現実の環境と適応してきた俺
「社長、今日の現場って新築の雑居ビルですよね」
社員の二人がスマホをいじりだして、俺は手持ち無沙汰だったので、運転中の社長に話し掛ける。
「ああ、そうだ。なんでも、最近業績を伸ばしてきたIT系とかいうやつらしいぞ。四階建ての雑居ビルの一階の受付周辺と各階の廊下と階段。あとはトイレ清掃だな。部屋には間違えても入らないように、って言われているから気をつけてくれ」
「わかりました」
廊下とトイレ清掃というのは意外と多くて、企業が入っているビルや公共施設の定期清掃は大概そういう仕事内容だ。
清掃業を始めて五ヶ月。その内の一ヶ月は異世界旅行で休んだから、実質四ヶ月働いたことになる。それなりに清掃の知識もついてきた。
清掃で一番大事なのは初回の仕事。ここで依頼者が気に入る仕事をすれば、一度だけの仕事が定期清掃へと進化してくれるパターンが結構ある。
特に今回の仕事は元請けを通さずに、社長が直接受けた仕事なので実入りも大きい。
「みんな、マジで頼むぞ。金払いもいいからな、ここの定期清掃が取れたらデカいぞ」
社長の声が熱を帯びている。
想像は当たっていたようだ。
俺みたいなのを拾ってくれて、一ヶ月も休んだのにクビにするどころか、再会した時に何かと身を案じてくれた社長。
その恩を返すためにも気合い入れないと。
「大丈夫っすよ、社長。うちは仕事が丁寧で評判もいいじゃないですか」
「そうそう。いつも通りやったら気に入られますって」
先輩達の頼もしい発言。
俺は……足を引っ張らないようにしよう!
目的地に到着してワゴンから清掃道具を降ろす。
社長がビルの前で話しているのが、依頼人の社長らしい。
ノーネクタイのスーツ姿で顔がかなり若く見えるが、俺と同じかもう少し若いかもしれない。
凄いな、その年でこんな新築ビルを手に入れられるほどの実績がある社長なのか。
そのビルも一般的な無機質な建物ではなく、前面はすべてガラス張りで入り口や受付から漂ってくるオシャレ感。
作業服で入るのにちょっと勇気が必要なデザインセンスをしている。
清掃道具一式の準備が終わったので、少し離れた場所から社長と依頼人の話に聞き耳を立ててみた。
「今日はありがとうございます。清掃の範囲は把握されていますか?」
「もちろんです。今から清掃に入っても大丈夫でしょうか」
「はい。今日は清掃が入るので臨時の休みにしました。何人かは出てきているようですが、清掃のことは話してますので気にせず仕事してください」
若くして社長だというのに物腰が低い人だな。
ちらっと顔を見てみたが、まあまあのイケメンだ。あの顔でIT企業の社長……間違いなくモテる!
「俺たちとは別の世界の住民に見えるよな」
「わかります」
山本さんの皮肉に大きく頷く。
「ひがまない、ひがまない。うちらの仕事だって世の中には必要なんだから。どっちが上も下もないでしょ」
岬さんは子供がいるだけあって大人の意見だ。
「いいこというねえ。でだ、岬さんなら俺たちとあの社長、どっちか選べと言われたらどっち選ぶんだ?」
「若社長に決まってんでしょ」
即答した。
わかってたけど世の中ってそんなもんだよな、うんうん。
「お前ら、仕事始めんぞ!」
「「「はい」」」
社長に呼ばれ各自が担当する清掃機器と道具を手にビルに入る。
一階は受付、トイレ、ちょっとした商談が出来そうなソファーやテーブルが置いてある程度で広々とした空間だ。
床は黒光りしている……材質は御影石っぽいな。この仕事をしてから少しは勉強しているので、たぶんあっていると思う。
壁は白で統一、床は黒。こういうセンス個人的には好きだ。
「パンダみたい」
岬さん、その感想はさすがにどうかと思います。
会社が休みなのは本当らしく、受付にも人はいない。少し離れた場所でこっちを見ているのは警備員か。
清掃で一番の敵は取れない汚れだが、次に厄介なのが人通りだ。
人がいると清掃中に通ろうとしたり、ワックスが乾いてないのに歩かれてワックスをやり直しなんて展開が待っている。
荷物も少ないし、人もいない。新築で床が綺麗すぎるのは、汚れを落とす楽しみが少ないけどやりやすい現場だな。
「まずは一階を仕上げて順々に上がっていくぞ。一階と二階を先に仕上げて欲しいそうだ」
いつもは上から下に掃除していくのがセオリーだけど、一階を先にやるのは会社に誰かが来るのかもしれないな。
「手際よく丁寧に頼むぞ」
一階を終わらせて、二階も今終わった。
階段とトイレもやったから残すは三階の廊下だけだ。ここは四階建てなのだが、最上階は清掃範囲に入ってないらしい。
清掃中にビル内を観察して気づいたことは……社名を見ても内容がまったく理解できない。そもそも、社名が英語じゃないよな。フランス語なのか、それともスペイン語か?
ウトピエ? ……違うな。なんて読むんだろう。
途中で企業理念が書かれたものが壁に貼ってあったので、ちらっと目を通したが……理解できなかった。
グローバルがなんちゃらでソシャエティ? コンプライアンス? コアコンピタンス?アジャイル? ほとんど意味がわからない。英語と日本語が混ざっているので余計に混乱してくる。
これが俗に言う意識高い系というやつなのだろうか。俺の知識が足りないだけで、普通の社会人はちゃんと理解できているのかもしれないな。
三階を清掃中に初めて社員らしき人と遭遇した。
「ご苦労様です……」
そう言ってきた男性はジャケットを羽織っているだけのラフな恰好をしている。
声が小さく聞き逃しそうになった人は、見るからに覇気のない顔をしていた。
目も虚ろで疲れた表情をしている。仕事が終わらないで徹夜でもしていたのかな。年齢は俺より年上に見えるが。
夜通しオンラインゲームをしたときに顔を洗いに行ったら、洗面所の鏡の中にあんな顔した俺がいた記憶がある。
頼りない足取りでトイレに向かい、しばらくするとまたふらふらと歩いて部屋に戻ろうとしている。
「おや、三嶋君、お疲れみたいだね」
「しゃ、社長! いえ、大丈夫ですよ」
いつの間にか背後にやって来た社長が社員を労るように声を掛けた。
すると表情が一変して背筋をビシッと伸ばし、ハキハキと言葉を返している。
かなり焦って対応しているように見える。社長は穏やかな口調なのに、社員は早口で視線を合わせていない。
……もしかして、ブラック企業なのだろうか。いや、これだけでそんな判断をするのは失礼な話だよな。単純に俺みたいにコミュ障で人と話すのが苦手なだけかもしれない。
ぺこぺこと何度も頭を下げて、社員が部屋に戻っていった。
「彼は優秀なのですが人付き合いが苦手でして。うちは能力があればそういったことは問いませんので」
こっちは何も言ってないのに丁寧に説明をしてくれる。
そして一礼をすると、エレベーターに乗って下の階へと移動していった。
「まあ、色々あるわな。俺たちは自分たちの仕事をやるだけだ」
社長の言うことはもっともだよな。
そうは思うが少し気になったので、社員が入った部屋のドアが少し開いていたから、中を覗き見する。
扉から近い席に背を向けて座っている社員が、PCをじっと見つめているようだ。
「……あそこを滅ぼさないと、俺の立場が……」
何か物騒なことを言っているように聞こえたが、声がかすかに届く程度なので聞き間違いかもしれない。
PC画面を見たら少しでも仕事内容がわかるのではないかと、目を細めて集中するとそこに映っていたのは……ゲーム画面。
空から見下ろす映像で無数のモンスターが蠢き、それを操作しているようだった。距離があるので、それ以上のことはわからない。
あんなに焦っていた人が休日出勤までしてゲーム?
もしかしてゲーム開発をしている会社なのだろうか。だとしたら、ちょっとうらやましい。
「良夫、サボってないで仕事しろよー」
「すみません、直ぐいきます」
山本さんに注意されて清掃に戻ったが、さっきの光景が何故か異様に気になる。
仕事の息抜きでやっているだけ、にしてはあの呟き。
切羽詰まった状況でそんなことをする余裕はないよな。
ゲームといえば自分は親密に関わっている。なので、それに絡めて気になっただけなのだろう。
あとで会社名を調べてみようと、社名が書かれたパンフレットの表紙をスマホで撮っておいた。
「お疲れ様でした」
夜の二十二時には仕事が終わり、我が家から一番近いコンビニで降ろしてもらう。
コンビニでお菓子と飲み物を買い店員と雑談をする。
この時間帯は人が少ないので店員も暇らしく、向こうから話題を振ってきた。
「あの時は驚きましたよね。まさか店の前で泡吹いて人が倒れているなんて。うちの食品で食中毒になったのかと焦りましたよ」
そう話す店員は以前、俺が妹のストーカーと対した時に警察と救急車を呼ぶように頼んだ人だ。
あれ以来、何かと話す機会が増えて、気さくに話せるような関係になっている。
「俺も驚きましたよ」
結局あの騒動は彼らが昼間に食べた海鮮による食中毒と判断されたらしい。
ちなみに妹を狙って誘拐しようとしていた彼らは、他にも同じようなことをやっていたらしく、想像していた以上に刑務所暮らしが長引く予定だ。
「そういや、ちょくちょく一緒に買い物をしているかわいい子は妹さんですよね?」
おっと、そっちが目的か。ここからはあまり耳にしたくない話の流れになりそうだったので、会計をさっさと済ませてコンビニを出た。
ちょうどそのタイミングで道路を挟んだ向かい側のバス停にバスが停まり、中から妹が出てくる。
偶然……とはちょっと違って。少し前に妹からもうすぐ帰る、と連絡があったのでついでにここで待っていた。
ストーカー問題が片付いたとはいえ、人気のない夜道が危険なのには変わりないからな。それに妹を襲った連中の仲間がいないとは限らない。
「あれ、お兄ちゃん」
直ぐに俺がいるのに気づいたようで、小走りで駆け寄ってくる。
我が妹ながら美人だよな。スーツ姿の妹を見て、しみじみそう思う。
「さっき仕事が終わってな。コンビニでちょっと時間を潰してた」
「そうなんだ。じゃあ、一緒に帰ろっか」
妹と肩を並べて帰る。
これも数ヶ月前には想像すらできなかった光景だ。
「なんか、お疲れみたいだけど大丈夫か?」
「うーん。ちょっと無理しているかな。最近、うちの仕事を奪っていく会社があってね。そこの新進気鋭のカリスマ社長が有名人なのよ。有名なだけあってやり手みたいで、みんなで頑張ってるところなんだよ」
滅多に仕事の話を口にしない妹なのだが、本当に弱っているようで珍しく仕事の愚痴をこぼしている。
問題は……妹が何の仕事をしているか覚えてないところだ。
あの頃は就職をあっさり決めた妹にすら嫉妬して、話なんて聞こうともしてなかったからな……。
さりげなくライバル社の情報を引き出して、あとで調べておこう。
「そうなのか。どんな会社なんだ」
「ええとね、社名は確か……U、T、O、P、I、Eでユートピーって読むらしいよ。フランス語で理想郷だってさ」
その名前を聞いて驚きのあまり歩みが止まる。
スマホを取り出して、今日撮ったばかりの写真を確認して妹に見せた。
「もしかして、この会社か?」
それはさっき綺麗にしてきたばかりの会社の社名だった。




