契約
「いいか! 貴様らヒヨッコどもにSCSの信念を叩き込んでやる! よく頭とここに刻んでおけ」
そう言って教官は自分の胸を拳で叩いた。
あれは入隊直後の訓練の時だったか。それとももう少し後の事だったか。
「我々SCSは、魔女に屈してはならない。魔女の誘惑に負けてはならない。なぜなら我々が人類の希望だからだ! 我々の敗北は人類の敗北だと思え。お前らの誰か一人でも魔女に屈した時が、人類が魔女に負けた事を意味する!」
僕はなぜか教官の言葉を思い出していた。当時の過酷な訓練の緊張感や疲労感までもが蘇ってくるようだった。ついて行くのにやっとの訓練だっただけに教官の言葉の一つ一つに殺意を覚えた事も思い出す。
だけど、だからこそ、あの時教官が言ったSCSの信念は強く胸に刻み込まれた。
「わかりました」僕は指輪に手をかけ、静かに言った。
「この指輪は渡せません」
* 契約 *
魔女マリアの表情がにわかに歪んだ。
「……私の聞き間違いかしら? 今、渡せないと言ったの?」
僕は黙って頷く。
「どうしてかしら?」魔女マリアの反応は早かった。「私の話は分かったのでしょう? それなのになぜ指輪を渡さないのかしら。あなたはあの悲劇を繰り返したいの?」
「いいえ。あんな事、二度と繰り返してはいけません」
「それなら、なぜ?」
「あなたは」僕は魔女マリアの目をまっすぐ見つめた。
「あなたは嘘を言っているようには見えない。でも、何か違和感を覚えたんです。何かがちぐはぐで、まるで信用できない」
「何がちぐはぐだと言うの?」
次第に魔女マリアの声が大きくなる。苛立っているようだった。
「私を信用できないと、あなたは言うのね」
「……魔女タバサ」僕は頭に浮かんだ疑問をそのまま口にする事にした。違和感はあるが、それが何なのか、はっきりとしない。こういう時は思いついた事をそのまま口にした方がいいと思った。
「彼女は未来が見える。そうですね?」
「ええ、彼女の得意な魔法だわ」
「未来は絶対?」
「彼女の見る未来は絶対だわ」
「つまり、あなたは魔女タバサの見た未来の通り、俺達をここへ呼び、今俺と話をしているというわけですよね?」
自分自身に言い聞かせるように頷きながら訊ねる。
「そうよ。タバサが今日ここへあなた達を連れて来る事は、事前に見えていた未来だわ」
「じゃあ、あなたには誰が魔女リサと接触し、指輪を渡されたのか、事前に知っていたはずだ。その上で俺達を、いや俺をここへ呼びだしたんでしょう? 指輪を受け取る為に」
僕がそう言うと、魔女マリアの表情が緩んだ。ふっと息を吐き「そう言う事ね」と呟く。
「言い方が回りくどかったのがいけなかったのかしら? ごめんなさいね、私の癖なの。よくみんなにも言われるの。『もったいぶった話し方をするな』って」
そこで言葉を区切って、魔女マリアは目を閉じてゆっくり頷いた。
「ええ、そうよ。あなたがリサから指輪を受け取った事も、今日あなたがここへ来ることも事前に知っていたの。ついでに言うと、あなたが少しごねることも、その後でその指輪を私が受け取ることも、知っているわ」
「それは、魔女タバサの予言、ですか?」
僕の質問に魔女マリアは笑顔で頷いた。「彼女の予知は、絶対だわ」
――絶対の予言……。
予言が絶対なら、全ての魔女が予言する未来は同じものになるんじゃないか?
魔女マリアの背後で、ガラスの向こうにある庭に一羽のカラスが舞い降りるのが見えた。大きな翼をゆっくりはばたかせて、ししおどしのある小さな池の横にスムーズにランディングする。綺麗に手入れされた美しい庭が、たった一羽のカラスが来ただけでまるで別物になってしまったような気がした。
「今日で一週間です」
無意識に言葉が出た。言おうとして出た言葉じゃ無く、口が勝手に動いていた。当然、魔女マリアにも僕が何を言っているのか解らないのか、虚をつかれたような顔で僕を見ていた。
「あの日、魔女リサは一週間後、俺は必ず契約を交わすと断言した。あれは、予言だったんじゃないか、と思うんです」
「リサが? ……ああ、ミサちゃんの占いね」魔女マリアが頷く。
「と、言う事は、言いかえればあなたにこの指輪は渡さないという事になります。魔女タバサの見たという未来とは、食い違ってきますね」
「未来は決まってはいないわ」
魔女マリアはいたって冷静に、淀みなく答える。
「様々な要因で未来というのはいくつも枝分かれしていくの。ミサちゃんが見た時点でのあなたの未来はリサとの契約だったんでしょうけど、ほんの小さなきっかけで未来はすぐ変わってしまうのよ。今のあなたの未来はタバサの見た通りだわ」
一応筋は通っている。それでも僕の中に浮かんだ違和感は晴れる事は無かった。一体何に引っ掛かっているのか、自分でも分からないのがもどかしい。
「魔女リサは、自分の命が狙われていると言っていた。彼女の持つ力を狙っている者がいると」
僕は一か八かカマをかけてみる事にした。この違和感の正体は分からないが、僕の中の何かが魔女マリアを信用するなと強く警戒している。
「……それは、あなたなんじゃないですか? あなたがこの指輪と彼女の持つ力を使ってもう一度魔女戦争を引き起こそうとしているんじゃないですか?」
僕の言葉を黙って聞いていた魔女マリアの顔から表情が消えて行く。
「それは、本気で言っているの?」
魔女マリアは無表情で僕を見つめた。まるで心を持たないマネキンのように瞳からは暖かさが消え、氷のように冷たい視線が全身に刺さるようだった。
今までの穏やかな表情とは明らかに違う、敵意をむき出しにした表情だった。
あらぬ疑いを持たれて怒っているのだろうか? それとも図星をつかれて本性を現したのだろうか? どちらにしても、僕の身に危険が迫っている事だけは明らかだった。
「残念だわ。やっぱり分かってもらえないのね」
小さくそう呟くと、魔女マリアはふっと息を吐いた。
彼女の吐いた息は氷のように冷たく、白いもやとなってゆっくりと部屋を覆って行く。室内の温度が急激に下がり、みるみるうちに自分の吐く息が白くなっていった。
「本当はなるべく穏便に済ませたかったのだけど……その指輪は力ずくでもいただくわ。悪く思わないでね」
地面が揺れているような気がして足元を見ると、自分が震えている事に気付いた。寒さだけではない、僕は明らかに恐怖していた。初めて魔女からうけるむき出しの敵意に体が委縮してしまっていた。
――ビビってる場合じゃないだろ。
と、自分を鼓舞する。虚勢でもいいから怯えてる姿を見せたくは無かった。
ゆっくりと魔女マリアが右手を上げると、その動きに合わせたように右手の周りに冷気が集まり白い渦を作っていく。
「ほんの少しの間凍ってもらうわね。心配しないで、命を奪ったりはしないわ」
その言葉を引き金に彼女の手から放たれた凍てつく空気の塊が僕の体を包み込んだ。視界が真っ白になり、露出した肌に刺すような痛みが走る。空気を切り裂くような轟音が耳元で鳴った。空気のあまりの冷たさに、吸い込んだ途端に体の内側から凍ってしまうような気がして、僕はとっさに息を止めた。
「……ただ、力の加減を間違ってしまうかもしれないわ。何せ魔法を使うのは久しぶりだもの」
魔女マリアの低い笑い声が耳鳴りの向こう側に聴こえた気がしたが、僕には余裕が無かった。痛いと思う暇も無く、瞬く間に手足の感覚が無くなる。
絶体絶命だった。動く事も出来ず、どうすればこの状況を切り抜けられるのか考えてる時間もなさそうだった。全身を激しい痛みが絶え間なく襲い、足元はすでに凍りついてきている。
――どうしたらいい?
A・ このまま凍らされるのは嫌だ。素直に指輪を差し出す。
B・ こんな痛みに耐えられるわけが無い。殺される前に指輪を差し出す。
頭に浮かんだ弱気な二択を必死に追い払う。あの時教官から教えてもらったSCSの信念はいつしか自分の信念として身についていた。たとえ死ぬ事になっても魔女に屈する事は出来ない。この指輪は絶対に渡せない。
C・ 指輪を回して魔女リサと契約をする。
極限の状態になり、いつも二択だった僕の選択肢に、第三の選択肢が浮かんだ。
魔女マリアは契約を交わすと指輪の魔力によって本人の意思なしでは取り外す事は出来ないと言った。その言葉が本当なら、指輪を守る為の選択肢は一つしかなかった。
ただ一つ、魔女リサの思惑通りになってしまう事だけが、悔しかった。
――結局魔女リサの言った通りになるのか。
僕は目いっぱい深いため息を一つ吐いた。吐き出した息が周囲の凍てつく空気に凍らされ、キラキラと輝いて見えた。
こうなったらどうとでもなれだ、と覚悟を決めて僕は思い切り指輪を左に回した。
すると突然指輪から金色の光が溢れだし、瞬く間に僕の体を包み込んだ。
暖かい光に包まれて、体から痛みが消えて行く。耳元で鳴っていた音が消え、僕の周囲を取り囲んでいた凍てつく空気が光に溶ける様に消えて行くのを感じた。
目を閉じると体がふわりと浮くような感覚がして、全身の筋肉が弛緩していくのが分かった。眠りにつく瞬間のような、地の底に落ちて行くような感覚に身を任せてしまいたくなる。なんとも言えない心地よさがあった。
どれくらいの時間目を閉じていたのだろう。目を開けると何事も無かったかのように、魔女マリアが腕を組んで僕を見つめていた。
「どうやら、無事に契約をしたようね」
と、先ほどと同じように優しい微笑みを浮かべる。
「結果を知っていたとはいえ、あのまま契約しなかったらどうしようかと、少しだけ焦ったわ。殺すつもりも無くあなたを死なせてしまうわけにはいかないものね」
魔女マリアは「良かった良かった」と胸をなでおろした。
――一体何を言ってるんだろう?
僕は呆然と立ち尽くした。立ち尽くすしかなかった。
すると、僕があまりにも変な顔をしていたのか、魔女マリアは突然噴き出し、ひとしきり笑った後で「ごめんなさいね」と謝った。
「リサちゃんにお願いされてたのよね。今日あなたを呼び出して、契約の手伝いをして欲しいって。もう、大変だったのよ。あなた変にカンがいいから私の嘘にすぐ気付いちゃうんだもの」
「嘘? どれが?」ほとんど無意識に訊き返していた。
「全部よ。指輪が大破壊を引き起こす道具だっていう事も、タバサが見た未来も、全部。結果としてあなたを騙す事になっちゃったことは謝るわね」
魔女マリアが何を言っているのか、頭が理解しようとしなかった。脳が考える事を拒否してしまっている。
「魔女リサが命を狙われているっていうのは?」
「ああ、それは本当みたい。だからあなたを騎士にしたがっていたんじゃない」
「じゃあ、この指輪は?」
「その指輪が『アンジェリカの指輪』っていう魔法の指輪なのは間違いないわ。でも、大破壊を引き起こすほどの力は無いの。その指輪はね、術者の命を守る指輪なのよ」
左手に輝く指輪を見る。契約を交わしたからだろうか、銀色の指輪は淡い緑色の光を放ち、常に光っているように見えた。
この時になってようやく脳が動き出した。すると途端に焦りが出始める。
「え? じゃあ、あなたは魔女リサに頼まれて、俺を騙したんですか?」
「ごめんなさいね」
「じゃあ、魔女戦争を引き起こしたりは……?」
「するわけ無いじゃない。仮にも私は長老会の一員なのよ」
――ってことは、僕は早とちりで魔女と契約を交わしてしまったってことか?
僕は慌てて指輪を取り外した。意外な事に軽く引き抜くとあっけなく外れる。が、安堵したのもつかの間、気がつくとまた銀色の指輪は薬指で光っていた。
「ああ、その指輪が本人の意思と、魔女の同意が無いとはずせないっていうのも、本当なの。それ以外では切ろうが燃やそうが、絶対に外せないから」
そう言うと魔女マリアは、どこからともなく携帯電話を取り出し、耳に押し当てた。
「ああ、リサちゃん? 終ったわ。ちゃんと無事に契約はさせたから。例のモノ、お願いね」と、手短に用件を伝え、素早く電話を切る。
僕の視線に気付いた魔女マリアは、悪びれる様子も無く、むしろ誇らしげに「リサちゃんが、魔導書をくれるって言うから」と言った。
「本一冊の為に俺を騙したんですか?」
「欲しかったのよねぇ」
「本一冊の為に俺の人生を変えたんですか?」
「大昔に失われたはずの本だったの。残っていたなんてすごい事なのよ?」
――本一冊の為に。それ以上の言葉はもう出て来なかった。
茫然としたまま広間に戻ると、班のメンバーはテーブル一杯に並んだ豪華な食事を楽しんでいる最中で、僕に気付いた先輩が「お前も食えよ」と手招きしてくれた。
「やっぱり、普通にもてなしてくれたわねー」と尾上がケーキを口に入れる。
「こんなことも、あるんですね」と宮内が魚料理にナイフを入れた。
「そういや、魔女マリアの話って、何だった?」と先輩は豪快にステーキを頬張りながら訊ねた。
――なんて平和な人達なんだろう。
能天気に食事を楽しむみんなを見ていると、今しがた僕の身におきた人生を変えてしまうかもしれない出来事が、実は夢だったんじゃないかと思える。
――本当に夢だったらいいのに……。と僕は左手の薬指をチラリと見た。
後悔しても、時すでに遅く、薬指にはまぎれも無く契約した証と共に、銀色の指輪が光っていた。