リサという名前
次の日、と言っても朝まで動いていたわけだから、正確に言えば数時間後。
通り魔事件の犯人を連行してきた僕を、長沼班のみならず、他班の面々、ひいては室長までもが一様に目を丸くして絶句した。
この落ちこぼれが一人で犯人を捕まえて来るなんてまるであり得ない、と天変地異を疑う者もいたほどだった。中でも長沼班の驚きようは飛びぬけていた。それもそうだろう。何せ、つい数時間前まで犯人の手掛かりすら薄かったのだから。
「お前、ホントに葛城か? 魔女が化けてるんじゃねぇよな?」
と、先輩がからかい気味に驚きを隠すと、
「あり得ない、葛城に先を越されるなんて」
と、宮内は現実を受け止められずにぶつぶつと独り言を言った。
「何にせよ、これで面倒くさい仕事から解放されたわけだ」
尾上だけが、僕の手柄など一切意に介さず、マイペースに喜んでいた。
「これで落ちこぼれの汚名返上か?」
と、室長がバカでかい手で肩をバシバシ叩くものだから僕は思わずむせ込んだ。
「まぁ、まぐれにしちゃ上出来だ。この調子でこれからもがんばれや」
* リサという名前 *
一日好奇の目に晒され、さらに寝不足も手伝って、疲労困憊で家に帰ると、いつも通り和食の良い香りを漂わせて、リサが出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ。葛城様」
「……ただいま……」
僕は家にたどり着くと、一気に脱力した。体が座ることすら拒否するので、倒れ込むようにソファに横になる。
「随分お疲れでいらっしゃいますね?」
リサは心配そうに僕の顔色を窺った。僕はふと、なぜこれほどまでにリサが僕の事を気にするのか気になった。昨日の事も、リサが僕を心配して部屋から出たりしなければ危険な目に合う事も無かったのだ。
「キミはどうしてそこまで俺を気にしてくれるんだ?」
「え? ……あの、それは……」
僕はリサの姿をじっと眺めて、かねてから疑問に思っていた事を口にしてみた。
「どうしてキミは俺に敬語を使うんだ? 俺はリサの騎士になった。ってことはリサは俺の雇い主みたいなものだろ? 俺が敬語を使うのなら分かるけど、これじゃ態度があべこべじゃないか」
何の気なしに訊いてみた事だったのだが、リサは以外にも真剣に考えているようだった。
コンロの火を止め、僕の前に正座をして、じっと見つめる。リサの真剣な眼差しに思いがけず僕も姿勢を正した。
「葛城様……」やがて、何かを決意したかのようにおもむろに口を開く。
「葛城様には、その名で呼んで欲しくありません。わたくしの名前はアリサでございます」
真剣な表情でリサの口から出たのは思いもよらない言葉だった。質問の答えにはなっていないが、どうやらからかっているようでも無いらしい。
「何を言ってるんだ、キミはリサなんだろう? あの伝説の魔女の力を受け継いだ、魔女リサなんだろう?」
「確かにわたくしはリサの力を受け継ぎました。その点で言うならば、リサという名前も間違いではありません。……ですが、わたくしの本当の名前、リサの力を受け継ぐ前の、本当の名前はアリサなのです」
リサの言葉がにわかに熱を帯びたような気がした。
「今となっては誰も呼んではくださらない名前でございます。ですが、葛城様にはリサと呼んで欲しくないのです。どうか、わたくしを呼ぶ時はリサではなく、アリサと呼んでくださいませ」
それはとても悲痛な訴えに思えた。彼女の事情は知る由も無いが、リサと呼ばれる事に抵抗がある事だけは分かる。そして本当の名前を誰も呼んでくれない事に心を痛めている事も。
あのミサでさえ、彼女を呼ぶ時は『リサ様』と呼ぶ。
リサが産まれた時から傍にいたはずのミサなら、恐らく元々はアリサと呼んでいたのだろう。それがある一点から彼女をリサと呼ぶようになった。その時の彼女の心の痛みはいかばかりだったのだろう。それを考えると僕の胸も痛むようだった。
思えば、僕は彼女の事を何も知らないのだと今さらながら気付いた。いや、僕自身が知ろうとしなかったのだ。リサは魔女だから、SCSの隊員である僕は魔女と関わってはいけないと、僕自身が心に蓋をして踏み込もうとはしなかった。
まだ出会ってからそれほど時間は経っていないのだから、仕方ないじゃないかと思う一方で、出会ってからそれほど時間が経っていないにも関わらず、いつだってリサは僕に優しく微笑んでくれていた事を思い出す。
――そうか、そうだよな。
彼女はいつも自分から近づく努力を怠っていなかった。それを僕は表向きは納得したように見せかけて拒否していたのだと痛感した。僕は騎士だ。魔女リサの――いや、彼女を守る騎士なのだ。その事を僕はようやく認める事が出来た。
「アリサ、か……」僕はかみしめる様にその名を口にしてみた。
「悪くない。良い名前だと思うよ」
「本当ですか?」
リサの顔がパッと明るくなる。アリサと呼ばれた事がよほど嬉しいようだ。
「わかった。これからキミの事はアリサと呼ぶ事にする」
僕がそう言うと、リサ――もとい、アリサは「ありがとうございます」と、テーブルに頭をぶつけかねない勢いで頭を下げた。
満面の笑みを浮かべる彼女に「ただし、一つ条件がある」と、真面目な顔で指を立てると、途端に不安顔になった。僕の言葉一つでコロコロと表情を変えるのが可笑しくて思わず笑みがこぼれた。
「な、なんでしょう……」
「そんなに難しい事じゃないよ」
と、前置きをして不安げに顔を窺うアリサに笑いかける。
「俺だけ呼び方を変えるのはフェアじゃないよな。だから、これからは俺の事を葛城様と呼ぶのは禁止。葛城と呼び捨てにすることに抵抗があるなら、好きなように呼んで構わないから」
いいね? と念を押すと、アリサはホッとため息をついた後少しだけ戸惑うような仕草を見せたが、やがてにっこりとほほ笑んで「はい」と答えた。
「じゃあ、わたくしからも一つ」
と、アリサが恥ずかしそうに指を立てる。
「なんだい?」
「……もう一度、アリサ、と呼んでくださいますか?」
――魔女と一緒に暮らしてる事がばれたら、ただじゃ済まない事はわかってる。でも……。
鼻歌交じりにキッチンに戻るアリサの背中を見て、僕は一つ大きく息を吐いた。
――でも、いいか。
もう一度アリサと呼んでください。と笑顔でせがむアリサがいままで以上に可愛かったから。僕はそれでいいやと思った。彼女にばかり努力させないで、僕の方からも距離を縮める努力をしてもいいのかもしれない。僕はこの時初めてそう思った。
*
「ただいま、もどり……ました」
翌日、家に帰ってきたミサは、テーブルに並べられた料理の多さに目を丸くした。
「あら、お帰りなさい、ミサ」
先日やむを得ず使った『縮地の魔法』とやらは、ミサには強すぎる魔法だったらしく、著しく魔力を消費したミサは病院送りを余儀なくされ、一日の入院を経て、ようやく帰って来たところだった。
キッチンで満面の笑みを浮かべ、次々と料理を作っていくアリサを訝りながら、部屋に上がったミサは、「何かあったのですか?」と、おずおずと訊ねた。
ミサの問いに「ん? ううん、何も」と答えたアリサの顔があまりにも笑顔に満ちているので、さすがのミサもそれ以上は何も聞けなかったのか、「あ、はぁ……」と曖昧な声を出して、仕方なく僕の方へと近づいてきた。
「リサ様の様子がおかしいんだ。お前、何か知らないか?」
と、相変わらずの態度の違いだったが、今の僕にはミサでさえ救世主のように思えた。
「いい所に帰ってきてくれた。……頼む、彼女を止めてくれ」
僕の前には食べきれないほどの料理が小さいテーブルに隙間なく並べられていた。
アリサは本当の名前で呼ばれる事がよほど嬉しいのか、昨日からずっとこの調子で、食べきれないほどの量の料理を作ってくれるのだ。
せっかく作ってくれた料理を残すわけにもいかず、昨日から夕食、朝食と気力で食べつくした僕の胃袋は限界だった。そして今日の夕食も、すでに絶対に一人では食べきれない量の料理が並べられている。
「さあ、ミサも座って。飛竜頭が煮あがりましたよ」
と、隙間なく皿の並べられたテーブルに、まるで魔法のようにさらに皿を追加し、アリサはいそいそとキッチンに戻っていく。まだまだ作る気だ。
「な? この調子なんだよ。昨日の今日で俺はすでに2kg太った……」
僕は一杯になった腹をポンと叩き、ミサを見上げた。
「悪いが……」ミサは目を伏せ、ゆっくりと首を振った。「ああなってしまったリサ様を止めるすべは無い。耐えろ」
そう言ってミサはテーブルの前に座ると、箸を取った。
「せめてわたしも手伝ってやる。残すことは許さんぞ」
と、ミサは病み上がりにもかかわらず、猛烈な勢いで箸を進めた。
その勢いを見せられては、仕方なく僕も頑張るしかなかった。
……結局、帰ってきたミサの頑張りのおかげで何とか全ての料理を平らげた僕達は、食べ終わると同時に倒れ込んだ。
「ご、ごちそうさまでした……」と言ったミサの声が今までになくか細かった事が、どれだけ過酷だったかを物語っていた。
「お粗末さまでした」と満足げな笑顔のアリサを見ては、もう何も言えまい。
しかし、これだけの料理を作る材料費は一体どこから出て来るのだろう、と少し疑問が頭を過ったが、破裂しそうな胃袋の痛みに、些細な疑問はかき消されてしまった。とにかく、今はそれどころではない。
苦行を終えた修行僧のように動く事も出来ず横たわっていると、同じく向かいで横たわっていたミサと目が合う。しかしその目は今までの睨みを利かせた視線と違い、何かを考えているような視線だった。
「葛城」やがておもむろに口を開く。「何があったのかは知らんが、あれほどまでにリサ様の嬉しそうな顔をわたしは久しぶりに見た。認めたくは無いが、お前のおかげなのだろう」
そう言ってミサは、ほんの少し悔しそうな顔をしながら、ありがとう、と礼を言った。
「……お前が礼を言うなんて珍しいな」
「ふん。滅多にある事じゃないのだ。素直に喜べ」
「はいはい」
「悔しいが、認めねばなるまい。お前がリサ様の騎士として適任である事を」
ミサとしては、恐らく聴こえないように呟いたつもりだったのだろうが、僕の耳には届いていた。が、そこは聞こえなかったふりをした。きっと、その方がミサの為だと思ったから。
室内にはアリサが食器を洗う音と、彼女の楽しそうな鼻歌が心地よく響き渡っていた。




