天使
あんなものまともに喰らえば、人間であるクリスたちは一溜りもない。
クリスの目に光が突き刺さり、腕で顔を覆った。硬く目を閉じると、上に何かが覆い被さるのを感じた。
耳の奥でまだ音が響いている。他には何も聞こえない。
けれど生きている。痛みさえ感じなかった。ただ、上から何かが降ってくる感触を受けた。
クリスは恐る恐る目を開けた。すぐ近くにトランの顔があった。
更に上から、何かが覆っている。顔を上げる。
「…学校長様……?」
その手はしっかりと、二人を包んでいた。学校長は二人の無事を見て、少しだけ表情を緩めた。
「ラフィは…」
トランが呟いた。クリスも気付く。
彼が傍にいない。さっきまで、すぐそこにいたのに。
学校長が二人の肩を叩く。
「大丈夫だ。あの方は……」
学校長は振り返った。屋根の一部が崩れ、外の光が直接入り込んでいた。
陽の光に溶け込みそうな白い髪。そしてその背には……
「白い、悪魔……」
翼が広げられた。羽が辺りに舞い散る。風の余波を受けた黒いコートがなびいた。
しかし、それは彼らの見慣れた彼ではなかった。どう見ても、十代半ばの少年ではない。後半…二十代前半くらいだろうか。
「ラフィ…?」
クリスが呼びかける。
彼が僅かに振り返った。赤い瞳は変わらない。けれど、何処かぽやっとして、人の良さそうな表情はない。
彼は何も言わず、再び前を見た。あの天使に……
「だから下端は嫌いだ。何の罪もない人間まで、平気で巻き込む」
「仕方ない。お前たちが関わった人間は穢れている」
天使は横柄な口調で答える。明らかな侮蔑の視線だ。その手に再びあの光が宿る。今度は僅かに緑がかった光だ。
「狭量な事だ……」
彼が呟いた。指先が仄かに光った。微かな光が紅い色味を帯び、炎のように見せている。
天使が顔を顰める。
「何故貴様が!悪魔が、我ら天の技を使うッ?」
「さぁな」
素っ気無く答えると、天使が憤怒の形相になった。光が緑の色を濃くする。
風が流れる。
風ではない。エーテル…力の気流だ。
「この…っ、なりそこないが!」
緑の光が弾き出される。先ほどとは違う、一点に集約された力だ。
「失礼な」
光が大きくなる。紅い炎の中に金の煌きが混ざっているように見える。
【熾天使の紅】…以前ラファエルが悪魔に使った技だ。ただ、前に見たときとは質量が違う。人間が使う技の比ではない。
緑の光が炎の壁にぶつかり、爆音を立てた。しかし、そのまま炎に飲み込まれてしまう。炎は光を飲み込み、更に威力を増す。
まるで遠い国に伝わる、伝説の不死鳥のように。
天使が苦々しい表情を浮かべている。
ふと、彼が息を吐いた。
「…条約破棄だな」
天使の顔が引き攣った。奥歯を噛み締める。
「条約?」
トランが口に出していた。
彼が振り返る。
「まだ、人間の中にも、記憶に残す者はあるだろう。そこにいる学校長のように」
学校長は蒼褪めていた。きつく両手を握り、悪魔に祈る。
「も、申し訳なく……」
「責めるつもりはない。たとえ下っ端でも、天使に命令されれば、お前たちは聞くしかない事くらい知っている」
彼の声は淡々としていた。どこか諦めに似た雰囲気もある。
「だから、条約ってなんだよ?」
トランが再び訊ねた。最初の緊張が解け、彼らしさが戻っている。
彼がクスリと笑った。
「領土不可侵の条約さ。悪魔は天界に入らない。天使は魔界に入らない。天界に入ったものを、我らが奪い取る事がないように、我らの領域にあるものを天界は奪わない…そういう約束だ」
「何でそんな約束……」
天使と悪魔は争うものだ。古くは多くの戦を経験しているはずだ。
そんな条約を結んでしまえば、いろいろやり辛くなる。
彼はその疑問に、首を振った。
「大戦など、今更起こせるわけがない」
「何で?」
「人間界が出来たから」
古くは天界しかなかった。離反者が出て、魔界が出来た。そしてその後に増えた人間が、自分たちの世界を作った。
「大戦があったのは、人間の数がまだ圧倒的に少なかった頃だ。今、再現しようとすれば、この世界が焦土と化す」
彼が天使を見た。
「我々はそれでも構わんが…お前たちは困るだろう?」
天使は怒りで顔を歪めている。これではもう、どちらが悪なのか判らない。ただでさえ、目の前にいるものが非常に曖昧なものであるのに。
トランが頬を掻く。
「で?アンタは奪われた女を取り返す為に、わざわざこんな所まで?」
「他にもいろいろ理由はあるけれど…差し当たってはそういう事になるかな?」
「酔狂な事で」
トランは素っ気無く言った。彼が笑う。
「冷たいな。友達だったのに」
「騙しておいて、よく言うよ」
「嘘は吐いてないよ。殆どね」
彼は寂しそうな顔をした。彼らのクラスメイトだった少年の表情と重なる。
「トトリアスに住んでいたのも、ローデンやダヌーに技を教わったのも…全部本当」
「は?」
トランが顔を顰めた。
「確かに、君たちよりは年上だけれど…私は本来……」
言葉が途中で途切れた。背後に膨大な力の気配を感じる。
炎の壁が破られていた。その向こうに、やはり緑の光。
トランが毒吐く。
「バカの一つ覚えかよ…っ!」
「階級制度の限界だ。天使はそれ以下の階級の技も使えるが、それ以上の技は使えない」
緑は力天使の階級色だ。力に色が混ざるのは、その為だという。
彼の表情に僅かな変化が出た。
「さすがに…これ以上受け止めるのは危険だな……」
コートのポケットに手を突っ込む。古びた紙片を取り出す。
クリスは僅かだが、それに描かれた文様を見ることができた。顔から血の気が引く。
魔王の召喚陣。
「ラフィ…それ……ッ」
光が放たれ、クリスは最後まで言えなかった。熱波が迫り、その場に蹲る。
奇妙な感覚に襲われる。
前から来ていた風が、突然後ろへと移動したのだ。同時に、後ろから派手な音が響く。
「うん?」
目を向けると、入り口が木っ端微塵に吹き飛んでいた。パラパラと木屑が落ちている。
前に目を戻すと、彼の手から黒焦げの紙片が落ちる所だった。
「ラフィ…それ、魔王の召喚陣じゃないの……?」
クリスが呆気にとられたように言った。
彼は手を払いながら答える。
「普通に使えばね」
「…普通に使わないと、どうなるの?」
「軽く次元を歪めてくれる」
事も無げに答えて、息を吐いた。もう一度、ポケットに手を突っ込む。今度は何か別の紙片を取り出した。
クリスは書いてある内容を、今度は見ることができなかった。微かに光った事だけ確認したが。
「ラファエル様!」
扉の向こうから、第三の声が聞こえた。一同の視線が集まる。
少女が一人、中に飛び込んできた。
「シャロン!?」
シャロンは真っ直ぐにラファエルのもとへ走ってくる…が、彼女の前に白い影が割り込んだ。シャロンが悲鳴を上げる。
あの天使だ。シャロンの腕を乱暴に掴み、自らの方へ引き寄せる。
「聖母は神の器を生む女!貴様ら穢れた者に渡せるものではない!!」
「…寝惚けた事を…人はお前たちに都合のいい道具ではない!」
彼が唸った。初めて彼の感情が顕わになる。
クリスは既視感を覚えた。白い翼が一瞬、視界を遮る。
(ああ、そうだ…ラフィが捕まった時だ……)
あの悪魔とこの天使…やっていることが全く変わらない。
「何でだ…?」
トランが呟く声が聞こえた。クリスが隣に視線を移すと、トランが食入るように、彼の背中を見つめている。
「トラン?」
「おかしいだろう?何で天の使いが、悪魔なんかと同じ事をやってるんだよ?」
二人は同じ事を考えていたようだ。
「悪魔も元は天使だ」
弱々しい声が聞こえた。二人は振り返る。
「学校長?」
「堕天使というだろう?同じなのだよ、天使も悪魔も…人間でさえ」
「黙れ!」
天使の一喝に、学校長が身を竦める。
「同じはずがないだろう!地上を這い蹲る人間などと…!」
「同じ神より創られし者だよ、セレジュ」
彼は天使に言った。まるで諭すかのように。その手に黒い刀身の剣が現れる。天使に突きつける。
「それに、この身が穢れていると言うのならば、何故私はあの時、天に連れて行かれることになったのか…その理由を聞かせてもらいたい」
天使の顔が強張った。額に汗が滲む。
「何の事か……」
「忘れたとは言わせない。私が今、お前と対峙出来るのも、お前たちの余計な親切のお陰だからな」
彼が剣を構えた。
二人の間に緊迫した空気が流れる。
膝をついた学校長に、クリスが手を貸す。
「先ほどの話ですが…」
クリスはこっそり話しかけた。学校長は小さく息を吐く。
「ベイセル様の仰ったとおりだ。神は全てを等しく創られた。天も魔も人も…動物たち、草花、道端に転がる石ころでさえ。全てを」
「そんな事は…」
「そう記してあるだろう?」
反論しようとするクリスを、学校長は遮った。その顔には疲労の色が濃い。それでも尚続ける。
「それを認めていないのは天界、それから何も知らない人間だけだ」
「じゃあ、さっきのラフィの話は?」
トランが訊ねた。学校長は首を傾げる。
「どの話だね?」
「ラフィが天界に連れて行かれたってヤツ」
学校長の顔色が更に悪くなった。ただでさえ青い顔から血の気が全くなくなり、土気色になる。唾を飲み、ゆっくりと息を吐き出す。
「あの方は、魔王のお子だ」
「それに何の関係が……」
「母君は天使だ」
クリスは目を向いた。父親はある程度のビックネームを覚悟していたが、母親でそうくるとは思わなかった…いや、思いたくなかったというのが真実だろうか。
「それは…堕天使、ということですか?」
クリスは最期の望みをかけて訊ねる。しかし、学校長は首を左右に振る。
「あの羽は母親譲りで…髪も生来は君と同じ金だった」
学校長はクリスを見ながら言う。
「攫われたのだ。二十五年前…帰ってきたのは三年後」
「二十五年って。そりゃ、オレたちから見たら十分な時間ですけど、アイツは……」
「あの方はまだ五歳だった」
トランがカエルの断末魔のような声を出した。クリスは完全に固まってしまっている。
「三年間に、何があったのかは分からない。帰ってきたときには、髪も真っ白になってしまっていて…本来、天使や悪魔の三十歳は、中身はどうであれ、まだ子供の姿のはず。それが普通の人間のように成長されてしまった。悪魔は環境により、並外れた適応能力を持つ。あれは自己防衛の一種ではないかと……」
三人が彼を見た。
いまだ緊張状態は続いている。お互い一歩も動けない。天使が少女の体を羽交い絞めにし、盾にしている。
トランが扉の方を見た。
「こんな騒ぎになってるのに、何で誰も来ないっ?」
「…皆、分かっているのだよ」
ラファエルが正体を隠したのは、生徒にだけだ。この世の理を知る者たちは知っているのだ。この世界は、悪魔がいなければ成り立たないのだと。
クリスもトランも、渋い表情をした。
学校長は肩を落としている。
天使がじりじりと後退をしていた。このまま、彼女を連れて逃げるつもりだろう。パッと翼がひらめいた。
しかし彼はそれを許さない。翼を広げた一瞬に、間合いを詰める。天使が逃げる暇も与えない。
あたりに羽が舞い散る。
天使が悲鳴を上げた。綺麗な声とは程遠い。憎悪に満ちた目は、あの悪魔と変わらない。
「この女がどうなってもいいのかっ?」
「物騒なセリフだなぁ」
呑気な声が言った。ふわりと風が流れる。
彼が顔を上げた。つられて全員が視線を上げる。
「ラファエル様」
壊れかけた十字架の上で、天使が一人、微笑んだ。
「エアリアルで結構だよ」
階級制度の天界では、四大天使の名も、今では役職を示すものだ。最初の大天使・ラファエルは、神同様、この世界から姿を消して久しい。
風が辺りの木っ端をかき集め、一つの山を作る。
エアリアルは青銀の髪をなびかせ、その山の前に降り立った。こんな事態でさえなければ、荘厳な宗教画を見ているような…そんな気分になっただろう。
だが、クリスは悪寒を感じていた。背に冷たいものが走る。
あの悪魔と同じ…いや、それ以上。圧倒的な存在を前に感じるのは、恐怖だけだ。天使というものの概念が変わったせいかもしれない。
エアリアルが言った。
「放しておあげ」
「し、しかし…!」
「セレジュ」
一見柔らかだが、その奥に秘めた厳しさは間違えようがない。
セレジュという力天使は、渋々手を放した。
解放されたシャロンは、すぐさま彼へと飛びついた。ギュウッとしがみ付いて、ポロポロと涙をこぼす。
「おかえり、シャロン」
そっと抱きしめて、頭を撫でる。
シャロンは上手く言葉が出てこず、何度も何度も頷いた。
それをセレジュが忌々しそうに見つめている。
「さて…分かっているだろうね、セレジュ?」
エアリアルが笑いながら言った。セレジュは身を竦める。
エアリアルは聖堂の中を見渡した。短い戦闘の間に、あちこちに穴が開き、かつての素朴ながらも厳かな雰囲気は、何処にもない。
「あ~あ。聖堂をこんなに壊しちゃって…この場所の意味、本当に分かってる?ここは僕たちの為の場所なんだよ?」
「は…それは重々……」
額に汗が滲んでいる。
エアリアルはわざとらしく、盛大な溜息を吐いた。
「しかもまたトトリアスに侵入してさ…あそこは絶対立入禁止区域。知ってるはずでしょ?どう責任取るつもり?」
セレジュは答えられない。
エアリアルはニコニコ笑いながら、じわじわと追い詰める。
「あの時のサタンの怒りは、君も覚えてるよねぇ?」
「ですが、あの時と今回は…!」
「何か違う?何が違うの?あぁ、ラフィが次期魔王として擁立された事かな?」
エアリアルがポンッと手を打った。セレジュが唇を引き結んだ。
クリスとトランの目が、彼に向かう。彼は苦い表情をしていた。
「エアリアル様…その事は……」
「あ、暫定だっけ?ゴメンゴメン」
謝ってはいるものの、全く悪びれた様子はない。
エアリアルは彼らに向き直った。
「もっと早くに連絡くれたら良かったのに。その為の護符でしょ?」
床に落ちた聖札を指す。先ほど彼が光らせた札だ。
「…出来れば、穏便に済ませたかったので……」
「甘いなぁ、ラフィは。その甘さが付け入る隙なんだって、いい加減気付いたら?」
天使のクセに、実に容赦ない。
彼はシャロンを抱えたまま、視線だけ下げた。
「肝に銘じておきます」
「そうそう。悪魔は悪魔らしく、ね」
エアリアルは屈託ない笑顔を浮かべる。しかし、その言葉はどこか棘があるように聞こえた。
クリスは眉を顰める。そんなクリスに、エアリアルは目敏く気づいた。唇が弧を描いた。
「でも、なかなかいい友達も出来たみたいだし…学校生活も悪くなかったんじゃない?」
悪寒が走る。クリスは体が強張るのを感じた。視線を外そうにも、顔が動かない。足も手も…舌が乾いて口内に張り付き、声さえ出ない。
クリスの視界に、黒いものが割って入った。先ほどの少女が、目の前に下ろされる。
「シャロン、彼らと一緒に…頼む」
視線が合ったのは僅かだった。彼が天使に向かう。
ようやく動けるようになったクリスに、そっとシャロンが訊ねる。
「大丈夫ですか?」
クリスは頷いた。額に細い指が触れる。思わず仰け反ってしまう。
「え?あ…あの……?」
シャロンは構わず、袖口でクリスの額の汗を拭う。
「悪魔の視線は毒を持つと言われるでしょう?本当は、天使の視線も同じなんです。人には強すぎる、異質のものなんですわ」
シャロンはそっと息を漏らした。
「大天使・ラファエル様は、悪いお方ではないのですが…少々、性格が歪んでいらっしゃるというか、素直ではないというか……」
微かに冷えた指が心地よい。ようやく息ができる…そんな気分になる。
(助けてくれたのか…)
二人の天使に向かっても、彼は落ち着いている。
クリスは歯噛みする。助けられてばかりの自分に、苛立ちを覚える。
人とは、こんなにも無力なものなのだろうか?
彼が口を開いた。
「聖母は返して頂きます」
「仕方ないね、今回はこちらの負け。認めるよ」
とぼけた様子で、おどけて両手を広げてみせる。どこまでも喰えない天使だ。
「でも、セレジュは返してもらうよ。処分はこちらでしたいからね」
彼は何も言わなかった。ただ、頷きもしなかった。
セレジュは勝ち誇ったような笑みを浮かべている。
あの笑みは、正解なのだろうか?
クリスは思った。隣の天使を見ていると、彼に明るい未来があるとは思えないのだが……彼の性格が歪んでいるというのなら、尚の事。
エアリアルが手を打つ。
「さ、話はこれでお終い。和解だよ」
風が巻き起こる。積み上げられた木っ端が、粉塵として舞い上げられた。
皆が堪らず、腕で顔を覆った。
「また困った事があったらお呼び。『特別』に助けてあげる」
笑い声が風に混ざる。どこか癇に障る、嫌な声だった。
風が止み、粉塵が収まる頃には、天使は跡形もなく姿を消していた。




