的に拳骨を凛太郎にお見舞いしてしまった。彼女は幼少期から日本拳法を嗜んでおり、それなりの腕前だったのだ。
「おぼぉ……っっ」
そんな彼女に凛太郎は抗えるわけもなく、渾身の一撃を顔面に受け、コンクリート敷の廊下に盛大に倒れていた。
「ああ!! ごっごめん、思わず!」
凛太郎が引き止めたことを謝罪し、話したいことがあると真剣な表情で話せば、詩帆は渋々と部屋に入ることを承諾した。
さらに、詩帆は部屋に入りつつ凛太郎へ「何かしてきたら、本気出すから」と、彼の血液が付着した拳と笑顔を見せつけ牽制した。
「あれが本気じゃないなら、本気出されたら俺死ぬわ」
苦笑交じりの発言に、詩帆は「きみの戦闘能力はだいたい分かった」と、切り返した。
凛太郎は顔面から真紅の体液を流しながら、ソファに座る詩帆にお茶を出し、昨日から起こっている不可解ないことを説明した。部屋にはソファは一つしか無いため、凛太郎は必然的に床に座って話すことになったのではあるが。
「まさか、詩帆ちゃんじゃないよね」
詩帆は凛太郎が出したお茶を一口飲んでいった。
「まさか、そんなことやるわけないでしょ。知らん男の部屋に入るとか……普通に考えて私がやると思える?」
「ですよねぇ~……」
詩帆の言い切りに、凛太郎は口をふるふると震わせながら言い返すことができない。
確かに当然のことだ。本当にそんなことをやってしまえるのはストーカーくらいだろう。
「合鍵も持ってないし。まだ友達でもないのに」
―――友達でもない、ですか。はっきり言われると逆に清々しい。
「あ~そういえば、この部屋って凛太郎君の前に住んでた人がいたんだけど」
「その人も何か変な体験をしたの!?」
凛太郎はテーブルを挟んだソファ座る詩帆に飛び掛らん勢いで立ち上がった。詩帆はそれを制するようにもう一口お茶を口にした。そして口を開いてこう言った。
「凛太郎君みたいに部屋が片付けられてたり、ご飯ができてたり、それから花瓶の水が交換されてたりしてたんだって。あと、金魚鉢も綺麗になっていたとか言っていたな。それで、気味が悪くなっちゃって1ヶ月もしないうちに皆引っ越しちゃったの。これって心霊現象、かな?」
「え……なにそれ、聞いてない……確かに立地的に家賃安いとは思ったけど!」
凛太郎は話を聞いて顔面蒼白になると力なく座り込んだ。
彼は、不動産やからも何も言われていなかったのである。
―――そんな妙な部屋に引越しちまったのか、俺は!!
「でも、凛太郎君なら大丈夫だよ。なんか精神面は頑丈にできてそうだし、そういうの大丈夫そうだから」
「いや、既に相当動揺してるんですけど!」
―――俺をどんな人間だと思ってるんですか、詩帆ちゃん!!
「俺、結構そういう理解できないもの苦手なんだけど」
「大丈夫。大丈夫! 気にしなきゃいいんだよ~!」
―――気にしなきゃって。ちょっと……。
「それじゃ、私これからバイトだから。お茶美味しかった、ありがとうね。バイバイ」
詩帆はカップに残ったお茶を一気に飲み干し、これ以上は用はないとばかりに立ち上がり、そのままそそくさと出て行った。
「ばい……ばい……」
詩帆が閉じて出ていった玄関の扉が閉ざされ、凛太郎は一人虚しく取り残される。
「この部屋に、何かがいるのか……」
カーテンを揺らす風の音にも、その窓の向こうから聞こえる通行人の笑い声も、何もかもがありふれたもののはずだ。だが、その日常的な物音でさえも、今の凛太郎には恐ろしく思えた。
彼は、体が凍りついたように立ち尽くしてしまう。
「一体何なんだ。どうすりゃいいんだよこれから……」
綺羅びやかな日々の始まりだと思っていたが、地獄に突き落とされたような気分だった。
「はぁぁあぁぁ……」
豪快にため息をついた。そして座り込むと、妙な音がどこからか響く。
ガタン!
凛太郎は得体の知れない音に思わず飛び上がった。
「ヒィィィイイイイ!!!」
ガタン!
再び音が響く。
「げ……幻聴じゃないな」
ガタン!!
今度は、さらに大きくはっきりと響く。
「え!? 下……だよな。床の下から聞こえるのか?」
凛太郎は床に耳を当てて様子を伺った。視界が普段と違い低い位置にある。
「……なんだ?」
凛太郎はカーペットの端っこに何かが引っかかっているのを発見した。白い布。いや、靴下だ。
「これって俺の靴下か。でも何でこんなところに」
凛太郎はカーペットを見て妙な疑問を持った。
「カーペットを引いたのは俺じゃなくて引越し屋の兄ちゃんたちだったっけ」
凛太郎は床がどうなっているのか見ていない。
「まさかな」
凛太郎はカーペットの端をもつと思いっきりそれをめくりあげた。
「なんだよ……。こんなのってあるのかよ……」
カーペットをめくるとそこには四角い扉のようなものがついていた。
「床下収納があるなんて聞いてないぞ。というか、ここ2階だし」
凛太郎は「まさか1階の部屋につながってるとか言わないよな」と言いながら、扉に手をかけ、そして震える手でそっと開いた。ギィっと扉を開ける鈍い音が部屋中に響き渡る。
凛太郎は扉を開け放つと絶句した。扉の先には凛太郎の部屋よりも広いと思われるスペースが広がっているのだ。
「なんだよ。これ……。ありえない。ここ2階なんだぞ。……・それとも本当に1階の部屋なのか?」
しかも、中にはベッドやらテレビやらパソコンなどの家具がきちっとそろえられていた。おかしいのは、1階であろう空間にもかかわらず窓が一つもないことだ。まるで、地下にある空間のようにひんやりとした空気がそこにはあった。
そして、ベッドに眠っている人間がいる。
「……もしかしてあいつが俺の部屋を片付けたり飯作ったりしたのか?」
凛太郎はその「部屋」に入り込んだ。そしてベッドに恐る恐る近づく。
「ぐが……ご…………」
寝ているのは若い女だ。豪快ないびきをたてて寝入っている。
おまけにやたら寝返りを打っているもんだから寝返りのたびに足や腕が壁やら家具やらにぶち当たって大きな音を立てていた。
「くっ……なんだ、この格好は。色気を通り越してだらしない」
彼女の荒々しい寝相のせいか、当然掛け布団はベッドからずれ落ちている。パジャマ代わりらしい彼女の薄いピンクのワンピースキャミソールの裾は大きくめくれ上がり、あと少しでも動いてしまえば、下着が見えてしまいそうだ。
それでも色気を感じないのは、股の開き方がオッサンのソレと同じであるからだろう。
おまけに長いウェーブがかった茶髪は寝癖でボサボサになっている。トリートメントをしっかりしていないのか、毛先は傷んで縮れていた。
「なんつー寝相……。つーか、あの音はやっぱりコイツか……。くそ」
「おい、ちょ、ちょっとお姉さん! 起きろよ!」
凛太郎は女を揺り動かした。
「ああ……が…………」
女はまだ寝ている。凛太郎はさらに大きく揺さぶる。
「起きろって!!」
「うううう…………!」
「おい!!!」
女は渋々といった様子で目を開いた。
「え、うそ! いやぁぁ……!」
彼女は凛太郎を見ると驚いて叫んだ。
が、叫んだだけ叫んでおいて、何故か余裕な様子も垣間見える。
「あ、なんだ。凛ちゃん? てか、なんでここにいるの?」
「それはこっちの台詞だ! 凛ちゃん、じゃねーよ! アンタこそなんなんだよ!」
彼女は「阿川凛太郎くん。今どき表札に本名書いちゃうなんて、不用心だぞ!」と、ウィンクして見せる。
「…………」
凛太郎は訝しげな表情を彼女に向けつつも、理解が及ばず沈黙する。
彼女は眠そうな顔をしながら、凛太郎を目に「うん」と良くわからない頷きを見せてから、ベッドから立ち上がり、悠々と洗面台に向かって顔を洗い始めた。
そんな振る舞いに凛太郎は「自由か!」とツッコミを入れざるを得ない。
「あのさ、お姉さん! なんで俺の部屋の真下に住んでるの? つか、ここは1階の部屋なのか?」
「お姉さん、もいいけどチカコって呼んでもらえる? あと、ここは1階の部屋じゃないぞ。正真正銘このチカコさんの部屋。まぁ入り口は変なとこについてるけど」
彼女の言葉に、凛太郎は「チカコぉ? いやいや、名前はどうでもいいだろ!」と首を振って続ける。
「よく分かんねーよ。1階じゃないって! 俺の部屋2階! 床下空間異次元か!」
「異次元じゃない。チカコさんのお・部・屋!」
全く答えになっていない返答に、凛太郎は「だから何なんだって!」と頭を抱えるしか無い。
顔を洗い終え、タオルで顔を拭くチカコ。そんな自由な彼女に「って、俺の部屋を変なとこ呼ばわりですか」と、凛太郎はため息混じりに呟いた。
「変だろ。この前君の部屋に出たらダンボールだらけで驚いたよ。思わず片付けちゃった」
「やっぱりそれもアンタだったのか……」
チカコは鏡に向かって化粧水やら乳液やらで顔を整えている。そんなことをしながら「チカコさん、ね。凛ちゃん」と切り替えした。
「アタシって綺麗好きで、汚いとすぐ掃除したくなっちゃう人なんだよね」
凛太郎は彼女「そういう人で片付けられる状況ですか」と、相変わらず苦悩する。
「不法侵入でしょ、これ。え? 何? こんなところで潜んで俺をどうしようっていうの!」
俯いた視線をチカコに向ける。彼女の姿は下着に近い薄いキャミソール姿だ。
それを目に、凛太郎は思う。
――何かされる前に、追い出してしまおうか
詩帆のような腕っぷしのいい若い女性はそう多くないはずだ。凛太郎も曲がりなりにも男。目の前の不審な女一人どうにでもできる、彼はそう思ったのだ。
――でも、暴力はいやだ。まずはなんとか言葉で説得して……
「なぁ、出てってくれよ!」
今にも爆発してしまいそうな感情を抑えながら、凛太郎は言った。彼の言葉にチカコ「出てく……か」と、ぼんやりとしたような言葉を切り替えした。
凛太郎の理解の及ばぬ空間に、気まずい沈黙が広がる。次に何を言おうか、彼は普段使わない頭を必死に使って考えた。
――どうすればいい。というか、警察に言うにしてもどう表現すれば……
凛太郎にとって不審人物でしか無いチカコは、何も言わずに楽しそうに笑っている。
彼が次に何を言ってくるのか待っているようだった。
――くそ、なんか腹立つなぁ……
有利な状況とは言えない感覚に、凛太郎は歯痒い思いでいっぱいになった。
が、その時だ。突然、凛太郎の部屋のほうから呼び鈴が聞こえた。
「凛太郎君。何度もごめん。詩帆だけど! いる?!」
「詩帆ちゃん?!」
凛太郎はチカコの部屋から這い出て、玄関のドアを開けた。
「どうしたの?」
「うん。さっき来たとき癖で腕時計はずしててさ。おいてっちゃったみたい。あ、そのこのテーブルの上の!」
詩帆は部屋を覗き込んで指を刺した。
「ああ、コレね」
「これか、コレでいいかな、詩帆ちゃん」
凛太郎は、部屋の方から手渡された腕時計を詩帆に渡した。そう、凛太郎は手渡されたのである。
「うん、これで合ってる……って、この人誰?!」
当然、詩帆は凛太郎へ腕時計を渡した人物を目撃するわけだ。
「チカコ……!」
もちろんそこに立って腕時計を凛太郎に渡したのはチカコだ。
チカコは不敵な笑みを浮かべながら、相変わらずのワンピースキャミソールのまま「やっほー」と人のいい笑みを詩帆に向けながら緩く手を振っていた。
予想だにしない不審人物の行動に、凛太郎は小声で「なんで、出て来るんだよ、てめぇ!」とチカコに訴える。
「え? だって凛ちゃんが出ろっていったじゃん。あと、ついでだから詩帆ちゃんにも挨拶しとかないとって思ってさ」
「何? お前、詩帆ちゃんを毒牙にかけるつもりかーー!?」
凛太郎の言葉に、チカコは笑いながら「うわぁ、人聞き悪い~」と体をモジモジとさせながら反論する。
「あの、凛太郎くん? その人って……」
凛太郎の挙動不審と、謎の女の登場に、詩帆は凛太郎へさらに不審な思いをつのらせたようだ。おまけにチカコの格好も露出度が高く、2人が怪しい関係にも見えてしまう。
詩帆は、引き笑いを浮かべながら「なんか、お邪魔だよね」と、立ち去ろうとドアを閉めようとしていた。
「あああ……ええええ……!!」
凛太郎は反射的に閉じかけたドアを手で抑えた。どうにか詩帆の誤解を解かなければ今後さらにおかしな状況になりかねない。が、焦って口からうまい言葉が出ずにアワアワとさせることしかできなかった。
そんな間に割って入った言葉があった。
「凛太郎の姉の、チカコです」
チカコがここぞとばかりに言葉を吐き出したのだ。
「あ、ね……お姉さん?」
「そうです。弟がお世話になりますね~!」
「チカコ……てめぇ……」
「チカコさん、ですか。凛太郎くんてば、こんなにキレイなお姉さんいたんだ。背が高くてスタイルもいいし……モデルみたいですね」
詩帆が憧れるものへ向けるようなキラキラとした視線を向ける。どうやら大人のお姉さんみたいな雰囲気の人物を好むようだ。
「いえいえ。弟をよろしくお願いします」
チカコは不敵な笑みを見せつける。
――本当に誤魔化せているのか、これは!
二人は動揺する凛太郎を無視して話を進めている。
「チカコさんは今日、いらっしゃったんですか? さっきいらっしゃいませんでしたけど」
「ええ。近くの事業所に転勤になってね、なんかぁこの部屋から近いんで。間借りしちゃおうかなぁ~って」
「え? ちょっと待て待て!! ちょくちょくって。ていうか、お前仕事してるのか!?」
「凛太郎君、お姉さんと部屋をシェアするのね。仲いいきょうだい、あこがれちゃうなぁ。私は笹丘詩帆です」
もはや、「こいつは他人で俺の部屋の床下に住んでます」と言って信じるような人間はいない。チカコが他人ならなぜ凛太郎の部屋にいるのかという説明も思いつかない。
凛太郎はしょうがなく、怒りを抑えながら「そうなんだ……」と、ひどく落胆した言葉で答えるしかなかった。
詩帆は、そんな凛太郎の感情など全く気づく様子はない。
「じゃ、チカコさん。私これからバイトなんで、今日はこれで」
「うん。またね詩帆ちゃん」
チカコは愛想のいい笑顔を向けて詩帆に手を振って見送った。
「あ~可愛い子だねぇ、ああいう感じの子タイプ? てか、凛ちゃんってば、見送らなくて良いの? 詩帆ちゃん行っちゃったよ」
「ああ…………ていうか、お前本当に何者? いつまで俺の下にいる気?」
力のない凛太郎の言葉に、チカコは言う。
「うーん、アタシはアタシだね。それ以上でもそれ以下でもない」
「いや、そういう哲学的な言葉は要らないんだけど」
チカコはさらに言う。
「いつまで居るかって聞かれてもなぁ……まだ借りてから2年経ってないし。解約金勿体ないし」
「ん……?」
チカコの言葉に凛太郎は肩をピクリと震わせる。彼女の返答は何か妙だ。
「今から部屋を変えてもさ、また引っ越し代とか取られちゃうじゃん? 別にオバケとか心霊的なモノじゃなかったんだからぁ、別に良くない?」
「…………っ」
凛太郎は言葉が出ない。
チカコの言葉は完全に凛太郎が置かれている状況を言っているのだ。
「はじめてだよ。怖いのに部屋中探してさ、アタシまで辿り着いた住人って……気が合うんじゃない、アタシたち?」
「なんだよ、それ!」
彼女は「だーかーらー……」と言いながら、開け放たれていたままの玄関のドアを締め、りんたろうと向き合って彼の両肩にそれぞれ左右の手を置いた。
「これからも、よろしくね」
そう言って、チカコは顔を凛太郎の顔の右側へ寄せて、耳にフッと息を吹きかけた。
「うわぁっ」
予想外の衝撃に、凛太郎はチカコを突き飛ばしていた。
「きゃはははは! 反応かわいー!」
耳を抑えて赤面する凛太郎を、チカコは指をさして笑っていた。
「じゃ、アタシこれから仕事だから」
「は? 仕事してんの?」
そう言ったチカコは、そそくさと床下の扉を開けて自室に戻っていった。そして、しばしの時間をおいて、彼女はオフィスフォーマルとでも表現できそうな黒い綿パンツに黒いジャケット、インナーはレースの入ったホワイトのトップスだった姿で現れたのだ。
手にはしっかり黒いパンプス、方からは革のバッグが下げられている。
しっかり化粧もして髪型も整えている。さっきまでのだらしなく色気のないキャミソールワンピースの女はどこへやら、だ。
「だ、誰だお前は……」
「いや、失礼だぞ。凛ちゃん! じゃ、いってきまーす」
チカコは凛太郎に手を振ると、そそくさと玄関の扉を開いて出ていってしまった。
顔を赤面させたままだった凛太郎は、ひとりぽつんと取り残され、そのまま床に崩れ落ちる。
――なんだ、この展開! なんなんだ?
部屋を見回せば、きれいに整えられた空間がある。まるで自分の部屋ではないような整えられぶりだ。そして、床に据えられた謎の扉が嫌でも視界に入り込む。
それは、魔界への扉とでもいえそうなほどに物々しい空気を醸し出している。
その先に住まう謎の女と、これから過ごさなければいけないらしい。ワクワク・ドキドキの新生活は台無しだ。
「これから、どうしろっていうんだよ!」
大樹は、思わず声高らかに叫んでしまっていた。当然、すぐさま詩帆の部屋側の壁が、ドンッと低く響いて揺れる。それを耳に、凛太郎は「あぁ……」と、頭を抱える。
そう、彼の苦悩あふれる新生活は、始まったばかりなのだ。
─了─
大学が賢木学園大学ということで、シリーズに入れています。
本当はチカコを男にしてチカオにしようと考えていたのですが、登場人物男ばっかになるのでやめました。そういう作り方の都合上、これ以上続くとチカコと詩帆の百合展開になりますね。笑
読了、ありがとうございました!