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【Session11:縄文時代⑥~三内丸山遺跡~】

三内丸山遺跡さんないまるやまいせきは教科書に載っているので知っていますね。


遺跡の年代は、約5900年前~4200年前・・・本州の最北、青森県で発見された最大規模の縄文時代の集落跡です。


ちなみに、5900年前~4900年前と言うと、シュメール文明やエジプト文明、インダス文明や黄河文明などの所謂いわゆる世界4大文明が世界各地で次々と興っていった時期になります。






それでは、どうして本州の最北、青森県で縄文時代最大規模の集落が発生したのか。


これは私の仮説なのですが、三内丸山遺跡の誕生は、破局噴火による火山灰が東北地方の南部にまで降り積もったことが遠因になったと考えています。






【Session10:縄文時代⑤~破局噴火~】で話した江戸時代に富士山が噴火した話を覚えているでしょうか。


火山灰の降り積もった地域では、農作物が全て灰の下に埋まってしまいました。


全てが灰の下に埋まる・・・これだけでも大変なのはよく分かると思います。


ですが、降り積もった火山灰は、更なる災害を引き起こします。






『歴史地震 第 18 号(2002)』から『富士山宝永噴火(1707)後の土砂災害』より以下の内容を紹介したいと思います。


酒匂川さかわがわ下流域の足柄平野あしがらへいやでは,噴火翌年の六月二十二日(1708.8.8)には,大規模な土砂洪水氾濫が発生している.


酒匂川さかわがわの上・中流域全体に降下火砕物が厚く堆積したため,噴火後の降雨の度に堆積した火砕物が崩落し,谷壁斜面や支渓流から多量の土砂が酒匂川に流入し,各地で河道閉塞や河床上昇を起こしていたことが推定できる.


突発的な豪雨に起因する鉄砲水や,土砂供給量過多による河床上昇によって,足柄平野あしがらへいやでは噴火後 100 年近くにわたって土砂洪水氾濫が繰り返し発生した.”


URL(http://www.histeq.jp/kaishi_18/21-Sumiya.pdf)






足柄平野あしがらへいやってどこ!?」ってなると思うので、補足説明。


足柄平野あしがらへいやがあるのは、富士山を有する静岡県や山梨県の東隣・・・神奈川県の西部になります。






いやはや、おそろしいですよね。


富士山が噴火して火山灰が堆積すれば、近隣の地域で100年近くにわたって土砂洪水氾濫が繰り返されるのです。


縄文時代、破局噴火によって九州から東北地方南部までを覆った火山灰。


富士山の噴火で100年近く土砂洪水氾濫が発生するのならば、縄文時代の人々は、一体どれ程の年月を土砂洪水氾濫に悩まされていたのでしょうね。






もし私が縄文時代に生活をしていたのならば、なるべく火山灰の少ない場所に移り住みます。


火山灰の飛来していない本州の最北端・・・青森県なんて“移住”するのにいいかもしれませんね。


私は、青森県に存在する縄文時代最大規模の三内丸山遺跡とは、元々青森県に住んでいた人々と火山灰を逃れて北上した人々が長い年月をかけて人的交流と人口密集を行ったことで発生した大規模集落なのだと考えています。






日本各地から少しずつ違った文化を持った人たちが移り住んだからか、三内丸山遺跡からは縄文時代のイメージを覆すような物が次々と発見されました。


ここで、三内丸山遺跡公式ホームページより以下の内容を紹介したいと思います。


“三内丸山遺跡は、今から約5900年前~4200年前の縄文時代の集落跡で、長期間にわたって定住生活が営まれていました。


 平成4年からの発掘調査で、竪穴建物跡、大型竪穴建物跡、大人の墓、子どもの墓、盛土、掘立柱建物跡、大型掘立柱建物跡、貯蔵穴、粘土採掘坑、捨て場、道路跡などが見つかり、集落全体の様子や当時の自然環境などが具体的にわかりました。


また、膨大な量の縄文土器、石器、土偶、土・石の装身具、木器(掘り棒、袋状編み物、編布、漆器など)、骨角器、他の地域から運ばれたヒスイや黒曜石なども出土しています。


 ヒョウタン、ゴボウ、マメなどの栽培植物が出土し、DNA分析によりクリの栽培が明らかになるなど、数多くの発見が縄文文化のイメージを大きく変えました。”


URL(https://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/about/iseki/)






“狩猟”と“採集”しか行っていなかったと言う思い込みが強い縄文時代ですが、上記の三内丸山遺跡の発掘調査を見れば分かる通り、“農耕”は縄文時代から行われていました。


また、“他の地域から運ばれたヒスイや黒曜石”と言う記述から分かる通り、他の地域との“貿易”も縄文時代から行われています。


凄いですよね。


日本人は、世界4大文明の時代から“農耕”と“貿易”を行っていたのです。






また、三内丸山遺跡は、広さにして42ヘクタール。


東京ドーム1個分の広さが約4.7ヘクタールですので、三内丸山遺跡の広さは、実に東京ドーム9個分の広さとなります。


加えて、三内丸山遺跡からは、地上4階建て相当の木造建築や10m×32mの巨大竪穴式住居跡も見つかっています。


三内丸山遺跡・・・まさに縄文の大都市ですね。






世界4大文明と同時代に、これ程の文化が花開いていた縄文時代。


最近では、縄文時代の“縄文文化”を“縄文文明”に格上げしようという話も出てきているそうです。


もしかすると、いつの日か本当に縄文文明と呼ばれる日も来るのかもしれないですね。






【おまけ①】

この三内丸山遺跡で発見されるヒスイの産地は、日本最大のヒスイの産地である新潟県の糸魚川いといがわから運ばれてきたものです。


また、三内丸山遺跡で発見される黒曜石の産地は、北は北海道、南は黒曜石で有名な長野県の和田峠などから運ばれてきたものだと判明しています。


ヒスイを運ぶだけでも青森県から新潟県まで600km以上・・・世界四大文明の時代には、貿易を専門とする“職業”が存在していたんでしょうね。






【おまけ②】

世界4大文明という言葉は、世界で通用する言葉ではありません。


そもそも世界4大文明とは、100年くらい前に中国の政治家の梁啓超りょうけいちょうが日本に亡命中につくった概念です。


ですので、世界4大文明という言葉は、日本とその近隣諸国(中国・韓国・北朝鮮)くらいでしか通用しません。


4大文明と言うと覚えやすいのですが、4大文明で古代文明を覚えてしまうと4大文明と同時期の“アンデス文明”や“長江文明”などの素晴らしい文明が華麗にスルーされてしまいます。


当たり前のように習ってきた世界四大文明・・・私見ではありますが、世界の古代史を学べば歴史認識を歪める用語にしか見えません。


世界4大文明・・・そろそろ使うのをやめた方がいい言葉だと思います。

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