突然の選択肢
ルストからの告白を受けて数日、店で会っても彼はいつも通りだった。
その事に救われながらも、頭の中では常に自分の感情を探している。
そして今日その感情が更に複雑になるであろう事もなんとなく分かっていた。
彼と出掛ける時のお馴染みとなってしまった服選び、今までと変わらずに悩んで決めた服に袖を通してスケッチブック片手に部屋を出る。
リビングの隅で専用のベッドを貰ったモモがすやすやと寝息を立てているのを見つめてから、玄関へ向かう。
帰宅した叔父の顎が驚きで外れそうになった事件はあったが、大きくなったモモは今までと同じく私と暮らしている。
まだうまく飛べないまま睡眠の時期に入ってしまったモモ。
頼むからこれ以上大きくならないでほしい、せめて家の中で暮らせるサイズで止まってほしい。
そう話題に出した私と叔父から、彼にしては珍しく何も言わず目を逸らしたルストを見て叔父と二人で顔を引き攣らせた事は記憶に新しい。
大きくなってもモモが家族な事に変わりは無いが、せめて、せめて家の中に入るサイズで止まってくれというのが私と叔父の共通の願いだ。
玄関を開けるときらりと光が反射して眩しい。
以前出掛けた時と同じように移動魔法陣の小屋に寄り掛かったヴァイスが微笑んでいる。
色々思う所はあれど、空中神殿が楽しみな事は変わらない。
楽しもうと決めて彼の側へ歩み寄った。
「こんにちは、今日はよろしくね」
「はい、しっかりご案内いたします」
うん、もう完全に王子様だ。
日の光を金色の髪にきらきらと反射させて穏やかに笑うヴァイスを見てしみじみとそう思った。
移動魔法陣の操作盤に青い石を押し当てるヴァイスの背中を見ながら、空中神殿への期待が高まって行くのを感じる。
昔見た映画やアニメが心の中に浮かんでワクワクして来た。
振り返ったヴァイスが一瞬驚いた後に笑ったのできっと顔に出ていたのだろう。
「あんまり笑わないで。楽しみだったんだから」
「すみません、そこまで楽しみにして下さっていたとは思わなかったので。行きましょう」
笑いをこらえるヴァイスに続いて魔法陣の中へ足を踏み入れる。
飛んだ先で感じたかなりの眩しさに一度目を細めた。
顔に感じた風に目を開けば、そこは想像していたよりもずっとずっと素敵な場所だった。
白を基調とした巨大な柱から構成される神殿へ同じく白い石で整えられた道が繋がっている。
広い道の中央には美しい装飾の噴水があり、様々な色の花が咲き乱れる花壇が至る所に散らばっていた。
花壇から飛んできたであろう様々な色の花びらが噴水の中に浮かび、まるで虹色の滝のように美しい色合いの水が流れ落ちている。
噴水から延びる水路が道に沿って伸びており、そこにも花びらが浮かんでいた。
神殿の周りは森になっているようで、鳥や動物らしき鳴き声がかすかに聞こえる。
青々とした葉が生い茂るその向こうに低い石塀が見えた。
何よりも神殿の周り全てが空で構成され、地面や建物以外が全て青に包まれている。
どうやらこの神殿は雲より高い位置にあるらしい。
言葉にならずに周辺を見渡していた私に嬉しそうに笑ったヴァイスが声を掛けて来る。
「美しい場所でしょう? 中もご案内いたします。行きましょう」
「中も入れるの?」
「ええ、ここは魔物も出ませんから」
そういうヴァイスは今日は槍を背負ってはいない。
彼が武装していないという事は本当にここは安全な場所なのだろう。
彼の横に並んで空中神殿へ続く白い道に足を踏み出した。
神殿へ続く階段を上った先、大きな柱の先の天井が遥か上に見える。
所々に空いた窓の穴から太陽の光が差し込んで白い石がキラキラと輝き、中心の通路の先にある大きな女神像がこちらを見下ろしていた。
「中も綺麗だね」
「ええ、この神殿がいつから存在しているかはわかりませんがあまり朽ちてもおらず、おそらく当時の姿をほぼそのまま残しているのだと思います」
「今は自警団が管理してるの?」
「はい。本来ならば王直属の騎士団や王族の方が管理した方が良いのかもしれませんが、ここを見つけたのが自警団で当時団長を務めていた方らしいので」
「そのまま自警団で管理してるんだ」
「はい、今は私が管理担当ですのでよくここに息抜きに来ています」
「すごく贅沢な息抜き場だなあ」
「ええ、私もそう思います」
冗談交じりにそう笑い合って彼が開けてくれた女神像の横にあった扉を潜る。
中にあったのは小さな泉だった。
ここは半分外のような形になっており、天井が無く芝生と小さな花で地面が構成されている。
泉は中央の天使の像が持つ水瓶から水流が零れ落ち、下にある円形の泉の中に流れ込む形になっていた。
上から降り注ぐ光が水に反射して眩しい。
何となくその場所が気になってじっと見つめていると、他の場所にも行ってみようとヴァイスから声がかかったのでそれに返事を返して彼と共に部屋を出た。
何故かその場所に後ろ髪を引かれる様な気持ちを覚えながらも、他の場所もどこも綺麗でワクワクしながら見て回る。
一通り案内してくれた後に神殿の入り口に戻って来ると、ヴァイスは以前の様に自由行動にしようと離れて行った。
前と同じように私がスケッチする時間を作ってくれたのだろう、相変わらず気の使い方が上手い人だ。
遠慮なく神殿の前の噴水に座り色々とスケッチをしていく。
ある程度描いた所で移動して今度は噴水と神殿が視界に入る様にしてスケッチを続ける。
描き終わってふうと息を吐き出し、今度は内部にあった女神像でも描こうと思い立って神殿内へ歩を進めた。
神殿内部の風通しのいい部分に腰掛けるヴァイスの後ろ姿を見つけて近寄ろうとしたが、彼の目が閉じられている事に気が付いてその場で止まった。
私に声を掛けてこないし眠っているのだろうか、まあ寝ていようといまいと近寄れば彼の目は開くだろう事は理解出来たので、そっとしておいてあげようと思い女神像をサッとだけスケッチする。
さらさらと描き終えた所でさっきなんだか気になったあの泉がまた気になってくる。
どうしてかあの場所の事が頭の中から離れない。
「…………」
どうせあの場所もスケッチしたいと思っていたし、行ってみようと決めてヴァイスを起こさない様に気を付けてそっと泉に続く扉を開けた。
開けた先の泉はさっきと何も変わらずそこに存在している。
天使像が描きたくてペンを滑らせるが、どうにも泉が気になって仕方ない。
なんだか体がソワソワして落ち着かず、スケッチブックを閉じてその場に置いてから流れる水の先が覗き込める場所に近付いた。
天使像から流れ落ちる水で作られた波紋が水面に映る私の顔をぼやけさせる。
何の変哲もないただの泉だ、なのにどうしてこんなに気になるのだろう。
ジッと揺れる水面を見つめていると上からひらりと小さな花弁が落ちて来て水面に浮かんだ。
「……っ」
ヒュッと息が止まった。
花びらを中心にして落ちてくる水流があるにもかかわらず水から波紋が消えた。
本来なら起こりえない現象だ、上から流れてくる水流は変わらずあるのに花びらの周囲だけ水は穏やかに凪いでいる。
そこに映る自分の顔が一瞬ゆがんでから消えて、代わりに何かが映し出された。
「あ……」
懐かしい風景が水の中に映っている。
その風景は順々に変化していくがすべて私が知っている物だ。
幼い頃に過ごした家、両親と撮った写真が飾られた写真立て、両親の墓、通っていた学校、よく遊んだ公園。
叔父さんと暮らした家が映り、ここに来るまでに勤めていた会社の周りで親しい同僚たちが歩いている光景に変わる。
どくりどくりと心臓が嫌な音を立てる。
「なんで、これ、元の世界の……」
私の幼い頃からの思い出を辿る様に変化していく水面から視線が外せない。
呼吸が荒くなっているのが自分でもわかる。
まるで動画を見ているように滑らかに変わっていった光景は、最後に私がこの世界に来た時にいた洞窟内の風景を映し出して止まった。
そこで唐突に理解した。
今この水面から元の世界に行ける。
そんな確信めいた何かが胸の中に思い浮かぶ。
なんで今更、なんで今、そんな問いが頭の中を埋めて思考がぐるぐると回っているような感覚。
こんな事は想定していなかった、だって私の最近の一番の悩みはもっと別の事で、元の世界の事なんてとっくに割り切っているつもりだったんだ。
最近は思い出す事すら少なかったのに、さっき見た光景で色々と思い出してしまった。
ここに来て一年以上、毎月行っていた墓参りにはもちろん行けていないし、小学校からの付き合いの友人達は私が行方不明になって心配してくれているだろう。
両親が亡くなった時心配してくれていた親戚達はどうしているだろう。
叔父さんに続いて私まで失踪だなんて。
未練なんてもう無いと断ち切っていた魅力的なものが目の前で揺れている感覚。
この世界に来てから一年と少し、そして元の世界で過ごして来た二十年程。
どちらも比べ物にならないくらい大切な私の時間で、生きて来た場所だ。
そして同時に手に入れる事が出来ないものでもあるとわかっている。
今ここで選ばなかった方は二度と手に入らない、そんな確かな予感が胸の中に浮かぶ。
息苦しいような気がして、肩が揺れる位に呼吸音が大きくなる。
ここの世界に来た時、私にはここで生きていく以外の選択肢は無かった。
叔父さんが帰る方法は無いと言っていたし、未練はあれどどこか諦めたような気持ちでこの世界で生きる事を決めた。
そしてこの世界の人達と関わってきた事でその未練を断ち切って来たのに。
ああそうか、きっと叔父さんの前にもこの選択肢は現れたんだ、そして叔父さんはこの世界を選んだんだ。
頭に浮かんだその考えは正しいのだと何となく理解して、未だにあの洞窟を映し出す水面を見つめる。
きっと今ここで選ばなかった世界は二度と私の元へは戻らない。
いつの間にか胸の前で握りしめていた手をそっと水面に向けて伸ばす。
ここに帰りたいと願って触れればきっと元の世界に行ける。
私が生まれ育ってきた世界、もういない両親の眠る墓があり、幼い頃からの付き合いの友人達がいる、思い出がたくさんある世界に。
この水面を無視すれば私はずっとこの世界で暮らしていける。
叔父さんがいて、新しく出来た友人達がいて、お店のお客さん達がいて……私を好きだと言ってくれる男の人がいる世界で。
唐突に訪れた選択肢、もう選べないと思っていたものが今私の目の前にある。
伸ばした手の指先が冷たい水面に触れた。