002 シュウムルの街
朦朧とする意識の中、誰かの声が聞こえる。
――おい、店の前に人が
――女の子じゃないか、あんた、ねえ、大丈夫かい?
――あぁ、いけない。毛布と水をもってきてくれ!
――この服ずいぶん変わっているが、どこのモノだろう
あの夜から10日ほど経過した。
桃子はシュウムルの街の宿屋で窓を磨いていた。
都内で就活に勤しんでいた大学院生生活はもはや遠い昔の事の様だ。
いや、むしろあの頃が夢だったのかもしれないと感じる時もある。
それほどに、記憶の中と今の暮らしは異なっていた。
「モモコ、休憩にしましょう」
「女将さん」
軒先で倒れていた桃子を介抱してくれた宿屋の主人とその女将。
2人の店を手伝う代わりに、今は空き部屋を借りて暮らしている。
「すいません、ご飯までいただいて」
「まだそんなこと言ってるのか」
目じりをこれでもかと下げて微笑むハブースがこの宿の主人だ。
ずっと昔に娘が嫁いでいった彼らにとって、桃子は孫の様なものだと言う。
文字も通貨も暦もわからない彼女を2人は疑うこともせずに受け入れた。
「いいのよお、そんなのは。調度この人が腰を痛めてたから本当に助かってるのよ。
あ、そうそう、モモコの服綺麗になったわよ。不思議な形ね、とっても綺麗な黒色だわ」
ハブースの妻プレアから手渡されたのはリクルートスーツ一式。
これだけがかろうじて“桃子がこの世界の住人ではない”ことを示していた。
聞いたことのない国、見たことのない道具や動物達、そして魔法の存在。
2人に聞かされる“この世界”は、桃子の記憶にある“世界”とずいぶん異なる。
「ありがとうございます」
「ゆっくり休んで、その内落ち着いてから桃子の故郷への帰り方を考えましょうね」
自分がおかしくなって全ての記憶を失ったのでは、あの世界など存在しないのでは、そう考えもした。
しかし唯一残っていたこのスーツ――他の持ち物はすべて失くしたらしい――が彼女の正気を支えている。
“異世界から来たのだと思う”そんなことはとても言えず、桃子は一時的な記憶障害として扱われていた。
「さあ、食べ終わったら夜の仕込みをしましょうね」
朝起きて、客室の掃除をし、食事をしたら夕方以降の客入りを手伝う、それがここ最近の桃子の日課だ。
宿屋は繁忙期の終わりごろの時期らしく毎日それなりに忙しくしている。
しかし夜になればあまりに静かな街の様子に、布団の中では頭が冴え冴えとして仕方がない。
このままここで生活していくのだろうか、桃子は壁にかかったスーツを眺めた。
その横にはぼんやりと光を放つ石が部屋を照らしている。
魔力の込められた発光石、電球でも蝋燭でもない不思議な照明だ。
「やっほー、元気してるかい」
それはあの夜以来に聞く声だった。
きっちり施錠したはずの窓枠に腰掛ける男は、あの夜と同じくにこやかに笑っていた――その手に桃子の黒い就活用鞄を持って。
「こないだの! いや、え、ここ3階なんですけど」
「うんうん、思ったより元気で何より」
聞いているのかいないのか、スタスタとベッドまでやってきた男は鞄を軽く持ち上げてみせた。
人間とは驚きすぎると叫びも動きも出来ないものなのかもしれない。
「これ、あんたをここまで運んだ報酬代わりに頂いてたんだけど」
「は!?」
「あんた、ずいぶん遠くから来たんだなあ」
初めてはっきりと見る男の顔は、記憶にあるよりもずっと鋭く見えた。
「遠くって……どういうことですか?もしかして私がどこから来たか知ってるの!?」
「はいはいお静かに」
ハッとして桃子は戸の外を窺った。
主人たちの寝室からも客室からも離れたこの部屋には殆ど人が近寄らない。
何もわからないこの状況だが、自分がおかしいと悟られてはいけないことだけはわかる。
窓を閉めなおして息を吐くとベッドで寛ぐ男に向き直る。
目を細めてこちらを伺う彼は、街の人たちとはまた少し違った見慣れない恰好をしていた。
「いやあ、珍しいものだと思って持ち帰ったら、おかしなもんが山ほど出てきて驚いた」
「それ泥棒です」
「命に比べたら安い支払いだろぉ。まあでもこんなのどこにも売れやしないから返しに来たってわけだ」
「あ、ありがとうございます?」
ぽいと投げられた鞄の中身に、桃子は目が潤むのを感じて唇を引き締めた。
ここではないどこかから来たのだと帰る場所があるのだと示してくれる物たちだ。
ああ、どうしよう。
「色んな国を回ってきたがそんなもの見たことも聞いたこともない。
さっきの質問に答えると、あんたがどこから来たかなんてわからねえな。
だがそういやあ極稀に珍妙な格好の人間が保護されるって噂は聞いたことがある」
「そ、それって私と同じような格好なんですか?」
「さあてどうかな。あくまで噂だ」
よし、と男が立ち上がると長い三つ編みが揺れた。
「じゃ確かに返したからな」
「は」
「まあ何事も体が資本、よく寝ることだ異邦人」
「待って、まだ聞きたいことが」
止める間もなく窓から外へと飛び出した男の名前すら聞いていないことに気付く。
桃子はぼんやりと外を眺めて男の先ほどの言葉を反芻した。
わけもわからずにいた日々に、ほんのりと希望が灯る。
「調べよう、それで除籍になる前に帰ろう」
小さな声で呟かれた決意は、屋根の上の男だけが聞いていた。
翌日、昼食の準備をする桃子のもとへプレアが一人の客を案内してきた。
艶のある三つ編みが愉快そうに揺れているのは、果たして気のせいだろうか。
「今日からしばらく泊ってくださるお客さんだ。ユィーリオさん、うちのモモコだよ。
最近入ったばかりだけど、一生懸命な子だから良くしてやってくださいな」
「どうぞよろしく、モモコ」
そこには昨夜窓から消えたはずの男が、白々しい顔をして立っていた。