プロローグ「白の少女」
はぁ…はぁ、……っはぁ、はぁ……。
ギラギラと無慈悲に輝かしいネオンと、街の雑踏、あちらこちらから鳴り響くサイレン、そして、忙しい自分の呼吸音。
頭がクラクラすけれど、どれが原因かさえ、分からない。
体の節々が痛む。
湿った黴臭い酸素をどれだけ吸っても、肺が軋む。
口の中が苦い。鉄の味がする。あぁ、口の中切れたんだった。
全身汗でしっとりと湿る。服が張り付いて気持ちが悪い。
だが、そんな現状を裏切るかのように気の抜けた腹の虫が鳴った。体が飢えを訴える。
そういえば、今朝から何も食していないんだった。
ーーーこんなことなら、卯乃家のプリン食べとけば良かった。
薄暗く汚い、古いビルの隙間で、ただぼんやりと空を見上げた。
吐いた息が冷たく白い。
真っ暗な夜空の中、街が明るすぎて星は見えないけれど真っ白で綺麗な満月は見えた。
その、ほんの少しの幸福感を噛み締めた。
うん。まだ、頑張れる。
真っ白な美しい満月に不似合いな赤い光を見つめながら、呟いた。
約3時間前ーーーーーー。
「やーっと終わったぁ!ヤマセン授業長すぎぃ!」
「早く部活いこ〜」
「帰りセブン寄ってこうぜ!」
「アイス食いて〜」
がやがやがやがやがやがやがやがやがや。
がやがやがやがやがやがやがやがやがや。
…うるさ。
「おーい、潤!もう授業終わったんだから起きろよ〜」
机に突っ伏して、見ざる聞かざる言わざるを決め込んでいた俺を相変わらず耳障りな声で起こされた。いや、最初から起きてはいたんだけど。
「分かってるよ、いちいち五月蝿いな」
「あ!折角起こしてやったのにその言い方はないだろ!?」
仕方がなく、むくりと顔を上げて呟くと耳障りな声の持ち主が更に耳障りな声で、プラス人を指差しながら言う。
失礼な奴め。
「大体、毎回毎回起こせって頼んでないだろ恩着せがましいんだよ」
「だって潤、放っといたら下校時刻過ぎても起きないじゃん!それで前にヤマセンに怒られただろ!あん時俺が部活で残ってなきゃ言い訳出来てないんだからな!」
机に頬杖をつき眉間に皺を寄せながら呆れ口調で言うと、口を尖らせながら、ぶーぶーと文句を返された。
あぁ、そういえばそんな事もあったっけ。
大抵最後の授業の後に一眠りする癖があるから幾度となく先生には注意やらお叱りやら受けているのだけれど。
会話に飽きてきたので、手をヒラヒラさせながらため息混じりに返した。
「あー、はいはい。てか正志この後部活なんじゃないの?早く行けば」
「〜っこんのやろう…はぁ、まあいいや。潤がこーなのは今に始まったことじゃないし」
「人を問題児みたいに言うな」
「問題児だろー、授業中ほとんど寝てるとか……なのに頭良いのがムカつく」
頭良い…か。
学校で教えられる事なんか、ある程度聞くだけ聞いてノートにまとめて復習さえすれば、そんなに難しいものじゃないと思うけど。そんな事に葛藤して時間を無駄にする方がよっぽどか阿呆らしいけどな。
学校に通うのも、授業を受けるのも、部活をするのも、人間関係に気を使うのも、何もかもが無意味に感じる。
まぁ、卒業資格が欲しいから通ってはいるけれど。
「さてと、んじゃあ俺部活行くから!二度寝すんなよ!」
バタバタと荷物をまとめて肩にかけると、正志は騒々しく教室を後にした。
本当に騒がしい奴だな。
「………さて、寝るか。」
正志の忠告などハナから聞いていないので、もう一度机に突っ伏して瞼を閉じる。
話をしたせいで疲れたのか、すぐに漆黒の幕が下りた。霞む意識の中、心地の良い風音が少しこそばゆかった。
約30分前ーーーーーー。
「はぁ、はっ……しぶとい、」
左腕が軋む。さっき受けた傷が開いたかな。右利きで良かった、なんて軽く現実逃避じみたことをしてみるけれど痛みが無くなる訳じゃない。街からは大分離れた。閑散とした住宅街を走りながら考える。
人が多くない場所、人目につかなくて広い場所…
酸素が回り切ってない脳を最大限活用した。街頭に導かれるように、走った。
足がもつれそうになり、一度立ち止まる。
ふと、顔を上げた先に大きな建物があった。街頭の明かりのみで掠れた暗闇のなか、塀で囲まれ近くに門がある。
門まで駆け寄り、隣りの柱を眺めた。
「帝森……高等、学校…」
ーーーーーー現在。
「…ん、やべけっこー寝た…?」
重たい瞼を持ち上げて、のそのそと起きる。冬ということもあって辺りは暗く、教室内は外から照らす月明かりのみで中々に不気味だ。しん、と静まりかえった空気が嫌に背筋を撫でる。慌てて携帯を取り出し、時刻を気にした。
「げっ、もう19時過ぎじゃん。早く出ないと先生にどやされる…」
荷物を早々にまとめ、腰を上げた時だった。
カシャン。
「……?なんだ、今なんか割れた音が…」
遠目だったが、確かに何かが割れる音がした。自分の教室の丁度真上が理科実験室なので、もしかしたら先生かもしれない。
だとしたら、見つかる訳にはいかない。
物音を極力立てずに教室を抜け出し、廊下を早歩きで渡る。
さっさと下へ降りようと階段に足を伸ばした。
足を伸ばすのと同時に、視界に白が横切る。
「え?」
次の瞬間、全身に激痛が走った。
咄嗟のことで状況把握に遅れが出る。
壁に打ち付けられたのだ。
右半身が重点的に痛む。
ふ、と自分の足元を見下ろした。
そこには、所々赤い花にも似た血で染った白銀の少女が横たわっていた。