第三十七話 次元の狭間に潜む獣
片方の扉が吹き飛んだ教会の入口をくぐった私達は周囲を警戒しながら奥へと進む。一見、ただの教会だ。古い形式の建築は外界との遮断を如実に表していた。まるで此処だけ数百年も前のような、そんな気持ちになる。古びた柱には補修の跡が見受けられる。無残にも吹き飛ばされた扉が刺さった壁面に残されれたステンドグラスには上半身だけ裸で腰まである黒い長髪の男が描かれている。
「あれが灰寺だよ」
「あれが……見た目は人間なんだな」
「元人間だからね。その点に関しては同情するよ」
頭上の狼耳の根元をガリガリと掻きながら同情しているとは思えない嫌そうな顔をするアサギさんを横目に、前へ進む。
《読解の神眼》を使いながら周囲を見回していると、神父が説教でもしそうな机が転がる礼拝堂の奥に隠し階段を見つけた。チラ、とアサギさんを見ると白銀色に変化した眼でジッと見ていた。あれが神狼となって得た力、《神狼の眼》か。世界を飲み込んだ狼の眼は世界を見渡す……透視に遠視。見えざるものを見る力。私の《神眼》なんてちゃちな玩具にしか思えなくなってくる。
「次元獣の巣になってんな……ダニエラ」
「あぁ、先行する。先頭は私で続いてレイヴンとベアトリス。アサギは後ろだ」
「よろしくお願いします」
「ハイデラまでの道はきっちり切り開いてやる」
頭を下げるベアトリスの黒髪をダニエラさんが優しく撫でる。その姿が実に頼もしく、少し羨ましかった。私もあんな風に言えるくらい強くなりたいな……。
教会の中は一切の音がしない。無音が耳に突き刺さる。だからこそ何か音を拾おうと耳に集中してしまった。
一瞬の油断だった。目ではなく、耳に意識を傾けた瞬間、それは音もなく私達の頭上へ現れた。
「上だ!」
ダニエラさんの鋭い声に、すぐにその場から離れる。すると突如現れたそれは地響きと共に、今しがた私達が立っていた場所へ足を突き刺し、降り立っていた。
「なん……だ、此奴……」
目の前に立つ……立っていると表現していいのかも不安なそれはギギギ……と錆付いた鎧のような軋む音を立てながら揺れる。
突き立った足は、恐らく足だ。数えようと思えばちゃんと2本ある。だが足が生えている場所から骨や関節を無視して捻じれ、絡まり合って木の根のように一塊の肉体となっている。爪先は鋭く、指は癒着しているようだ。
そんな奇妙な下半身から伸びる上半身もまた、言いようのない不安感があった。
薄いのだ。内臓はおろか、骨も筋肉も何もない、薄い紙のような真っ黒な上半身。其処だけ見れば影のようだった。
「あれが次元獣……次元の狭間に堕ちた人間の成れの果てだよ」
「人間……あれが、人間ですって……!?」
俄かには信じ難い話だが、確かに人間の特徴を残している。腕が2本。足が2本。頭と胴もある。あれはやはり人間なのだろう。だが知性は全く見受けられない。それが獣と呼ばれる所以か。
「無限に続く狭間で捻じれ、歪み、裏返り、引っ張られ、縮み……それを無限に繰り返した結果だよ」
「……」
壮絶。ただただ、その一言に尽きる。
「此奴等の相手は僕達がする。大丈夫、君達は其処で待っててくれ」
「よーし、じゃあいっちょやるか!」
「了解。……ん?」
アサギさんの指示に頷き、じゃあ次元獣とやらがどういう生き物か観察しようかなと考えているとアサギさんの声が二重に聞こえてきた。首を傾げながら振り向くと、アサギさんが2人居た。
「どういうこと……?」
「僕は分身出来るんだよ」
「なるほど」
考えるだけ無駄ということか。アサギさんは《森羅万能》というユニークスキルを持っている。脳内で考えればどんなスキルや魔法でも生み出せるという神にも匹敵する最強のスキルだ。だから分身も出来るに違いない。むしろ出来ない訳がなかった。
更に分身し、増えたアサギさん達が次元獣に向かって駆けていく。地獄みたいな光景だった。
「あんまりやると自我がちょっとね」
「怖いんですけど……」
「大丈夫大丈夫」
全く安心出来ないタイプの『大丈夫』だが、気にしても仕方ない。
次元獣はアサギさん達の攻撃によって床へと倒れ込む。捻じれた足は切り離され、薄っぺらい上半身が打ち上げられた魚のようにビタンビタンと跳ねているのが気持ち悪い。これが人間? 俄かには信じられない。
鈍色の刃が頭部にあたる部分に突き立てられ、次元獣の動きが止まった。それと同時に体が塵となって消えていった。
「こういうのが沢山居るんだ。殆どが元人間で、たまに動物も混じってる。全部転移実験の被害者なんだ」
「それってあの、アサギさんも巻き込まれたっていう?」
「うん。次元獣も悲しい存在なんだよ」
僕だってこうなる可能性はあったんだよ、と呟くアサギさん。その横顔は何とも言えない影が見えた。
その後も教会内部で度々次元獣の襲撃を受けた。異常に膨らんだ球体の者や、四足歩行で体の前後と裏表が裏返った獣。二つの体が背中合わせで繋がった者も居た。それらは全てアサギさんの手によって塵へと変えられていった。
奥へ進むにつれて次元獣の襲撃頻度は増える。空間を裂いて現れる奴等相手の戦闘は非常に難しい。目に見える範囲からの攻撃は単純だから対処はしやすい。目に見えない範囲も、来ると身構えていれば対処は出来る。だが一番厳しいのは戦闘中の一瞬の隙を突いた攻撃だった。まさか着地した床が巨大な口になっているとは……あれには肝を冷やした。
だがそんな襲撃がぴたりと止んだ。
「……どういう事?」
「全部殺した、とか?」
「いや、ノヴァの実験は遥か昔から行われていたから、こんな短期で殲滅は出来ない」
周囲には敵の姿はなく、一切の音がしない。絵画と柱が並ぶだけの通路だ。
「なら一体……」
「私が引かせたのよ」
「ッ!?」
何の前触れもなく、この場に居ない人間の声が耳元で囁かれた。瞬間、私は刀を引き抜き、そのまま背後へ振り抜いた。発動させたスキル《居合三閃》は3度の甲高い金属音と共に防がれた。
「チッ……」
「容赦ないじゃない?」
「相手が勇者なら、気は抜けないからな」
肩越しに振り返ると、其処には魔神側の勇者、アストレイア=ウォルター=セブンリーグブーツが不敵な笑みを浮かべて大鎌を構えていた。




