Rail of Mine
楽したいなら楽したい。普通からそれたくない。それが私たち。
しかして普通からそれた人たちに、私たちは憧れる。
「あなたは良い車輪を持っているのね。うらやましいわ」
そうは言われても、自分の持つ車輪の良さは分からない。よしんば分かったとして、それを声高に言うこともはばかられる。つまりは、自意識過剰のようで恥ずかしいのだ。
「そういう君も、綺麗な車輪をしているね。僕もステキに思うよ」
「あら、ありがとう」
彼女はくすくすと笑う。
「おうい、どうしたんだい。もうお別れなのかい?そいつはさみしいじゃないか」
すでに遠くになってしまった彼の声が聞こえる。彼はずいぶんと進むのが速い。
彼女は車輪を持った手を後ろに振りかぶった。僕もつられて腕を振りかぶる。
「さあ進みましょう。立ち止まっていては、旅は進みませんものね」
そう言って彼女は腕を振り、持っていた車輪を静かに前へと転がした。僕も後に続く。
車輪はぶれることなくスゥっと前へと転がりゆく。そして車輪の通った後には、淡く輝く光の道が一本描かれている。僕たちはその線の上を歩いていく。
僕らは皆車輪を持っていて、それを転がしながら旅をする。車輪は親から与えられるもので、これを使って僕ら子供は旅をするのが世の常だ。
「車輪を失くしてはいけないよ。そして車輪の描く道からそれてはいけない。約束だ」
親にそう言われ、僕はいままで旅を続けてきた。幸い、なにか大事になったことは一度もない。旅は危険がいっぱいだと聞いていたけど、案外そうでもないので安心と拍子抜けが混じっている。
彼と合流した僕たちは。止まった車輪をまた手に取ると、後ろに振りかぶって前へと頃化した。キレイな一本線を描きながら転がっていく。
車輪はどこでもまっすぐに転がる。軌跡の上は、濡れもしないし荒れもしない。水たまりがあろうと濡れることはない。石があってもひっかかることはない。ひたすらにまっすく転がる。
「……はあ」ふと、彼がため息を吐く。
「どうした、お前。ため息なんかついて」彼に問う。
「いや。ちょっと……いやなんというか、退屈だなと思って」
「退屈? どうして」
「こうして車輪を転がして、その上を歩いての繰り返し。寝ても覚めても。これが退屈じゃなくてなんというのか」
「でも、レールの上からそれてはいけないぞって。そう言われなかったか?」
「言われたさ。もちろん」
「ならいいじゃないか」
「まあ、そうなんだけど」
「いいえ、あなたの気持ち、私も分かるわ。ままならないものよ。そう考えてしまうのはいけないとは思うのだけど、思わずにはいられないの」
また止まった車輪を拾い上げ、また転がす。
「レールの上は安全じゃないか。レールからそれると怖いって聞くし、降りなくてもいいんじゃない?」
僕が尋ねると、いいのよとばかりに彼女は手を振った。
「思ってしまうだけなのだから。あなたもきっとそのうち分かるわ」
はぐらかされたようで、心がもやつく。でも、尋ねたとしてもこたえてはくれそうになさそうなのでそこまでにしておくことにした。
僕らは偶然に同じ方向へと進んでいる。約束したわけではなく、ただ方向が同じだったからという、道連れな関係。これまでもこういうふうに、同じ方へとたまたま一緒に歩いた人はいた。この二人も彼らと同じ。いずれはいつの間にか、違う方へと進んで別れることになるだろう。
これまで出会った彼らは今何をしているんだろう。不意に気になったが、しょうがないことだと思い直す。彼らが今どこにいるのか、ひとかけらも知るすべはない。
一期一会というらしい。誰かがそう言っていた。
「あら、大きな谷ね」
彼女がそう言うのが聞こえてハッとし、前を見る。すると確かに、大きく口を広げた谷が、僕らの行く手に横たわっているのが見える。
「なかなか大きな谷だ。これは渡りがいがあるぞ」
彼はワクワクしたように声を弾ませる。確かに、一度転がした程度では車輪は対岸へと転がりきってはくれないだろう。それほどに大きな谷だ。
「あら?」
いったい何回くらい転がさないといけないのか頭で予想していると、彼女が隣で声を上げた。彼女を見ると、まっすぐに谷の方を見ている。彼女の視線を追ってみると、
「誰かいるね」
一人、谷の傍に立っているのを見つけた。
「何をしているんだ?」
彼がそう言うのも無理はない。その人は、谷の縁に立って、谷の中を覗き込みながら、うろうろとしているのだ。
「おぅい、何やっているんだぁ?」
彼が大きな声でその人に尋ねる。声が届いたのか、その人は僕らの方へと振り向いた。
手を振っている。僕らはその人の元へと歩み寄った。
「いやあびっくりしたよ。危うく谷に落ちちゃうところだったね」
僕らが近づくと、その人はカラカラと笑ってそんなことを言った。近くによって、男の人だと気づく。
「何をしていたの?」
彼女がその人へと尋ねる。
「いやね、あまりに大きい谷なものだから、どうやって渡ろうか困っていたんだよ。なかなかいい降り場所が無くてね」
「降りる場所? どうしてそんな場所を探しているの?」
「谷を越えるためさ」
僕ら三人はいっせいに首をひねる。
「なんでそんな場所を探す必要があるんだ? この谷なんて、車輪を転がせば渡れるだろう? ほら、こんなふうに」
そう言って彼が大きく振りかぶって、勢いよく車輪を谷へと転がした。車輪は谷間を落ちることなくまっすく進み、半分くらい進んだところで止まった。
その人は、転がった車輪を目で追うと、困ったように笑いながら頬を掻いた。
「いやあ、そうしたいところなんだけどね、自分にはできないんだよ」
「は? なんでさ」
「車輪を持っていないからだよ」
彼はあっけらかんと言う。僕は驚いた。車輪も無しに旅をしている人がいるだなんて。
「車輪がなかったら、どうやって旅をしてきたのさ? 湖は? 谷は? 荒地は? そういうところをどうやって超えてきたんだい?」
「なあに、簡単なことさ。湖? 泳いで渡ればいい。谷? 降りて越えたらいい。荒地? 気を付けて歩けばいい。何も大変なことじゃないのさ」
「車輪を使えば、そんな大変なことをしなくても越えられるわ。あえて、そういう大変なことをする意味が分からないわ」
呆れたように言う彼女に、その人はまたカラカラと笑って答える。
「確かにね。僕も何でこんな大変なことをしているのか、分からなくなることがある」
「だったら」
「でも、そっちの方が面白いじゃないか」
彼がニィッと歯を見せるので、彼女は呆れをこらえきれずにため息を吐いた。
すると、黙ったままだった彼が口を開いた。
「なああんた。あんたの車輪はどうしたんだ?」
確かに、この人の体を見ても車輪を持っているように見えない。それなりに大きな車輪だ、持っていれば普通に分かる。
「ああ、車輪かい? 置いてきちゃったよ。だいぶ前にね」
「置いてきた?」
「うん、邪魔だったからね」
なんということだろう。この人は誰もが肌身離さず持っている車輪のことを、焦りも後悔も何も感じるそぶりなど見せずに、邪魔だと言ってのけたのだ。
「キミ、それがどういうことか分かっているのかい? 車輪は一度失くしたら、もう手には入らないんだよ?」
僕は思わず声を荒げてしまう。
「そうだね、手に入らない。でも、だからと言って持ち続けないといけないものでもない。そうだろう?」
「持っていた方が、旅は安全だし楽だよ」
「そうだろうね。でも自分は、こっちの方が楽しくて性に合っているんだ。君知ってる?谷の下にも植物は生えているし、水の中には訳の分からない生き物がたくさんいるんだよ」
アハハと笑うその人を、僕は信じられない人間に見えた。
「まあそういうわけでさ。車輪を持っていたら分からなかったこともあったから自分は車輪を置いてきてよかったと思ってる。まあ、いろいろと大変だけどね! おっと、ここから降りられそうだ、じゃあまたどこかで会おう!」
「あ、ちょっと……」
その人は僕の静止も聞かずに、降りられるとその人が判断した場所からするすると谷底へと降りていった。僕には、降りられる場所とは思えない。
「驚いた、車輪を捨てて旅する人がいるだなんて。あんな人もいるんだね」
「ええ、びっくりしたわ」
「とても信じられないね。軌跡を歩いていれば、安全でいいじゃないか」
「……そうね」
彼女に同意を求めると、どうしてか彼女は歯切れの悪い返事を返した。どうしたのかと、彼女に尋ねてみようとすると、不意に声がかけられる。
「なあ、二人とも」
彼からだった。さっきからずっと黙っていた彼はどうしてか思い詰めた顔をしていた。
彼は少しの間口をもごつかせたが、やがて意を決したように顔を引き締め、言った。
「俺、ここでふたりとは別れようと思う」
「え、随分と急だね」
「どこへ向かうの? 谷を越えないと前には進めないけれど」
「ああ、谷は超えるさ」
彼は何を言っているんだろうか。ならば少なくとも谷を越えるまでは同じ方向に進むのに。疑問に思う僕らに彼は驚きの言葉を口にする。
「俺は、あの人の後を追うよ。車輪はここで捨てていく」
「な、やめときなよ!」
しかし彼は頭を振る。
「もう決めたんだ。ここがそのときなんだ。きっといつかはしないといけなかったことが、今来ただけなんだ。俺は、俺の道を進んでみたいんだ」
そう言うと、彼は駆けだし、あの人が降りていった場所から谷を下って行ってしまった。あっという間に彼の姿見えなくなる。
慌てて谷を覗き込むと、彼の姿はすでに小さくなっていた。
「よくわかんないよ、どうして車輪をそんな簡単に捨てられるんだか。まあいいや、もう先に進もう」
彼の姿を見て呆れながら、僕は車輪を掴むと谷へと転がした。彼女もまた転がす。
転がすこと数回。あっという間に谷は超えられた。当然、あの二人の姿は見えない。
ほら、こっちの方がいいじゃないか。僕はそう思いながら、さらに車輪を転がす。彼女もまた、転がす。どうしてか彼女は黙ったままだ。
しばらく進むと、大きな湖が現れた。
「私はここで別れるわ」
彼女はそう言った。別れの時が来たらしい。
「そう、なら元気でね」
別れを簡潔に済ませ、僕は湖に車輪を放った。軌跡ができる。湖の上に足を踏み入れようとすると、不意に彼女が声をかけてきた。
「ねえ、知っている? 石で転ぶと痛いのよ?」
「え?」
「さようなら」
そう言うが早いか、彼女は振り返ることもなく歩いて行ってしまった。ぽつんと湖上に取り残される僕。
こういうものだとは思いつつ、なんだか寂しいものを感じた僕は、湖面に映った自分の顔を見つめた。
水面が揺れれば。顔も揺れる。透明で、水面下に何かが動いている。
じっと見つめていた僕は、無意識に、水面へと足を下ろしていた。軌跡から、足を外して。
濡れる。足が水で湿る。
僕はそのとき初めて、水の冷たさを知った。
未来を変えられるのは今の自分だけ。