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定まらない気持ち

 柔らかな日差しを閉じた瞼越しに感じて意識が浮上する。

 ゆっくりと開けた目にカーテンの隙間から差し込む光が少し眩しい。

 見慣れた天井をしばらく見つめて起き上がる。

 いつも通りの朝、慣れた自分の部屋、棚の上の籠の中で眠るモモもいつも通りだ。


「…………」


 上半身を起こしただけで腰から下は布団に入ったままジッとしていると、昨日の事が頭の中で何度も繰り返し思い起こされる。

 ロインの震える声、少し低い体温、抱きしめられた感覚。

 あの告白の後、一度私を強く抱きしめてから彼はすぐに体を離した。


 困らせてすまないと言われた、だけど本気だと言われた。


 ロインが送ってくれた帰り道で何を話したか殆ど覚えていない。

 ただ彼のどこか寂しそうな、けれどすっきりしたような笑顔だけは覚えている。


「……駄目だ」


 小さく呟いてからベッドから起き上がる。

 明日お店を開けるので今日は仕込みに行かなくてはならない。

 お昼頃にルストとサーラがご飯を食べに来たいと言っていたしそろそろお店に向かう準備をしなくては間に合わなくなる。

 とりあえず頭をはっきりさせるためにお風呂にでも入ってこようと決めて部屋を出た。

 ゆっくりと階段を下る。

 どうしても昨日の出来事が頭の中から離れない。

 他の事を考える隙間なんて無いくらいロインの事で頭がいっぱいだ。

 これだけロインの事ばかり考えているのに、いざ彼が好きかどうか聞かれたらわからない自分が嫌になる。

 ため息を吐きだした瞬間、足元からズルッという嫌な感覚を感じた。

 ぞわりと背筋に寒気が走ったと同時に体のバランスが崩れる。

 とっさに伸ばした手は空を切り、息が一瞬止まる。

 残り三段ほどの階段を踏み外して滑り落ち、一階の床に思いっきり尻もちをついた。

 したたかに打ち付けたお尻と滑った時に擦ったらしき踵が痛い。

 やってしまった、ズキズキと痛みを訴えて来るお尻に手を当てながら立ち上がる。

 特に怪我はしていないようだが完全に不注意だ。

 滑り落ちた時に大きな音が出てしまったようで、驚いた顔の叔父がリビングから顔を出す。


「おいおい、大丈夫か? 頭は打ってないだろうな?」

「大丈夫、三段くらい落ちただけだから。尻もちついただけ」

「気をつけろよ、店が休みの間にお前に何かあったら客連中が泣くぞ」

「うん、驚かせてごめん」

「怪我は無いんだな?」

「落ちた衝撃でズキズキはしてるけど無いっぽい」

「なら良いけどよ。そういや昨日町でヴァイスに会ったんだが、今日の昼頃ダンジョン調査の書類持って店に来るって言ってたぜ」

「そうなんだ、一応お昼出せる様にしておこうかな。あれ、ルストも来るって言ってたけど鉢合わせない?」

「いい大人なんだから喧嘩になったりはしないし大丈夫だろ」


 昼飯は頼むな、と言った叔父がリビングに引っ込んだので予定通りお風呂へと向かう。

 流石にボーっとし過ぎた。

 気を付けないと、と思いながら風呂場へ足を踏み入れる。

 風呂の蓋を開けようとして……盛大に湯船の中に落っことした。

 大きな水しぶきを上げてお湯の中に落下する蓋、跳ねあがったお湯を頭から被って顔が引きつる。


「……流石にまずくない?」


 髪の毛からボタボタと垂れる水滴を払う気力もなく、ポロっと口から出た言葉が風呂場に反響する。

 バタバタと足音が響いて来て、風呂の扉越しに叔父の慌てた声が響いて来た。


「おい! どうした、落ちたのか?」

「ごめん、蓋落としただけ!」


 扉越しに叔父に謝って、ため息をつく。

 脅かすなよ、と言って叔父が戻っていく音を聞きながら湯船から蓋を引き上げる。

 これはまずい、頭を切り替えないと本格的に怪我をしそうだ。

 少し気を張りつつお風呂の中に体を滑り込ませる。

 背中を浴槽に凭れかからせてようやく安堵のため息を吐いた。

 朝からため息ばかり吐いている気がする。

 体が強張っている気がして腕を前に伸ばしてググっと伸びをすれば、視界に映る肩には手の平の形の痕が残っていた。

 そしてその上につけられた見慣れてしまった穴が二つ、ロインが噛んだ痕だ。

 手の平の痕は結構強い力で掴まれていたしもう仕方ないが、あの状況でちゃっかり血まで吸っていったロインにはある意味感心してしまう。

 というかいつもより噛む場所上じゃないのこれ?

 恐る恐る肩に触れてみる。

 自分の手で触ってみても昨日のロインの手の感触の方を思い出してしまい、また思考の海に沈むことになってしまった。


 いつもより長めの風呂を終えて、お店の方に向かう。

 流石にこれでのぼせたとか言ったら洒落にならない。

 お店に着くと叔父がレジの操作をしている所だった。


「カレー作るけど叔父さんもここでお昼食べる?」

「おう、頼むわ」


 手を切ったりしない様にいつもより少し慎重にカレーの仕込みを終わらせて鍋へ具材を放り込む。

 煮込んでいる間に明日の仕込みを終わらせてしまおうと用意しておいた豚肉を取り出し衣をつけておく。

 明日のメニューはとんかつと豚肉のソテーの予定だ。

 このメニューは結構人気が高いので作る頻度も多い。

 黙々と衣をつけて、付け合わせのキャベツも刻み、副菜用の漬物も漬けこんで、と作業していると時間がどんどん過ぎていく。

 そろそろお昼に差し掛かるだろう。

 カレーも完成させたし、明日使う材料も切り終わったので後は明日仕上げればいいだけだ。

 まだルストたちは来ないみたいだし、さっき衣をつけたカツを数枚取り出す。


「……せっかくだからカツカレーにしちゃおうかな」

「マジで? よし、やれ!」


 ウキウキし始めた叔父に苦笑して、パチパチと音を立てる油の中にカツを投入する。

 油の中を泳ぐカツを見ながら、そういえばロインに初めて出したご飯もとんかつだったなあ、なんて思ってしまう辺り気持ちを切り替えられていないようだ。

 美味いって言ってくれたんだよなあ、なんて思い出しながら色が変わってきたカツをジッと見つめる。


「よう、邪魔するぜ!」

「わっ!」


 また考え事に浸りそうになっていた所で、大きな声と同時に勢いよくドアが開き肩が跳ね上がる。

 私の反応が思いの外大きかったせいか、アイテムを並べていた叔父と入って来たルストのポカンとした視線が向けられて恥ずかしくなってしまった。


「あ、はは、ごめん。カツ揚げるのに集中してたからびっくりしちゃって」

「そ、そうか? いきなり開けちまって悪かったな」

「こっちこそごめん。カツカレーにするからちょっと待っててね」

「マジで! よっしゃ!」


 さっきの叔父と同じようにウキウキとカウンターに腰掛けたルストと一段落ついたらしい叔父にカレーを渡すと、二人とも笑顔で口をつけ始めた。


「いやあ、久しぶりに食った気がするなあ」

「店が閉まってたのは昨日だけだろ」

「いや、これから一か月閉まってる頻度が高くなると思うとなんとなくそんな気がして」

「それならばもう少し短くなる予定ですよ」


 穏やかな声が聞こえて、入り口の方を見るといつも通り制服をピシッと着たヴァイスが入って来る。

 ルストの顔が少し引き攣ったが、特に険悪なムードになったりはしなかった。


「いらっしゃい、ヴァイス」

「こんにちは、お邪魔しますね。タケル殿、書類をお持ちしましたので食事の後にサインを頂いてもよろしいですか?」

「おう、わかった」

「ヴァイスもご飯食べて行かない? カツカレーあるよ」

「いいのですか? 喜んで」


 嬉しそうに笑ったヴァイスがカウンターに腰掛けたので、カレーを渡すと更に笑みが深まった。


「明日はもちろん来ようと思っていたのですが、一日分得しました」


 にこやかにカレーに口をつけ始めたヴァイスにルストが少し顔をしかめたまま話しかける。

 苦手意識はあれど嫌いと言う訳では無いのかもしれない。


「つーかさっき短くなるとか言ってなかったか?」

「ええ、思ったよりも順調ですので調査の方は予定より五日ほどですが短縮出来そうです」

「お、そうなのか。じゃあ店もその予定で開けれるようにするかな。ただ予定コロコロ変えちまうのも混乱するだろうからこれで最終決定だ。この先更に調査期間が短縮したとしても店を開ける日は変えない。調査が延びるならそれは仕方ねえから合わせるが、それで良いか彩音?」

「私の方は問題ないよ」

「よし、五日でも早く店が開くなら文句はねえぜ。ごっそうさん! 今日も美味かったぜ」

「ありがとう」


 ルストから差し出された器を受け取り、水を張ったシンクの中に落とす。

 洗うのは皆が食べ終わってからまとめてで良いだろう。


「アヤネは食べないのですか?」

「この後サーラが来る事になってるから、その時一緒に食べようかと思って」

「あああの狐の女性ですか。うちの女性団員が喜んでいましたよ、仲の良い魔物の子が出来たと」

「最近じゃ普通に遊びに行ったりしてるみたいだからね。私も休み中に遊ぼうって言われてるし」

「お前本当に魔物と人間の結びつきに協力してるよな。俺も町が歩きやすくなって助かってるが」

「普通に過ごしてるだけなんだけどね」

「それが良いのだと思いますよ」


 どこか穏やかな空気に変わった食堂で彼らと雑談を続ける。

 よく考えればルストとヴァイスが同じ空間で穏やかに話をしている空間ってレアなんじゃないだろうか。

 叔父に聞いていなければ二人の関係が訳ありだなんてわからなかっただろう。

 まあこの二人が大人な対応をしているというのもあるのだろうけれど。

 叔父もヴァイスも食べ終わったので空になった器を受け取り、さっきと同じようにシンクの中に入れておく。

 食後用のお茶を三人に出し終わった所で店のドアが開いた。


「こんにちはっ」

「あ、サーラいらっしゃい」


 いつも通り明るい笑顔でサーラが店に入って来る。

 カウンターに座る三人を見て少し驚いたようだったが、テーブルの方を勧めるとそちらに座った。

 もう自分も食べてしまおうとカレーを温めて二人分のご飯を皿に盛り付ける。

 それをワクワクしたような顔で見つめていたサーラがふと何かを思いついたように口を開いた。


「タケルさんさあ、セリスとデートするんだって?」

「ん、まあな」

「ええっ?」


 なんて事無いように言った叔父に視線が集中するが叔父は面白そうに笑っているだけだ。


「いったい、いつの間に?」

「昨日町で会って誘われたからな」

「……うちの団員を弄ぶのだけはやめてくださいね」

「俺は中途半端なことはしないぞ」

「それは知っていますが念のためです」

「つーか自警団の奴相手なのかよ」

「私の友達だよ、ちなみに私と同い年位だから」

「マジかよ、結構年齢差あるだろそれ」


 微妙な表情のヴァイスが叔父に釘を刺す。

 唯一セリスの事を知らないルストが疑問の声を上げるが、年齢の事を聞いて顔が少し引き攣った。


「セリスはおっさん趣味だからねー」

「サーラちゃん、おっさんじゃなくて年上趣味って言ってくれ。それかせめておじさんで」

「言い方が違うだけで変わらないでしょ。一回り以上離れてるんだからおじさん扱いでもしょうがないし」

「そりゃ仕方ねえな」


 誰からも賛同が得られなかった叔父さんががっくりと肩を落とす。

 この場にいる全員が芝居だとわかっているので誰一人反応を返さないのが面白い。

 話している間に出来たカレーを持ってサーラの待つテーブルに置く。

 目を輝かせたサーラに笑ってから、スプーンを忘れていた事に気が付いてもう一度キッチンの方へ向かう。

 スプーンを手に持った所で、芝居をやめた叔父が顔を上げてそういえば、と私の方を見た。


「お前昨日どこにいたんだ?」

「えっ?」


 思いっきり肩が跳ね上がって、手に持っていたスプーンが床に落下し大きな音を立てる。

 自分でもわかるくらい上擦った声が出てしまい、今度は私に視線が集中した。


「え、あ……なな、ななな、なんで?」

「いや、昨日昼過ぎに起きた時にはお前いなかったし帰りも多分遅かっただろ? 俺が起きてる間は帰って来なかったし。町でもお前は見かけなかったしセリスちゃんも見て無いっていうから。つーかお前大丈夫か?」

「え、大丈夫だよ。何の問題も無いよ」


 まずいまずい、頭の中が纏まらなくて自分でも言葉がおかしいのがわかる。

 全然頭が切り替えられていない、昨日何していたかの問いでリアルに色々思い出してしまう。

 叔父さんの顔は引き攣っているし、残り三人の周りにも盛大に疑問符が飛び交っている。


「いや、マジで大丈夫か? お前朝からおかしいぞ。階段から落ちるわ風呂の蓋は落っことすわ。具合でも悪いのか?」

「え、元気だよ。元気元気。とりあえず体調は良いよ」

「じゃあなんだよ?」

「なんでもないって、大丈夫大丈夫」


 無理やり誤魔化して新しいスプーンを手にとってサーラが待つテーブルへと向かおうと歩き出す。

 そして盛大に転んだ。

 何も無い所で思いっきり転んでしまい一気に恥ずかしさがこみ上げる。

 シンとしてしまった食堂のあちこちから飛んできている視線が痛い。


「ちょっ、大丈夫?」

「だ、大丈夫大丈夫。スプーンは死守したから」

「いやスプーンの心配じゃなくて」


 駆け寄って来てくれたサーラが呆れたような声を出す。

 手に持っていたスプーンはサーラの手に渡りそのままテーブルに置かれた。


「おいおい、大丈夫か?」

「本当に体調良いのかお前は? 腕擦りむいてるぞ」

「え、ああ……」


 叔父に指摘されて腕を見れば転んだ時に擦った場所から血が滲んでいる。

 やってしまった、怪我だけはしない様にしようと思っていたのに。

 床に座り込んだまま血のにじむ腕を見ているとその腕をヒョイッと取られた。

 私の前に跪いたヴァイスが私の腕に手を当てるとその手から柔らかい光が溢れだす。


「これくらいなら治せますが、気を付けてくださいね」


 声色に心配を滲ませて私の怪我に治癒魔法をかけてくれるヴァイス。

 その後ろからは心配そうにルストがこちらを見ている。

 ヴァイスが手を離した時には傷は綺麗に無くなっていた。


「あ、ありがとう」


 色々言いたそうな視線にはあえて気が付かないふりをして、心配そうなサーラをなだめてテーブルに着く。

 ヴァイスも自分が座っていた席に戻ったようだ。

 サーラと共に食事を始めたものの、何とも言えない視線が飛んできていたたまれない。

 聞かないでほしいと思っている気持ちを察しているのか誰も何も聞いてこないが、そのせいで沈黙がその場を支配していて居心地が悪い。

 流石にここまで心配をかけておいて誰にも何も言わないのは酷い事なのでは無いだろうか。

 そんな事を思ってしまって心が痛む。

 視線だけで食堂を見渡して、目の前のサーラを手招きする。

 前から私の恋愛に関しては色々察してくれているし、この場で一番言いやすいのはサーラだ。

 一人に話している所を見ればまたみんなの心象も変わるだろう。

 それにいい加減私もこの胸のモヤモヤ感を何とかしたい。

 一人で抱えきれないなら友達に相談するしかないだろう。

 正面から顔を寄せてくれたサーラに耳打ちする。

 視線を感じはするが聞かない様にしてくれるような人達だから大丈夫だろう。

 もっとも他ならぬサーラによって全員の耳に入ってしまう事になったのだが。


「……ええっ? 告白されたあ!」

「ちょっ、なんで言っちゃうの?」


 ハッと気が付いたらしきサーラが顔を青くして謝って来るがもう遅い。

 後ろにあるカウンターからの視線が痛い、よりにもよってあの二人からの視線が。

 そちらを見ない様にしている私に気が付いたサーラが一瞬ですべて理解したようで更に彼女の顔が青くなる。

 まあ私の立場でも驚いて声を出してしまう可能性はあるのでサーラの事を責める気は無い。


「ご、ごめん。ホントにごめん、本気でごめん」

「うん、いいよ。自分がいつも通りじゃないのは一目瞭然だったし」


 未だに二人の方は振り返れない私に向かって叔父が大きなため息を吐く。


「そういうことか、まあ相手の想像はつくけどよ。つーかお前十代の頃彼氏いたじゃねーか。今更なんでそんなあわあわしてるんだよ」

「え、そうなの?」

「あれを彼氏にカウントしていいならいた事になるね」


 更に視線がきつくなった気がしたが必死に気が付かないふりをして叔父さんとサーラと話し続ける。

 一応彼氏という存在はいた事にはなる、のかは自分でもよくわからない。


「その、十代の頃に告白されたんだけどタイミングが悪くて。どうしても集中したい事の締め切りの五日くらい前だったかな。ちょうどその次の日から五日間の連休だったし早く帰ろうとしてた所を呼び止められて告白されたんだけど、私はそれに集中したかったから断ったのね」

「断ったの?」

「うん、恋愛に興味はあったけどそれこそ寝る間を惜しんで集中してた事の仕上げ段階だったから。ただ相手が引いてくれなくて。結局その五日間は連絡は一切しなくても良いならって事でオーケーしたんだけど」

「けど?」

「家に帰った瞬間から連絡がすごい来るし、次の日は家まで来られるし。約束したし構ってる余裕なんて無かったから完全に無視してた私も悪いんだけど、連休明けには相手が私の悪口を広めて回ってて、いつの間にか私がフられた事になってたんだよね」

「は? なにそれ! だって相手はそれで良いって言ってたんでしょ?」

「うん。ただ悪口に関しては告白された事を友人達には言ってたし、私が集中したいって言ってた事も周知されてたし結構周りにも期待されてた事だったから相手の方の立場が悪くなってたね」


 そんな感じだからあれを彼氏がいたと表現していいのかはわからない、そう言った私に怒った様子のサーラがそれは彼氏扱いじゃなくて良いと強い口調で言う。

 まあ私も頭の中で彼氏扱いはしていないのでそう言ってもらえた方が嬉しかったりする。

 あの頃は今とは比べ物にならないくらい、集中したい事、つまり絵を描くことが大好きだった。

 だから無視していたとはいえ、約束したにもかかわらずしつこく付きまとわれてすごく腹が立った思い出しかない。


「ま、そいつに関してはそうだろうが今お前がそこまで慌ててるって事は告白自体は嫌な事じゃなかったんだろ? 返事はしたのか?」

「……してません、待ってもらってます」


 小さくなる語尾、顔が上げられない私を見た叔父が小さく笑った。


「ま、若い内はしっかり悩め。お前が出した答えならちゃんと応援してやるから」

「叔父さん……」

「まあ俺は悩む事なんて無いからセリスちゃんと楽しくデートしてくるけどな」

「叔父さん!」

「わあ、台無し」


 叔父を見て呆れたように呟いたサーラが、私に向き直って柔らかく笑う。


「じゃあこの提案はアヤネにとっては良いタイミングかもね」

「提案?」

「ジェーンから落ち着いたから会わないかって聞かれてるんだ。ミリティとセリスもつれて五人でお茶会しようよ」

「え? 行く、絶対行く! 相談も出来るけどそれよりも久しぶりにジェーンに会いたい」

「だよねー、セリスとミリティと日程合わせて行こう。アヤネはお店が休みの日ならいつでも大丈夫?」

「うん、今の所予定は入れてないよ」

「じゃあ決まりね。日程は後で合わせよう」

「うん!」


 結局この後、ルストやヴァイスからも特に何も言われる事も無く全員解散になった。

 ただ二人が難しい顔で何か考え込んでいる事には気が付いてしまったので、私の予想が当たらない事を心の片隅で祈ってしまう。

 もし私の予想が当たっていたら二人には大変失礼な感情だが、今はまだこれ以上の事を考えたくない。

 明日無事にお店が終わるように祈りながら、食器を片付けて家へと戻る。

 ジェーンに会える喜びで少し落ち着いた気がする。

 おかげで変にボヤッとする事も無かったし。

 部屋に戻って一息つく。

 視線を向けた先の窓辺には二本の花が飾ってある。

 何となく近寄ってそのうちの一本を手に取った。

 薄いオレンジ色の花、ジェーンの結婚式で色を変えた花だ。

 あの日着ていたドレスと似た色に変わった花を見て、ジェーンと最後に会った結婚式の日を思い出して穏やかな気分になる。

 この花は太陽に当てていればそこから魔力を吸収してほぼ永遠に枯れないらしい。

 不思議な花が多い世界だ。

 花を戻そうとして、横にあるもう一本に目が行く。

 この花と違って月の光でほぼ永遠に枯れる事の無い、ロインに貰った真っ赤な薔薇。

 手に持つ花を元の位置に戻して、薔薇の花を手に取る。

 私にとって彼を象徴する物の一つである花。

 何となく手に持ったままじっと見つめていると、背後の窓からコンコンという音が聞こえて来た。

 パッと振り返った視線の先はカーテンが閉じられており窓の向こうを窺う事は出来ない。

 それでもこの一枚の布の先に誰がいるのかなんてすぐに分かった。

 もう一度響いたノックの音に強張った体が動き出す。

 あの時、この薔薇を取りに行く誘いを受けた時の事を思い出してそっと手に持つ薔薇を元の位置に戻す。

 開けないという選択肢はある、気が付かなかった、部屋にいなかった、そんな言い訳だって出来る。

 だけど……一度目を閉じてからそっと窓の方に歩み寄りカーテンを開ける。

 あの時と同じようにカーテンが開いた瞬間、部屋の床に大きな影が映りこむ。

 三つの満月の光を遮って、空中に浮かぶ影もあの時と同じだ。

 そのまま窓を開ければどこかホッとした顔でロインが笑った。


「……開けてもらえないかと思った」

「考えなかったって言ったら嘘になるね」


 思いの外スルッと言葉は出て来た、変な緊張も無い。

 どんな顔をしていいかわからず困ったような笑顔になってしまった私の前にスッと手が差し出される。


「少し話がしたい。明日店が開くのはわかっているから早めに帰す。少しだけ付き合ってくれないか?」


 彼の手と顔を見比べてから、少し悩んでその手の上に自身の手を重ねる。

 昨日城への道を歩いた時と同じように、少し冷たい手に包まれた。

 そのまま軽く引かれて、あの空中散歩の時と同じ様に彼に支えられて今度は窓から外に出る。

 満月では無いが三つの月の下、吸い込まれそうな程の闇に包まれる渓谷の上を彼の腕に支えられて移動する。

 ロインは何も言わない、私も何も言わない。

 地上で見るのと比べ物にならないくらいの大きな月も、果てなど無いように遠くまで続く満天の星空もあの時と変わらない。

 ただ私とロインの心が少し変わっただけだ。

 それでもあの時どうしようもなく見惚れた光景に同じように見惚れながら、彼が目指す場所までの空中散歩を楽しんだ。


 着いた場所は少し冷たい潮風が吹く夜の海だった。

 波はそんなに高くなく、あまり大きくない波の音が聞こえる。

 真っ黒で少し恐怖を感じる海面にぼやけた三つの月が映りこみ、水平線が長く長く伸びていた。

 月明かりだけだが十分に明るい場所だ。

 砂浜に降り立ったロインが腕を振るうと闇色の霧が絨毯の様に足元に広がり、そこにそっと下ろされた。

 そう言えば窓から出てきてしまったので裸足だった。

 ロインの魔法らしき闇の絨毯から不思議な感覚が足の裏に伝わってくる。

 続いて彼のマントがふわりと肩から掛けられた。

 思わず彼の顔を見れば少し気まずそうに笑う顔。


「すまない、焦っていたらしい。君に何の準備もさせずに連れて来てしまった」


 どこか緊張していたのは私だけでは無かったらしい。

 その事実に気が付いて胸の中がふっと軽くなる。

 そうか、彼も緊張しているのか。


「私も、自分が裸足な事なんて全然気が付かなかった」


 そう言葉を返して、なんだか可笑しくなって笑う。

 波の音しか聞こえないこの場所が頭の中をすっきりさせてくれるのに一役買ってくれている気がする。

 しばらく波の音に耳をすませていると、隣に立つロインがゆっくりとした口調で話し出した。


「……君が、もし俺に答える返事が無い事を気にしているのなら申し訳ないと思ったんだ」

「…………」

「俺が思いを告げたのは突然だったし、すぐに返事がもらえるなんて思っていない」


 月明かりの下、海を背景にしてに穏やかに笑うロインに思わず見惚れる。

 優しい笑顔に昨日の言葉を失うほどの悲壮感や焦燥感は無い。


「君が俺に対する気持ちを固められないというのなら、それは俺の努力が足りないからだ。君に同情で気持ちを返してもらいたいわけではない。俺が君に向ける物と同じ気持ちになって欲しいんだ。だから君の気持ちを決めるために努力するのは君でなく俺だ」

「ロイン……」

「だから君には今まで通り俺と日常を過ごしてほしい。難しい事を、身勝手な事を言っているのはわかっている。だが……」


 言葉を切ったロインが私の顔を覗き込むように視線を合わせる。

 優しげに細められた赤い瞳がじっと私の目を見つめている。


「言っただろう、俺から君と過ごす日常を奪わないでくれ。その君と過ごす日常の中で、必ず君の気持ちを俺に向けて見せるから」

「……ロインって、意外とわがまま?」

「そうだな、君に関しては」


 そう言って笑ったロインにつられるように私も笑う。


「もう少し、もう少しだけ待って。ロインが真剣に言葉をくれたのに私が適当な気持ちを返すのは嫌だから。ちゃんと考えて返事をするから」


 朝から胸につかえていたものがようやく言えたような気がして、気持ちが軽くなる。


「ああ、待っている。だがさっきも言った通り俺も努力はさせてもらうぞ。君から良い返事をもらうために」


 覚悟しておいてくれ、というロインに怖いなあと笑う。

 少しだけ日常が戻ってきた気がした。


 帰りも同じようにロインに抱えられ、また窓から自分の部屋の床に下ろされる。

 窓の外のロインの顔もどこか重荷を下ろしたように見えた。


「海、連れて行ってくれてありがとう」

「ああ、君はああいう景色は好きだろう?」

「うん」

「なら良かった、また誘いに来る。暇な時は付き合ってくれ。明日、君との夕食を楽しみにしている」

「……うん、私も楽しみにしてる」


 じゃあな、と背を向けて飛び去って行くロインの背中を見送ってから窓を閉める。

 まさか気持ちが乱れた原因の人のおかげで落ち着く事が出来るとは思わなかった。

 明日はお店を開ける日だ、もう寝る準備に入らなくては。

 着替えを持ってお風呂へと向かう。

 もう階段から落ちたり蓋を落としたりはしないだろう。

 問題が解決したわけではないが、凪いだ心で明日を待つ事が出来そうだ。

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