第二話 遭遇
再び意識を戻した時、俺は横断歩道の先に居た。
ギリギリ渡り終えていたらしい。車に轢かれることもなく、俺は僅かに息を切らしながら立ち尽くしていた。
「……あ、」
慌てて腕時計を見る。午前八時。秒針が進み、もうすぐ一分を差そうとしていた。確かに、時はさほど進んでいない。
「あれは、一体……?」
夢、だとは思えない。自分は確かに青之宮涼架と名乗る少女に出会い、話をした。
反転した世界のこと、一番目と八番目の鍵が消えたこと、【流転人】という敵が居ること。
それらが全て夢だったと、俺の妄想だったなど到底思える訳はない。
だが、それを示すものは何一つとしてなかった。
見上げた空は朝の模様を映し、時も全く進んでいない。加えて、周囲の人間も特段俺を気にする素振りもない。
何もなかった。何も起こっていなかった。その結論以外、見出せるものは何もない。
「青之宮……」
名前を呟いてみるが、応じる声はない。全ては俺の夢見だったのだろうか。考えても、答えは出なかった。
信号が再び青に変わり、人が歩いてくる。俺は横断歩道から離れようとして、はたと気付いた。
「――学校! 学校行かなきゃ!!」
顔を青ざめさせるのと同時、俺は疾駆を始めた。
あれこれ考えている場合ではない。とりあえず、学校に向かわなければ。
入学して早々に遅刻など、あってはならないことだ。その上、俺のクラスの学級委員長は時間厳守に非常に煩い。例え、一分でも遅れる訳にはいかない。
俺は両脚が出せる最大の速度で、高校を目指した。頭の片隅でほんの僅か、涼架のことを思いながら。
◇◆◇
結局、俺は間に合わなかった。
教室に入ったのは八時三〇分一三秒。加えて、席に着くまで一〇秒。
学級委員長曰く、都合二三秒の遅刻。
それによって俺は、一時間目終わりの休み時間をまるまる説教に使われた。
たかが二三秒程度で。そう思わず言ってしまってから、説教は二時間目終わりの休み時間にも開かれた。合わせて三〇分、俺は小言を言われ続けたのだ。
「……はぁ。今日は余計に疲れたな」
漸く全ての授業が終わり、俺は帰り支度をしていた。本当なら放課後は部活動見学に当てたい所だが、今日は流石に休みたい。
ぼんやりする頭を振り、鞄を持って教室を出た。一階まで降り、靴箱で外靴に履き替える。昇降口を潜ろうとした所で、声を掛けられた。
その声に、俺は一瞬振り返るのを躊躇う。今一番、聞きたくない声だったからだ。
「今日はもう帰るの、径くん?」
「……ああ、まあ」
ぎこちない笑顔を張り付け、俺は振り返った。目前には思った通りの人物が居た。
背中半ばまで伸びる焦げ茶色の髪、勝気そうな瞳に、されど窺える純真さ。例えるなら、小動物のような可愛さか。一六〇センチに少し満たない身長を少し伸ばし、俺を見上げている。
凍鞍海咲。俺のクラスの学級委員長にして、幼馴染の少女だ。思えば、彼女の名字も珍しい。
「どうしたの? ……あ、もしかして、まだ朝のこと気にしてる?」
痛い所を突いてくる。相変わらず、海咲の目は鋭い。その上、思ったことをストレートに言う。良くも悪くも、彼女は変わっていない。
「いや、別に。朝のは俺が悪かったんだし。次からは気を付けるよ。じゃあ、また明日」
会話を早々に切り上げ、昇降口を出る。今は一刻も早く、一人静かな所で考え事をしたい。涼架のこと、あの世界のこと。もう一度深く考えてから、結論を出したかった。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
「何?」
俺はやや苛立ち気味にそう言った。思わず睨み付けてしまったらしい。海咲が驚いたように息を詰まらせる。
「あ……、ごめん」
「いや……私こそ、ごめん。今日は何か用事あるの?」
「まあ、ね。だから、先帰るわ」
「わ、私も今日は帰るの。だから、一緒に帰らない?」
「いいけど、俺は歩きだぞ? 自転車はどうするんだ?」
「大丈夫。引いて行くから」
俺と海咲は連れ立って学校を出た。見上げた空は橙色に染まり始めており、あの世界を想起させる。
「径くん?」
立ち止まる俺を、海咲は不思議そうに見つめる。俺は軽く手を振り、先を促した。
「何でもない。行こうか」
幼馴染だけあって、俺と海咲の家は目と鼻の先にある。
だが、こうして一緒に帰るのはいつぶりだろうか。中学の最初の方はよく帰っていた気がする。
ふと隣で歩く海咲を見やると、急にあの頃に戻ったような、そんな感覚に囚われた。
暫くあれこれ話す内、俺たちは信号で足を止めた。
目の前には朝の横断歩道。海咲との会話に花を咲かせていた俺も、僅かに緊張で身を固くする。
信号が青に変わり、歩き始める。一歩、また一歩と歩いていく。
もうすぐ渡り切る、そう思った時、俺の身体は勢いよく回転した。同じく視界も目紛るしく回転する。
この感覚、間違いない。あの世界への転移だ。そう確信するのと同時、俺は意識を手放した。
◇◆◇
「うーん……」
一度目の転移と同じく、俺は空を仰ぐように寝転がっていた。
だが、今回は夕暮れの橙色ではない。日中の空を思わせる青空が広がっていた。
左手に嵌めた腕時計を見る。針は午後四時一〇分を差していた。
この世界に『時間』は存在しないらしいが、『変化』はあるようだ。
「そうだ、青之宮……」
やはりあれは夢などではなかった。現実だったのだ。この世界をもっと知る必要がある。俺は涼架の名を幾度も叫んだ。
「……、径くん?」
掠れたようなその声。振り向かずとも分かる、その聞き慣れた声音。
「何で……。何で、海咲がここに居るんだよ!?」
俺が視線を巡らせた先、地面に寝転ぶ海咲の姿があった。
何が何だか分からない。そんな面持ちで海咲は俺を見つめた。
「どうしたの、径くん? っていうか、ここどこ?」
「いや、その……」
返答に困る質問だった。
突然、『ここは反転した世界なんだ』。そう言って信じてもらえるだろうか。
どう事情を説明しようか迷っていると、ごく近距離で物音がした。
音の方へ目を向ける。
そこにあったのは横幅のある岩塊だった。おそらく、音の発信源はそこからだろう。
そこまで考えて、俺は漸く異変に気付いた。
――物がある。
前回この世界に来た時、あるのは空と地面だけだった。
けれど、今目前にあるのは幾つかの岩塊と俺たちを囲むように立つ背の低い木々。
ここは本当にあの世界なのか。今更のような疑問に、応じる声などあるはずもない。
岩塊から、静かに音の正体が現れた。海咲が短い悲鳴を上げ、俺に縋りつく。
その姿を見て、俺は本能的に悟った。
「【流転人】……」
背丈は成人男性の平均より少し高い程度。体格は中肉中背、やや筋肉質か。その身には何も纏っておらず、代わりに淡い光で包まれ、輪郭がひどくぼんやりしている。
姿形は人間によく似ていると言えた。けれど、特徴的であり唯一人間とは異なる点。
それは、頭。人間ならあるべき場所に、頭がないのだ。
但し、首がない訳ではない。首はある。ただ首しかない。
まるで頭部を切断されたが如く、首から上に何もない。
その身体だけは人間に近しい、異形の生命体を前に、俺も海咲も何一つ反応出来なかった。
【流転人】はゆっくりと、だが確実に迫って来ている。
逃げなければならない。されど、抱く警戒に反し俺の身体はぴくりとも動かない。
見れば、海咲も同じように身を震わせては、強張って動けずにいた。
このままでは二人ともやられる。俺は強引に身体を動かし、何とか海咲に覆い被さった。
【流転人】が、その右腕を大きく振り上げる。
「――、グオォオオオッ」
一筋の閃光。
それが正確に【流転人】の胸元を貫いた。
続く、銃声。
【流転人】の身体に次々と風穴が開いていく。
突然の攻撃に【流転人】の動きが止まる。その隙を突くように、別の岩塊から一つの影が踊り出た。
その人影は両手に一丁ずつ拳銃らしき物を握っていた。
【流転人】がターゲットを俺たちから外し、新たな脅威に定める。
一瞬の膠着状態。それはすぐに破られた。
人影は二丁の拳銃を同時に発砲しながらも前進し、【流転人】との距離を詰める。
穿たれた無数の穴に後退しつつも、【流転人】は怯まず人影に向かい右腕を振るう。その右腕が瞬時に膨張し、巨腕となって振り下ろされる。
だが人影は銃撃の手を止めることなく、身体の捻りだけでそれを避けた。
渾身の一撃をかわされ、【流転人】が大きく重心を傾かせる。
その瞬間を逃さず、人影は巨腕に飛び乗ると、跳躍し二つの銃口をない首に向けた。
銃身が鮮烈な白に発光する。次の瞬間、轟音と共に白熱の銃弾が炸裂し、【流転人】の身体を内側から弾け飛ばした。
言い様のないひどく不快で耳触りな断末魔を上げ、一時の硬直の後、【流転人】の姿は塵と消えた。
「終わった、のか……?」
ゆっくりと、海咲の上から体を起こす。
硝煙の合間を縫って、人影がこちらに歩いてくる。
俺は僅かに身構えた。海咲を守るように、体を前に置く。
「二人とも、無事か?」
人影は若い男だった。
黒の短髪に青みが掛かった瞳。歳は二〇代半ばに思えるが、反してやや幼い顔付きをしている。
俺たちが警戒しているのを見て、感情の読めない顔に僅かに表情を乗せた。
「はい。何とか……」
茫然自失とする海咲に代わり、俺は辛うじて声を発した。
正直に言えば、起こったことをまだ理解出来ていない。だが少なくとも、目前の人影は敵ではないようだ。話は出来るし、頭もある。
俺たちの無事を確認し、人影の表情が安堵に変わった。拳銃を仕舞い、更に一歩俺たちに近付く。
「俺は上遠野玲。この一帯を仕切る【上遠野旧区】のリーダーだ」
「……もしかして、この世界の【戦線区画】ですか?」
俺の問いに、上遠野と名乗った人物は深く頷いた。
「二人さえよければ俺たちの【戦線区画】で保護するが、どうだ?」
「……いいんですか?」
「もちろん。二人さえよければ、だが」
願ってもない申し出だった。
この世界で【流転人】と戦うには装備がいる。もしかすると装備が貰えるかもしれない。
海咲が不安げな顔で俺を見る。安心させるように、微かに震えるその手を握った。
一度息を整え、上遠野を真っ直ぐに見据える。
「是非、お願いします」
「決まりだな。じゃあ、俺に付いて来てくれ」
上遠野は身を翻し、さっさと歩き始めた。
まだ震えの残る海咲を支えつつ、立ち上がる。
重なるように並ぶ低木の先、朧げに漏れる光に向かって、俺たちはその背を追い掛け始めた。




