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グラディウスの反転した世界  作者: 藤真 荒野
第一部
2/12

第一話 反転の世界

「やばい! 遅刻する!」


 午前七時五五分。始業開始の三五分前。俺は通学路を爆走していた。通勤で溢れる人の波を掻き分け、何とか速度を落とさないよう疾駆を続ける。

 この時間、本来なら慌てる必要などない。家から通う高校まで、自転車を使えば三〇分と掛からず着く。だが、今日だけは事情が違った。


「パンクしてたの、すっかり忘れてた!」


 昨日、道路に落ちていた釘を踏んでパンクしたのを失念していたのだ。

 気付いたのは、いつも通りに自転車に跨っては勢いよく車道に降りて行き、臀部を強かに打ち付けた後だった。

 

「おっと! 危ない、危ない」


 信号が赤に変わった。俺は無理矢理速度を緩め、足を止める。

 左手に嵌めた腕時計を見ると、きっかり八時を差していた。この調子なら、ギリギリで滑り込めるかもしれない。

 信号が青に変わるまで、軽くジャンプし体を整える。

 

「よし!」


 信号が青を示し、俺は一気に飛び出した。両脚に最大の力を込め、横断歩道を疾走する。もう少しで渡り切るその時、俺の視界は唐突に回転した。


「おおっ! な、何だこれ……っ」


 視界だけではない。まるで足を掬われたように体ごと回転していた。回る視界に、空と地面がごちゃまぜになる。

 俺は咄嗟に両手で頭を押さえ、思わず目を瞑った。瞬間、頭部に固い感触を覚える。


「うぐっ!」


 衝撃で重い息が肺から漏れた。視点の回転が収まるのを待ち、そのまま何度か呼吸を繰り返す。落ち着いてきた所で漸く目を開けた。


「……え?」


 思わず頓狂な声を出す。茫然と、広がる景色を見つめた。

 目前には、夕刻を思わせる橙色の空。それを見上げる形で俺は寝転がっていた。


「どうなってるんだ、これは……」 

 

 呟きながら、立ち上がる。

 視線を左右上下に巡らせるが、視界に収まるのは空と地面だけ。握っていた鞄も、並んで信号を待っていた人も、そもそも渡ろうとした横断歩道さえも、ない。

 まるで、俺だけがどこかに飛ばされたかのような感覚。得体の知れない恐怖感が迫り上がってくる。

 俺はもう一度、天地以外の何かを求めて目線を彷徨わせた。


「あれは……?」


 向けた視線の先、一人の少女が立っていた。


 ◇◆◇


「――【グラディウス】?」

 

 涼架の言葉を、俺は口に出して反芻した。聞き慣れない単語だ。頭を巡らして考えてみたが、思い付くものはない。


「この世界は【グラディウス】が反転して起こった世界なの」

「……【グラディウス】って何なんだ?」

「この世界……径司が居た世界には霊鍵(れいけん)って呼ばれる八つの鍵があるの。【第二の鍵(フルンティング)】、【第三の鍵(アロンダイト)】、【第四の鍵(バルムンク)】、【第五の鍵(クラウソラス)】、【第六の鍵(レーヴァテイン)】、【第七の鍵(アスカロン)】、【終焉の鍵(カレトヴルフ)】。【原初の鍵(グラディウス)】はその一番目。…………何、その顔は?」

「いや……そもそも霊鍵って何なんだ?」


 突然、俺が居た世界に八つの霊鍵がありますと言われて、素直に頷ける訳はない。まずはその『霊鍵』から説明が欲しい。


「自分もよく知らない」

「……は?」

「だから、よく知らない」


 そんな開き直ったように言われても。喉元まで出掛かったその言葉を、俺は何とか飲み下した。代わりに、別の言葉を口にする。

 

「その……霊鍵云々の話は誰から聞いたんだ?」

「聞いたっていうより、そういう伝承があるの。元の世界に。自分はよく知らないけど、リーダーがそう言ってた」

「リーダー?」


 俺の問いに涼架は答えなかった。じっと見つめてみるが、答える気はないらしい。

 霊鍵の伝承。そんな話は聞いたこともない。元より伝承には詳しくないので、もしかすればあるのかもしれないが。


「その伝承によれば、八つの霊鍵によって元の世界は均衡を保ってた。けど、何らかの原因で原初の鍵である【グラディウス】が反転したことで均衡は崩れた。そして、この世界が出来た」

「……出来たってことは、この世界は異次元空間か何かに存在してるのか?」

「異次元空間って言うよりは、元の世界の延長線上にあるって言った方が近いかも。似て非なる世界」


 俄かには信じられない話だ。百歩譲って伝承の話は実在するとしても、ここが元居た世界とは違うなんてこと、簡単には信じられない。

 一方で、一笑に付すことも出来なかった。

 俺は確かに朝の通学路を爆走し、学校へ向かっていた。腕時計もしっかりと、午前八時を差している。


「……え?」


 俺はもう一度、腕時計を見た。間違いない。針はきっかりを八時を差している。

 ありえない。この世界に来てから、どんなに少なくとも一分は確実に経過している。

 それが、何故。俺の疑問に答えるように、涼架の声が響いた。


「この世界に『時間』は存在しない。あるのは『空間』だけ。ここで幾ら過ごしても、元の世界では少しも進んでない」

「……それも、伝承に書かれてたのか?」


 俺の言葉に、涼架はゆっくりと頷いた。


「どうかな、少しはこの世界のこと分かってくれた?」

「……大体は」


 ならよかった。そう言って、涼架は僅かに微笑んだ。

 こんな異常事態に巻き込まれているというのに、彼女には余裕すら窺える。

 もしかして、分からないと言いつつ本当は知っているのではないか。

 俺の訝しげな視線に、彼女はやや口早に話し始めた。


「元の世界に戻るには【グラディウス】を見つけてもう一度反転させればいいの。反転させるには、【グラディウス】の対であり制御の役目を持つ【カレトヴルフ】が必要。でも今はその【カレトヴルフ】もなくなってる。二つが同時に無くなるなんてこと、普通は起こらない」


 そこで一度、涼架は言葉を止めた。俺に対し、意味ありげな流し目をする。

 一番目(グラディウス)八番目(カレトヴルフ)。その同時消失による反転した世界の発出。起こり得ないことが起こったということは。


「つまり――」

「誰かが意図的に反転を起こした」

 

 俺の言葉に重ねるように、涼架は静かにそう言った。暫し、互いに見つめ合う。

 口中で彼女の言葉を反芻してみる。

 この現象を意図的に起こした『誰か』。話の流れからしてそれは、一つしか思い浮かばなかった。


「『敵』の仕業、なのか?」


 先ほど、涼架の口から出た『敵』という言葉。言葉の意味も含め、一番怪しい存在だ。


「そう。敵の仕業」

「……は?」


 俺は思わず素っ頓狂な声を出した。そんな俺の様子を、涼架は不思議そうに見やる。少しして、漸くその理由に思い当たったらしい。


「……ああ、ごめん。この世界で敵って呼ぶ存在は二つ居るの。言ってなかったね」

「いや、まあ……」


 色々説明してくれるのはありがたいが、彼女の言葉は全体的に不足していた。加えて、それを彼女自身が自覚していないのが厄介な所だ。


「一つは径司や自分みたいに現実世界から来た人間。もう一つはこの世界が生み出した怪物。多分、鍵を消したのは怪物の方」

「怪物……」

「自分たちは奴らを【流転人(るてんびと)】って呼んでる。姿形は人間と同じだけど身体能力が桁違い。生身で戦ったら、すぐに殺される」

「……っ!」


 喉が引き攣るのを感じた。息が詰まり、上手く継ぐことが出来ない。

 

「大丈夫。奴らと生身で戦うことはしない。装備はちゃんとあるから」


 涼架は安心させるようにそう言った。少しだけ、口調が柔らかいものになっている。彼女なりに気遣ってくれているのだろうか。


「装備なんて、この世界にあるのか?」

 

 当然の疑問だった。こんな、空と地面しかない世界に『物』が存在し得るのか。


「今居る空間は自分が作ってるの。径司と二人で話がしたいから」

「空間を作る……? そんなこと、出来るのか?」

「出来る。【流転人】を倒せば手に入る【ライトオブジェクト】って物質を使えばいい。装備も、同じように作れる。技術さえあれば、何でも出来る」  

「……その【流転人】って怪物を倒さなきゃ【ライトオブジェクト】は手に入らないのか?」

「【ライトオブジェクト】はこの世界特有の物質。自分たちでは作れないし扱えない。だけど、この世界独特の【流転人】の体内で練られたものなら、加工出来る」


 物がある。そのことに、純粋な安堵を覚える。だが、同時にある疑問も浮かんだ。


「装備はどこで手に入れられるんだ?」

「この世界には独自の【戦線区画(コミュニティー)】が存在するの。そのどれかに入れば、適当な装備が貰えるし、【戦線区画(コミュニティー)】によっては守ってくれる所もある」

「……随分、しっかりしてるんだな」


 俺が想像していた以上に、反転した世界は広がりを持っているらしい。

 ここに居る人間は少数だと勝手に思っていたが、話を聞く限りではそれほど少なくはなさそうだ。

 

「まだ不安?」

「まあ、そりゃあ……。青之宮は平気なのか? この世界に居て」

「平気。慣れてるから」


 涼架の表情は元に戻っていた。先ほどまでの和らげな雰囲気はどこにもない。どことなく居た堪れない空気に、俺は言葉を続けた。


「この世界にはどれくらい居るんだ?」

「ここが出来た時からずっと」

「それって、いつくらいの話なんだ?」

「一〇年前」

「なっ……、一〇年!? 一〇年もここに居るのか!?」


 その答えは俺の予想を遥かに超えていた。否定を求めて涼架を見やる。

 だが、その顔からは否定も肯定も読み取れなかった。

 俺は何とか継ぐ言葉を考えるが、何一つ浮かぶものがない。喘ぐように、ただ呼吸を繰り返すばかりだった。

   

「……残念。時間切れみたい」


 やがて、何の感情も見えない顔で涼架は呟いた。

 途端、俺の身体が淡い空色の光に包まれる。

 ――現実世界への帰還。俺は本能的にそれを察した。

 

「青之宮!」

 

 呼び掛けるが、既に涼架は俺を見ていなかった。その後ろ姿がゆっくりと遠ざかっていく。


「青之――」

 

 言葉は最後まで続かなかった。自分の叫びだけが虚しく周囲に響き渡る。

 靄が掛かる視野の中、涼架の姿が空の橙色に溶けていく。その景色を最後に、俺の意識はぷっつりと途絶えた。



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