悪魔
神よ
我等を創り給うた、偉大なる父よ
貴方の使徒達は、何故我等の同胞の命を奪うのですか?
我等も、貴方より生れ出でしもの
何故我等には、貴方の恩恵は届かぬのですか?
貴方は万物に平等であらせられるのではないのですか?
どうかお答えください。
我等はいつまで、この暗き地の底で、光り輝く貴方の使徒から逃げ続ければ良いのですか……?
深い森に佇む、崩れた古い城。その中を異形の者たちが蠢きまわる。その動きは統制され、廃墟をうろつく悪鬼とはまるで違う。彼らは瓦礫を片付けているのだ。
数ヶ月前まで、この城は古いながら清閑な佇まいを見せていた。そして瓦礫に埋まったこの場所は、小さな庭園だった。地上の光を集め、色とりどりの花を咲かせていた。
その庭の中央にはいつも、一人の少女がいた。
主が人の世界から連れ帰った少女。笑顔の絶えぬ、優しい少女だ。
しかし、この庭が瓦礫に埋まると同時に、彼女は消えた。
「…シャロン様……」
誰かが小さな声で呟いた。それに触発されたのか、微かな啜り泣きが混ざる。悲しみはいつしか全体に伝わり、重苦しい空気が辺りを包む。
パンッ
誰かが手を叩いた。皆がハッと顔を上げる。
「何を嘆いている。シャロン様がお戻りになられる前に、庭も屋敷も、元に戻さなければいけないんだぞ。泣いてる暇はない」
黒尽くめの軍服。人により近い姿は、高位悪魔の証だ。
作業をする一団は平伏する。だが、一人が恐る恐る顔を上げた。
「アルマ様はそう申されますが…本当にお戻りになるのでしょうか?」
「当然だ。王が直々に迎えに行かれたのだぞ。必ず一緒にお戻りになる」
アルマと呼ばれた悪魔は、自信満々に言い切った。腕を組んでふんぞり返る。
あまりに自信たっぷりな様子に、瓦礫を片付ける面々は仄かな安心感を覚える。互いに顔を見合わせ、頷き合う。笑顔が戻る。
瓦礫で埋もれた場所に活気が戻り、作業のピッチが上がる。
それを見届け、アルマは踵を返した。彼らの目の届かぬところまでやってきて、深い溜息を吐く。
建物の影から、別の悪魔が現れる。主人の留守を預かる執事だ。
彼は深々と頭を下げた。銀の髪が流れ落ちる。
「アルマ様の一言で、皆が生き返りました。御礼申し上げます」
「俺で済むなら構わんよ。俺で済むんなら、な…」
アルマは額に手を当てた。それは何処か物憂げで、気鬱な様子だ。
執事はゆっくりと首を左右に振る。
「シャロン様がいらしてからというもの、この屋敷も華やかになりましたので」
今ではすっかり寂れてしまった屋敷を見上げる。
彼女がここにやってきたのは一年前。いたのは僅か半年あまり。けれど、屋敷は随分変わった。変わったのに……
深い森の中の半壊の屋敷は、酷く物悲しげに佇む。
この屋敷が破壊されたのは、これが初めてではない。過去には更に酷い状態になった事もあった。
「あの方は聖母なんて綺麗なモンじゃない。ただの優しい女の子だよ」
アルマが苦々しげに呟いた。執事は何も言わず、ただ視線を伏せる。
そこに慌てた様子の別の悪魔が一人、飛び込んできた。
「団長!大変です!!」
急を知らせる部下に、彼は顔を顰めた。
◆
陽光に白銀の刃が煌く。
「ハァッ!」
気合一閃。剣が教官の目の前に迫る。教官は僅かに驚いたような表情を浮かべた。だが、軽く切っ先を振るうと、彼の渾身の一撃を受け流してしまう。完全に流される前に何とか踏み止まり、体勢を立て直そうとする。だが教官の剣が目の前に差し出され、彼の動きが止まった。
「残念だったね」
教官が微笑む。
ラファエルは盛大な溜息を吐いた。額から汗が流れる。
「なかなかいい筋をしている。既に誰かの指導で教わっているね?」
「はい。ローデン師のご紹介で、聖騎士ダヌー様に」
今はもう引退はしているが、かつては大聖堂で騎士団長も務めた人だ。教官も目を見張る。
ラファエル自身は気付いていない。恐らく、彼自身知らないうちに、悪魔祓いとしての英才教育を受けているのだ。優秀な狩人にもなれるだろう。
ラファエルは教官に頭を下げる。
「ありがとうございました」
銀製の剣を重そうに引きずって戻ってくる。それをトランが迎えた。
「お疲れさん」
「本当…大変……」
ラファエルは笑ったが、息は切れ切れである。
ラファエルは壁に寄りかかる。そのままその場に座り込んでしまった。
トランはそんな彼に麦藁帽子を被せた。吸血鬼同様、白子の彼にとってこの陽射しは天敵だ。
「意外だな。ひ弱そうに見えるのに」
「ひ弱…そう、は、余計だよ」
実際、持久力はそれほど無いらしい。
剣を立てかけ、麦藁帽子を少しだけあげる。
「トランこそ…悪魔祓い系なんて…かなり意外なんだけど……」
「狩人志望なんだけどな。先生に見込まれちまったのが運のツキってヤツさ」
トランは軽く笑った。
悪魔祓いと狩人には、それほど違いはない。
実体がなく、人に取付いて悪事を働くもの…悪霊や闇の精霊を祓うのが悪魔祓い。実体を持つ「魔物」とも呼ばれる存在を退治するのが、狩人である。
悪霊や闇の聖霊は、悪魔と呼ばれても低級なものだ。しかし、人間の体に入り込んでそれを盾とするため、退治が難しい。
魔物は高位の悪魔で、強力な力を持つが、弱点さえついてしまえば、比較的退治は簡単だ。
狩人に求められるのは、剣術や銃技といった実践的な技だ。
一方、悪魔祓いに求められるのは、聖句の他、交渉といった駆け引きの技である。
ラファエルは首を傾げる。
「狩人になるんだったら、武術選択した方がいいんじゃないの?」
悪魔祓いの技も勿論、実体を持つ悪魔に効く。しかし、彼らとの戦いは本当に体力勝負と言って過言ではない。
トランは基礎体力がありそうだから、今からこちらに回っても遅くはない。実際、途中で進路変更する者も多い。
しかしトランは首を左右に振った。
「オレはこのままでいいよ。こんな暑い中の訓練なんて、ジョーダンじゃない」
「うん…僕もそれは思った」
ラファエルも、真っ青な空を見上げる。雲ひとつない空からは、強い太陽の光が降り注いでいる。
相手は夜魔族とも呼ばれる存在である。実際の戦いは夕方、夜から早朝になる事が多いだろうが……
「扱いなれたものをって思ったから、剣選んじゃったけど…せめて銃にしておけば良かったな…射撃場なら、まだ屋根があるし……」
そう言って、射撃場の建物を見た。こちらからは建物の屋根しか見えない。
「クリスのヤツがいるしなぁ…アイツ、あれで射撃訓練はトップなんだぜ?信じられんよ」
「僕、クリスが銃を選択してるっていうのも、意外なんだけど……」
ラファエルの言う事は尤もと、トランが頷く。
「オレも驚いたさ。アイツんちは代々、悪魔祓いの家系らしいけど」
「ふぅん…」
ラファエルは不思議そうな顔で射撃場の建物を見ていた。
不意に、陽光が翳る。二人は空を見上げた。
「え…?」
「避けろ!」
誰かが叫んだ。だが、ラファエルは間に合わなかった。
爆音が建物を揺らす。
射撃場の生徒達は、不安げに顔を見合わせた。
クリスは構えた銃を下ろす。外が騒がしくなってきた。
緊急を知らせる鐘が鳴り出す。教官たちがざわめく生徒達を集める。
「全員集まって、校舎に帰るように」
生徒達がぞろぞろと出て行く。
クリスもその中に混ざる。生徒のざわめきの中に、誰かの名を呼ぶ声が聞こえた。顔を上げる。
「ラフィ…?」
再び爆音。生徒達が身を竦める。
クリスはその中に微かな聖句を聴いた。
「…ッ」
クリスは列を離れ、校舎と反対方向へ走り出していた。生徒たちの制止の声を振り切り、爆発のあった場所を目指す。
回廊を抜け、野外訓練場へと出る。
目に入ってきた光景に、クリスは言葉を失った。
漆黒の翼、血のような赤い瞳。その手には真っ黒な刀身の剣が握られている。
本物の悪魔…そう認識するまでに、さほど時間はかからない。
悪魔の腕には、首を羽交い絞めにされて苦しそうなラファエルの姿がある。
周囲を教官や教師達が囲んでいる。しかし、彼に被害が及ぶ事を考慮して、手が出せない様子だ。
その割に、悪魔は傷付いている。羽はボロボロだし、黒一色に染め上げられた服も、随分擦り切れて汚れている。
「…あの方はどこだ……?」
悪魔が唸るように問いかけた。悪魔の爪がラファエルの顔に食い込む。
「あのお方はどこだと聞いている!!」
ボロボロの翼が広げられた。ただそれだけなのに、凄まじい衝撃が走る。
クリスは突風を前に、腕で顔を覆う。
(ラフィ…!)
彼の顔から、赤い雫が流れ落ちる。苦痛に顔が歪んでいる。
「あの方とは誰だ?」
教官の一人が、慎重に訊ねた。悪魔の目が彼を捉える。一瞬、教官が怯んだのをクリスは見た。
「…シャロン様…我が王のご寵愛深き女性…貴様らが我らより奪ったお方だ!」
王…まさか……
一同に緊張が走る。この場にいるのは、教官ばかりではない。逃げそびれた生徒も大勢残されている。
数ヶ月前から、この学校に流れる噂。それを真実だと照明するような悪魔の言葉。
「た、助け…て……」
弱々しい声に、一同がハッとする。
ラファエルが限界に達しようとしていた。
クリスは、射撃場から銃を持ち出してきていた。弾も残っている。訓練用だから、純銀ではないが。
慎重に銃を構える。
「クリス、待て」
背後から声をかけられ、クリスが身を竦めた。
トランだ。
彼はそっとクリスに話しかける。
「どうせ訓練弾だろ?サポートする」
トランの手がクリスの銃をなぞった。その口から、祈りの言葉が漏れる。
「主にあって、その偉大なる力により強くあれ……」
銃が僅かに熱を帯びる。クリスは慎重に狙いを定めた。
「…救の兜を被り、御霊の剣、神の言葉を取れ……いけ!」
狙うは、黒い刃が握られる腕。
教官さえ舌を巻く一発が弾き出された。
闇が一閃する。弾丸が真っ二つになった。
「…!」
「ウソだろ……っ」
邪気が溢れ出す。赤い瞳がクリスを捕える。
「小童がッ」
黒い剣が振り上げられた。
【 止めておけ 】
何者かの声が響いた。悪魔の動きが止まる。
足元が仄かに光った。すると、地面が燃えだした。赤黒い炎が噴出し、蛇の如く不気味に地を這っていく。
不気味な炎はあっという間に、一つの魔方陣を作り出す。
「団長…ッ?」
悪魔が虚空に向かって叫んだ。再び声が聞こえる。
【 誰が勝手な真似を許した?帰って来い 】
「ですが、シャロン様は…!!」
悪魔の言葉を聞くことなく、魔法陣が発動を始める。悪魔が歯軋りをする。そして、抱えていた少年に目を落とした。
「…貴様だけでも……!」
ラファエルに黒い刃が迫る。
「紅き御使いの炎よ!」
彼が精一杯の声を振り絞った。その体から炎が吹き上がる。
悪魔がラファエルを振り落とす。振り落とされて、彼は地面を転がった。すかさず数名の教官が彼を保護する。
炎に体の一部を焦がされながらも、悪魔はじっとラファエルを見ていた。
「お前、は……いや、あ…たさ、は……ッ」
魔法陣が不気味な音を大きくし、声がかき消される。その表情は驚愕のものだった。
辺りの闇が深くなり、魔方陣から黒い炎が吹き上がる。熱くはない、不思議な炎だった。炎の向こうに悪魔の姿が消える。
陽の光が、何事もなかったかのように辺りを照らす。
あまりにあっけない幕切れだった。
しかし、クリスはその場に座り込んでしまった。足に力が入らない。膝が笑っている。
トランも額にびっしょりと汗を滲ませていた。
「…あれが本物……」
そこにいるだけで感じる、圧倒的な威圧感。
睨まれた瞬間、逃げ出したくなった。自分のやった事を後悔した。
「大丈夫か!?」
「聖医を呼べ!司教殿もだ!!」
クリスたちは顔を上げた。同時に顔が強張る。
視線の先には、力なく横たわるラファエルの姿があった。
月が見える。しかも二つ。
一つは真っ白な月。こちらは窓の向こうに見える。
もう一つ。窓の手前に、金色に光る月が見えた。
「…ちがう、月じゃない……」
「ラフィ?」
金色の月が振り返った。クリスだ。
ベッドに横たわるラファエルは、微かな光に反射して光るクリスの金髪を、月に見間違えたのだ。
クリスが気遣わしげに、こちらを覗きこんでくる。
「気が付いた?気分はどう?」
「…全身痛い……」
ラファエルはポツリと呟く。ふと、その顔が歪んだ。腕で顔を覆う。
「とっても眠い……」
「…体が疲れてるんだ。ゆっくり眠って。僕、ここにいるから。外は教官や司祭様たちが見回ってくれているから…もう、悪魔は来ないよ」
ラファエルが腕を上げ、クリスを見た。表情が緩む。
クリスの言葉に安心したのか、目を閉じるとあっという間に眠ってしまった。怪我や疲労のせいもあるだろう。
扉が叩かれる。トランが顔を覗かせた。
「クリス、交代の時間だ」
トランも、クリスの無謀な行動に手を貸したと、同じように怒られている。罰として看病を命じられたが、学校側も気を使ったのだろう。
「さっき、少し目を覚ましたよ」
「ふぅん。どうだった?」
「眠いって言って、すぐにまた……」
「そうか」
トランは短く答えた。
クリスは、ラファエルの泣き出しそうな顔が忘れられない。明らかな安堵は、極限の恐怖を如実に表している。
沈むクリスの肩を、ポンッと叩く。
「後はオレが見てるからさ。お前も休め」
「うん…そうするよ」
トランが椅子に座るのを見て、クリスはラファエルの部屋を出た。欠伸を一つ、噛み殺す。
自室に戻ると、クリスは毎日欠かさない主への祈りもそこそこに、ベッドに潜り込んだ。そして瞬く間に眠りの世界へと落ちていった。
◆
闇に白い姿が浮かび上がる。
「あれはなんだ、アルマ?」
「申し訳ございません」
アルマは深々と頭を下げる。主の鋭い視線が、彼を射抜く。
「危うく正体がバレるところだった」
「そのようなヘマはなさらないと、信じておりましたから」
おだてているようで、何処かからかうような口調。
主は口をへの字に曲げた。
「どいつもこいつも……」
「おや?私以外に、どの方を指してどいつなんです?」
アルマは完全に面白がっている。
キッと主は部下を睨みつけた。
「もちろん決まっている!兄上様方だ!!」
主の剣幕に、アルマは軽く肩を竦めた。苦笑いを浮かべる。
主は溜息を吐き、額に手を添える。
「何故、末っ子で、純血の悪魔でもない私が王なのだ?おかしいじゃないか!?」
「今頃お気付きで?」
サラリと答えられ、主はがっくりと肩を落とした。両手で顔を覆う。
「母上様と二人、ひっそりと暮らしてたのに、兄上様方のせいで…しかも彼女を人間に奪われて、部下に自分で取り返して来いって魔界から追い出される…そんな王がどこの世界にいるってんだ!」
「今、私の目の前におりますが、それが何か?」
アルマがにっこりと笑った。メソメソといじける主人に、蹴りを入れる。単なる主従の関係ではないのが、一目瞭然である。
「早くシャロン様を取り返して来て下さいよ。下っ端どもがす~ぐウジウジ泣き出して、鬱陶しい事この上ないんです。第六師団も王のお陰で、人数増えて、一人じゃ管理が大変なんですよ」
「くっ…私の嘆きはどうでもいいのか!?」
「結構どうでもいいですねぇ」
あっはっはっと笑われて、主はますます凹んだ。
流石に言い過ぎたかと、アルマはフォローを入れる。
「早く帰ってきてくださいよ。魔王様たちがご心配されていますよ」
「遅いわ!」
拗ねた調子で言い返し、主は踵を返す。
そのまま姿を消すのかと思えば、何か思うところがあるようで踏み止まった。アルマを振り返る。その顔は真剣そのものだ。
「あれなりに責任を感じていたのだろう。重い罰は与えるな」
アルマは小さく笑った。丁寧に頭を垂れる。
「御意」
「屋敷の者たちに伝えろ。必ず連れ戻るゆえ、大人しく待っていろ…とな」
「仰せのままに」
既にそれは伝えてしまった事は、敢えて言わない。代わりに別の事を口にする。
「伝えはしますが、あまり時間がかかると信頼が失われますよ」
「だったら手伝え!」
主は一言叫んで、その場から姿を消した。
アルマは肩を竦める。
「手伝えない事は解っているでしょう?相手は聖母…我々が動いたらどうなるか……」
闇に向かって話しかける。彼は視線を落とした。
「からかいすぎたかなぁ。でも、信頼しているんですよ、我が君……」