プロローグ
目前に佇む、夕暮れ迫る橙色の空。その空にたゆたう雲は一つとしてなく、ただ漠然と広がるばかり。
俺は無意識に、左手に嵌めた腕時計に目を向けた。午前八時。時計は確かに、その時を刻んでいる。
それにも関わらず、頭上の空は日暮れに染まっていた。
明らかに何かがおかしい。俺はその何かを求めるように、視線を彷徨わせた。
右、左、上、下。
だがそこには何もない。何もあってくれない。あるのは空と地面だけ。
まるで天地と俺だけが異次元に飛ばされたが如く、空間に物と呼べるものは何一つ無かった。
――何もない。
その事実が、徐々に輪郭を伴っては焦りを生み始める。
もう一度視線を漂わせた先、少女が立っていた。
「あれは……?」
肩先で揃えられた艶やかな夜色の髪を風に靡かせながら、一人漫然と空を見上げている。
探していたはずの人影。
けれど、その背は人を寄せ付けない雰囲気を纏っており、一瞬声を掛けるのが躊躇われた。
だが他に頼れそうな人は居ない。俺は話し掛けることにした。
「あの……」
囁きにも近いその声は、少女には届かなかったらしい。息を整え、もう一度呼び掛けてみる。
「あの……っ」
少女が振り向いた。不思議そうに俺を見ている。
「ここがどこか、知ってる……?」
「……知らない」
少女は素っ気無くそう言った。俺を見据える瞳は淡白で、整った顔立ちと相俟って、何を考えているのかよく分からない。ただ同時に、無表情とは違うものも感じた。
「そっか……」
肩の力を抜き、やや脱力した。暫く、無言で見つめ合う。再び口を開いたのは、少女の方だった。
「あなた、名前は?」
「俺は、成瀬径司。……君は?」
「青之宮涼架」
青之宮。珍しい名字だと思った。
「君はここで何をしてるんだ?」
「戦ってる」
「……何と?」
俺は敢えて会話に乗った。心中では戦うという言葉に疑問を抱いていたが、正直に言ってしまうとこの少女は黙ってしまう気がする。今は何より、情報が欲しい。頼みの綱は彼女しか居ないのだ。
「敵」
何とも大雑把な返しだった。誰も味方と戦う者など居ない。
俺をからかっているのか。
だが涼架の顔を窺っても、嘘の気は感じられなかった。
「どんな奴?」
「径司みたいな形をしてる」
「え……?」
俺は思わず声を上げた。自分の名前が出たことに、一瞬怯む。
「大丈夫。私にも似てるから」
そんな俺の様子を見てか、涼架は言葉を足した。
「それって……人間ってこと?」
「そう」
涼架は事も無げに言った。人間相手に戦っている。そのことをさも当然のように肯定した。
「……何で?」
「そうしないと戻れないから」
――戻れない。
その言葉が胸に重くのしかかってくる。
気付けば、俺は震えていた。手足の先が痺れ、感覚が鈍くなっていく。
不意に涼架がこちらを見据えた。真摯な眼差し。無に沈んでいた瞳が仄かな色を灯す。
「あなたは、径司は……戦ってくれる?」
「……、」
俺は答えることが出来なかった。
自分もこの世界に居る以上、戦う必要があるのかもしれない。けれど、そう簡単に人間と戦うことには頷けなかった。
落胆したように、涼架の目に浮かぶ色が僅かに薄まった。
「私と、この世界で戦って欲しい」
なおも涼架は言葉を続けた。今度は問いではなくお願い。その真剣な目付きに、俺の口は自然と開いていた。
「戦わないと、戻れないのか?」
「径司は戻れる。けど、またここに戻ってくる。その繰り返し」
「……そうか」
どうやら、俺には選択肢なんてないらしい。戦わなければ繰り返される。ただそれだけ。
「戦う気になってくれた……かな?」
「その前に一つ、いいか?」
「何?」
「やっぱり、知ってるんじゃないのか? この世界のこと」
ここまで色々語っているのだ。何も知らない訳はない。俺はほんの少しだけ語気を強めて言った。
「ここは……反転した世界」
やがて、涼架は静かに呟いた。その意味を計りかね、俺は無言を返す。少しの間を置いて、涼架は再び口を開いた。
「――【グラディウス】の反転した世界」




