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選んだ事、選べない事

 バシャン、と水を弾くような音が一人きりの空間に響く。

 指先が触れたと同時に水面を弾き飛ばすように降りぬいた手をそのままに、ジッと揺れる水面を見つめる。

 覗き込んでいた水面には波紋が広がり、さっきまで映っていた懐かしい景色は影も形も無くなった。

 私の胸の中にわずかにこびりついていた残りカスの様な未練と共に。

 ここで生活している内にもう私が帰る場所はこの世界になっていた。

 だから、今更あちらの世界に行く事は出来ない。

 サーラ達とお茶をする約束をしている。

 家ではモモが待っているだろう。

 お客さん達もお店の再開を待っていると言ってくれている。

 何より真剣に思いを告げてくれたロインにもルストにも私は返事を返していない。

 積み重ねられた小さな約束が私の生きる場所をもうとっくに示していた。


「…………」


 手を下ろしてジッと水面を見つめているとバタバタと走ってくる足音が響いて来た。

 大きな音を立てて背後の扉が開く。


「ここにいましたか! すみません、まさか眠ってしまうなんて……」


 慌てた顔のヴァイスがいつもの様に金色の髪に光を反射させて部屋へと入ってくる。

 その顔を見つめて、ああ、と納得した。


「……そっか、そうだよね」


 さっきは何故か違和感を感じなかったが、私をこの場所へ誘ったのはこの人だった。

 いくら自由行動にしようと言ったとはいえ、自分から誘っておいて私に何も告げずに眠る事なんてこの人の性格上ありえないだろう。

 ヴァイスは意外と自分の意見は主張する方だし、もし眠りたいと思ったなら自分から私は少し眠ってきます、くらいの事は言うタイプだ。

 そもそも私が近くに行った事にも気が付かず、目も開けないなんて武人のこの人にはまずありえない。

 私に元の世界へ続く道を示すために何らかの力が発動していた可能性が高そうだ。


「アヤネ?」

「ううん、何でもない。大丈夫だよ。スケッチも一通り終わったし、連れて来てくれてありがとう」


 美しい神殿を見る事が出来た事、そして何より完全に未練を断ち切る事が出来た事。

 ここに来れて良かった。


「気に入っていただけたのならば良かったです」


 そう言って微笑むこの人も、私にとってはこの世界を選ぶ理由の一つなのだけれど。

 まさかこんな所で振り切っていたと思っていた元の世界への未練を実感させられた挙句、生きる世界の選択肢まで与えられるなんて思ってもみなかった。

 少し前ならばもっと悩んだかもしれない、もしかしたらあっちの世界を選んだかもしれない。

 なんで今だったんだろうか。

 もしこれが物語の中だったらこんな吹っ切ってからではなく、もっと前の選択に悩む時に出てきそうなものだけれど。

 まあ現実なんてそんなものなのかもしれない、それにおかげで色々と実感できた事もある。

 例えばこの人たちが自分の中でどのくらい大切なものの割合を占めているのか、とか。

 この世界を選ぶ理由の上位を占める三人が最近の私の最大の悩みだなんて結構矛盾しているなあ、なんて考えながら持っているカバンを持ち上げてヴァイスに見せる。


「マフィン焼いて来たんだ、良かったら食べない?」


 嬉しそうに笑ったヴァイスに促されて泉に背を向ける。

 もうこの泉が私に元の世界への道を作る事は無いだろう。

 先に部屋から出たヴァイスの背中を見ながら小さく呟く。


「お父さん、お母さん、ごめん……さよなら」


 もう後ろ髪を引かれる感覚は無い。

 部屋から足を踏み出し、後ろ手にドアを閉める。

 ばたんと閉じた音で、私と元の世界の縁は完全に途切れたのだと確信した。


 外に出て噴水と神殿が同時に見える位置へ向かう。

 背後は森、下は芝生の雰囲気の良い場所に荷物を下ろすとヴァイスが地面に向けて片手を振った。

 彼の手から零れた光が地面に沿って薄く広がり、淡い光の絨毯のような物を作り出す。


「座れますのでどうぞ」

「ありがとう」


 前にロインが作ってくれた闇の絨毯の光版といった所だろうか。

 腰を下ろすとサラッとした感触が伝わってくる。

 なんだか高級な絹の布の上に座っている気分だ。

 正座した方が良いのだろうかなんて思いが胸に浮かぶが、隣に腰掛けたヴァイスがくつろいでいるので自分も足を崩して座る。

 カバンからマフィンや飲み物を取り出してその場に広げた。

 一つ取って口をつけたヴァイスが嬉しそうに笑う。


「アヤネと休日に出掛けるとこうして手作りのお菓子を頂けるので嬉しいです」

「そう言ってもらえるのは嬉しいけど、市販品の方が良かったら遠慮なく言ってね」

「いえ、これが楽しみですのでアヤネの迷惑にならない内は手作りでお願いしたいです」


 私のセリフを遮るように重ねられたセリフに照れるやら可笑しいやらで誤魔化すように笑みを浮かべる。

 鳥や動物の声が聞こえる木陰で、美しい景色を見ながらのティータイム。

 すごく贅沢な事をしている気分だ。

 そうしてしばらくの間ヴァイスと他愛のない話を繰り返している内に、彼が時々辺りを気にしている事に気が付いた。


「どうかした? 周りを気にしてるみたいだけど」

「ええ、あなたに紹介したい子がいるのですが如何せん野生なので出て来るか分からなくて」

「野生?」

「はい、ここに通っている間に懐いてくれたのですが出て来るかどうかはその子の気分次第ですから」


 ウサギとかの小動物だろうか、それとも何か珍しい動物でもいるのだろうか。

 何となく気になって辺りを見回していると背後の森からガサガサと草をかき分ける音が響いて来た。

 振り返ると結構大きく葉が揺れている。


「ああ、来てくれたようです」


 そう言ったヴァイスが立ち上がり、森の方へ一歩踏み出す。

 揺れる葉はそのヴァイスの身長よりも大きい。

 確実に小動物では無さそうだ。

 立ち上がったヴァイスを見上げていると、森から白い影がにゅっと顔を出した。

 その白い影を優しい顔でヴァイスが撫でるのを瞬きを繰り返しながら見つめる。

 真っ白な馬だ、そう思った一瞬後、森の中からその子の全身が出て来た事でそれが間違っていた事に気が付く。

 雪のように真っ白な体に大きな翼が付いている。

 空から降る雪の様にその羽から小さな羽がひらひらと舞い落ちた。


「……ペガサス?」

「ええ、綺麗でしょう」


 ゆっくりと白い背中を撫でながらヴァイスが笑う。

 正直言ってハマりすぎていて怖い。

 太陽の光を反射してキラキラと輝く金髪の美しい男性が、純白の美しいペガサスを慈愛の笑みを浮かべて撫でている。

 私はいつ御伽話の中に入ったのだろうか、すごくファンタジーの世界だ。

 あまりにも美しい光景に上手く反応を返せずにいる私をペガサスが見つめて来る。

 切れ長の瞳の中には比喩で無く星が飛んでいた。

 夜空を思い起こさせるような色の瞳の中に散りばめられた金銀の光。

 星空をそのまま閉じ込めたような瞳がじっとこちらを見ている。

 しばらく見つめ合っているとペガサスがスッと私の方に顔を近づけて来た。

 おずおずと手を伸ばしてその横顔を撫でる。

 逃げたり怒ったりはせずじっと撫でさせてくれた事に感動しつつもヴァイスを見上げる。


「綺麗な子だね」

「ええ、それにとても頭のいい子でじっと私の話を聞いてくれるので、ここに来るとつい色々と零してしまいます」


 そう言ったヴァイスがもう一度ペガサスの背を撫でる。

 彼でも色々零したい事があるんだな、なんて思った。


「乗せてもらいますか?」

「えっ?」

「この子は力持ちですので軽く辺りを飛ぶくらいなら乗せてくれますよ」

「……いいの?」


 撫でていた手を止めて顔を覗き込むと、ペガサスは軽く私の手に擦り寄ってから顔を上げた。

 私も立ち上がってみたが思ったよりこの子は大きい。

 馬にすら乗った事が無いのだが、更に羽まで生えているこの子のどこに乗ったら良いのだろうか。

 乗せてもらえるのは正直嬉しいが、私が思いっきりジャンプした所でこの子の背に跨るのは無理だろう。

 こちらを見つめてくるペガサスの瞳を見返してじっと考えていると、いきなり体が浮かび上がった。

 へ、と自分でも間抜けだと思うような声が漏れた時には、ヴァイスに横抱きにされる形でペガサスの背中の上にいた。

 密着する体と、至近距離にある綺麗な顔に気が付いた瞬間一気に顔に熱が集まる。

 顔に一気に血が上りすぎて爆発音が聞こえた気がした。

 そんな私を見て嬉しそうに笑ったヴァイスが合図を出すと、ふわりと浮き上がる感覚と同時に力強い羽ばたきの音が響く。


「わあ……」


 ロインに抱えられて飛んだ時とはまた違った感覚だ。

 上下左右全て空の青に包まれている。

 時々動かされる白い翼が視界をかすめて行った。

 一気に上昇したのか遥か下にさっきまでいた空中神殿が見える。

 今日一日で一生分の美しい景色を見たような気分になりながらゆっくりと辺りを見回した。


「お気に召しましたか?」

「うん、すごく。君もありがとう」


 そっとペガサスの首を撫でると小さく嘶きを返してくれる。

 少し落ち着いた所でこの密着している現状がすごく気になって来た。

 意識しない様にすればするほど落ち着かなくなってくる。

 オロオロする私に気が付いたらしいヴァイスが笑ったらしく軽い振動が伝わってきた。

 

 私を支えるように腰に回されていた手に力が籠ったのはそのすぐ後だった。


 後ろからヴァイスが肩に顔を埋めて来て、サラサラの金糸が頬をかすめて滑り落ちる。

 何となく予感していた事がついに現実になったのだと、そう察した体が強張った。

 視線を動かしてみても彼のつむじぐらいしか見えない、不安定で逃げ場のない空の上で彼が口を開く。


「貴方を困らせる事を言っても良いですか?」

「……やだって言ったら言わないでおいてくれるの?」

「いいえ」


 どうしようもないのは気が付いている。

 せめてもと冗談交じりの返事を返すと、肩口に顔を埋める彼が笑ったのを感じた。

 腰に回された手にさらに力が籠ったのを感じる。


「あなたの事が好きなんです」


 結局元の世界の事を振り切ったとしても、こういう言葉に返す言葉は浮かんで来ないままだ。

 ただ、ああ来ちゃったな、なんて思う。

 言葉を返せずにいる私に、顔を埋めたままのヴァイスがぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。


「気づいてはいらっしゃったのでしょう?」

「……うん、何となくだけど」

「この気持ちを伝えないまま、あなたと色々な場所に出掛ける楽しさも捨てがたかったのですが。これ以上出遅れるのは流石に御免ですので」

「私、今すぐに気持ちに答えは出せないよ?」

「はい、わかっていますよ。ただ私の気持ちも知っておいてほしいだけです」

「真剣に考える時間を貰っても良い?」

「もちろんです」


 腰に回る腕の力強さはそのままにヴァイスが顔を上げる。

 一拍置いて何かに気が付いたように笑った。


「……なんで笑うの」

「いえ、一応真っ赤になるくらいには意識されているのだな、と」


 この人に真剣に告白されて照れない女性がいるのならばぜひ会ってみたいものだ。

 熱い顔をどうする事も出来ずに下を向いた私にさらにヴァイスが笑う。


「良かったです。少なくとも今ここで私の手を振りほどかない位には思っていただいている様ですし、意識されていないわけでもない事もわかりましたから」


 ニコニコと機嫌よく微笑むヴァイスと共に、日が暮れ始めてオレンジ色になってきた空をペガサスに乗せてもらって移動する。

 さっきの空中神殿へ戻ってきた所でヴァイスの手を借りてペガサスから降りた。

 こちらをじっと見つめてくるペガサスの真っ白の体が夕日色に染まっている。

 なんだか名残惜しくてもう一度首筋を撫でた。


「またここへ来た時は乗せてもらいましょう」

「うん、その時はよろしくね。またね」


 そう言ってペガサスの瞳を見つめる。

 綺麗な瞳がじっと私を見て、肯定するように軽く体を摺り寄せて来てくれた。

 そのまま森の中に帰って行くペガサスを見送り、私達も空中神殿を後にする。

 家まで送ってくれたヴァイスは告白の事には触れずに、またいっしょに出かけましょう、それではお店で、とだけ言って帰って行った。

 彼の後ろ姿が移動魔法陣に消えるのを見送ってから部屋へと戻りベッドに腰掛ける。

 こぼれたため息が自分が思っていたよりも大きな音として部屋に響く。

 そのまま後ろに倒れればボスンという音を立てて布団に体が埋まる。

 流石に色々な事がありすぎた。

 元の世界への道が示された事なんて完全に想定外な事だったし、何となく予感していたとはいえ正式に告白されてしまった以上はもう逃げ場はない。


「あー……」


 空中神殿の上空でペガサスの背に乗せてもらいながら王子様のような男性に告白される、すごい経験をしてしまった。

 誰が好きなのか、そう自分に問いかけてみても全く答えが浮かんで来ない。


「早くジェーンに会う日にならないかな」


 サーラと話した時よりも状況は複雑化しているのだけれど。

 正直元の世界への道を断ち切った事がどうでもいいと思えるレベルで悩んでいる。

 浮かんだのは私を好きだという奇特な三人の顔。


「……貴方達のせいだよ」


 空中に向かって呟いた言葉にもちろん返答は無い。

 ただ今日また一つ、私がこの世界を選ぶ理由が増えたのは確かだった。

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