アンジェリカの指輪
「葛城様!」
すり鉢状の舞台に反響してリサの声が響き渡った。その声に交じって男の高笑いが聴こえる。僕はかすみゆく周囲を何とかつなぎ止めて男を睨み続けていた。
足から力が抜けて倒れこみそうになる。意地でも倒れまいと踏ん張ると生まれたての子牛さながらに足ががくがくと震えた。
「な、んで、月も出てないのに……」
もう声を出すことさえ難しかった。男に腕を切られてからまだ数分と経っていないのに、僕の命は風前の灯のように思えた。
「なんでって? あはは、だから言ったじゃない。僕が最大の魔力を込めて斬ったからさ。マンイーターはね、人間が使うよりも、僕達魔女が使えば、その力は二倍にも三倍にもなるのさ。それにさ、月はまだ出てるよ? まぁお前には分からないかもしれないけどね~」
白髪男の下品な笑いが一層高らかに響き渡った。
「お黙りなさい!」
リサが一喝すると、男の笑い声がぴたりとやむ。鋭い迫力を持った声だった。
「おや、おやおやおやおや……これはこれは、伝説の魔女、リサ様じゃございませんか」
飄々とした態度で白髪男は「お久しぶりで」とお辞儀をした。
「雅槻……あなたは何と言う事をしでかしたのです」
「あれぇ? 僕何か悪い事しましたっけねぇ? 僕は昔あなたに言われたとおり、強くなる為に魔女として正しい事をしたつもりですけど~」
リサが傷口に触れた手に力を込めるのが分かった。ズキンと左腕が痛み、思わずうめき声が出てしまう。
「あはは~リサ様の騎士さんはもう虫の息ですよん。どうするのかなぁ? あ、リサ様はあの伝説の魔女だもんね、そんな傷治すのなんて朝飯前だぁ」
白髪男がからかうように笑うと、リサは悔しそうに唇をかんだ。男を見るリサの目つきが憎悪に満ちた恐ろしいモノに変わっているのを見て僕は目を見張った。
いつも僕に優しい言葉をかけ、いつも笑顔に満ちていた彼女の、初めて見せる激しいほどの敵意だった。
「そんなに睨まないでよん。恐いなぁ、リサ様は。心配しなくてもそっちの騎士さんが死んだら、ちゃ~んとあなたも殺して差し上げますよ……!」
* アンジェリカの指輪 *
とうとう立っていられなくなり、僕は力なく崩れ落ちた。両手で体重を支える事も難しく、何とか気力だけで倒れ込むのだけは繋ぎ止めているが、それももはや時間の問題だった。
「葛城様!」
リサが這いつくばる寸前で僕の体を受け止めた。細い腕が小さく震えているのが分かる。リサの小さな体では僕の体を支えるには力不足のようだった。それでも離すまいと必死に耐えていた。
――もういいから、逃げろ。
そう言おうとして口を開くが、声が出ない。喉の奥がカラカラに乾いていて、呼吸をするのにもいちいち激痛が走った。
――くそ、もう喋る事も出来ないのか……。
僕は自分の最後を悟った。もう死をまぬがれることはできないと覚悟する。ただ、リサの事だけが心配だった。リサの安全だけは確保してやらないと、死んでも死にきれない。
「はぁぁぁぁぁぁ……い~い気持ちだぁ。リサ様の騎士さんは見かけによらずなかなかの生命力を持ってるみたいだね。僕の中にどんどん魔力が満ちて来るのが分かるよ」
「雅槻……もうやめて。あなたがあの時の事をまだ根に持っているのなら謝るから」
リサと白髪男の間に何か因縁のようなものがあるのだと思った。
この男はその時の因縁を未だに引き摺って今回の事件を起こしたのだろうか。
「僕があの時の事をまだ根に持ってるって? ええ、ええ。持っていますとも。僕はねぇ、あなたのその悔しそうな顔を見たくて、見たくて仕方が無かった。悔しいですか? 悔しいですよね。格下の僕に手も足も出ないなんてさぁ」
「………………」
リサはなぜ何も言い返さないんだろう。と疑問が過ったが、それは僕の命をあの男が握っているからだと思った。そのせいでリサは格下相手に何も言えないでいるのだと。
「良いですね、良いですよその顔。僕がずっと見たかった顔だ。まったく、マンイーター様様ですねぇ」
「……雅槻、お願いだからもうやめなさい」
「気に入らないですね。あなたのその上から物を言う態度が。人に物を頼む時にはそれなりの礼儀って物があると思うんですけどね~」
白髪男はあくまで飄々と、だが確実にリサの弱みをついた。それはまぎれも無く僕の存在であり、僕がいることでリサに迷惑をかけているという事実がどうしようもなく僕を苛んだ。いっそのこと早く死ねたらいいのにとすら思ってしまう。
「僕はねぇ、今でもあなたの事が好きですよ」白髪男は声高に主張した。「あなたが僕だけのモノになるって言うのなら、そいつの命だけは助けてあげてもいいんだよぉ? その代わりこの場で宣言してもらう。『わたくしは雅槻様だけのいやらしい、スケベな性奴隷になります』ってなぁ! ぎゃはは!」
いっそ吐き気がするほどのけたたましく下品な笑い声が辺り一帯に響き渡った。
リサの顔が一層憎悪に歪むのが、すでにほとんど見えなくなった僕の目にもはっきり分かった。傷口を押さえるリサの手が小刻みに震え、次第に熱を持って行く。
やがてその震えも止まり、リサが何かを決意したように大きく息を吸い込むのが分かった。
「わか――」「ダメだ」
リサが白髪男の要求を飲もうと口を開くのと同時に、僕は最後の気力を振り絞って声を出した。何とか絞り出す程度だったが、リサの耳には届いてくれたようだった。
「……リサ、あんな奴の要求を飲んじゃダメだ。俺の事はいいから、キミだけでも逃げるんだ」
「葛城様……」
リサはふと柔らかく微笑み、僕の体を両手で優しく抱きこんだ。ふんわりと包み込まれるような感覚に、その時だけは傷口の痛みも、呼吸の痛みも忘れ、なすがままに僕はリサの胸に顔をうずめた。
「ありがとうございます、葛城様。その言葉を聞けて、わたくしは幸せです」
そう言ってリサは右手をするすると下ろし、僕の左手の指輪にそっと触れた。
「わたくしの心は今、潤って満たされました。やはり葛城様はわたくしの思った通りのお人ですね」
耳元でリサの囁きを聞きながら、コレは僕が最後に聴く言葉になるのだと思った。周囲に暗闇が訪れ、最後に残っていた気力が体から溶け出すのを感じると、僕は急激に力を失った。
もう、なにも感じない。
空から僕達を照らしている太陽の暖かさも、
朝の風の匂いも、
傍にいるはずのリサの気配も、
自分の存在すらも、もう感じなかった。
それなに痛みだけがはっきりと全身を包んでいる。孤独感だけがくっきりと心を支配し、すっぽりと体から抜け出てしまったようだった。
薄れ行く意識の中で、薬指の指輪がリサの手でそっと回されるのが微かに分かった。
その瞬間、指輪が熱くなり、僕の体にどくどくと活力が湧いてくるのを感じた。僕の目は急速に視力を取り戻し、異様な光景を捕えた。指輪から溢れだすように光が放たれている。契約の時とは違う、今度の光はリサの心境を表すような、真っ赤な光だった。
「な、なんだぁ? 一体何をしやがった!」
瞬く間に辺りを包み込む赤い光に動揺した白髪男が声を荒げる。
男の動揺を肌で感じながら、僕の体は急速に回復して行った。傷口から痛みが消え、みるみるうちに全身に精気がみなぎってくる。立ち上がり、体が動く事を確認した。
「これは……?」
「指輪の魔力です」
振り向くと、リサの満面の笑みが目に入った。さきほどとは打って変わって、いつも僕に見せる、可愛らしい笑みだった。
「葛城様がわたくしの為を想って言って下さった一言が、『アンジェリカの指輪』を起動させるきっかけとなったのです。起動さえしてしまえば、もう葛城様に恐いモノなどありませんわ」
辺りを覆っていた赤い光が指輪に吸い込まれる様に消えると、まるで何事も無かったかのように朝日に照らされたすり鉢状の舞台に戻っていた。
「……なんだって言うんだ、全く。驚かせやがって」
白髪男はおさまった光に安堵しているようだった。攻撃の類だと思ったのか、自分の体をくまなく調べ、自分の身に何も起きていない事が分かると、また飄々とした態度に戻る。
「手品かなぁ? さっすが伝説の魔女様だぁ。やることなすこと陳腐なトリックで恐れ入るよ~」
と、白髪男は大げさに拍手した。
「マジシャン風情が、よく言う」
「騎士さん、それは僕を侮辱してるのかなぁ? どうやってマンイーターの魔力から逃れたのか知らないけど……たかが人間風情が僕を侮辱することは許さないよ」
と、表情を硬くする。口調は軽いが、どうやら挑発には弱いようだった。
「奇遇だな。俺もお前を許すつもりは無いよ。お前のような下衆野郎は産まれてこのかた初めて見たよ」
男の顔をこれでもかと睨みつける。正直腹の底が煮えくりかえっていた。この怒りは殺されかけたからじゃなく、間違いなくこの男のリサに対する態度によるものだった。
「………………」男の表情に張り付いていた笑みが消えた。
さっきまでの飄々とした態度は偽りだった。この男なりの虚勢だったのかもしれない。僕の少しばかりの挑発で簡単に素顔をさらしてしまうほど、この男は底が浅いようだ。
「どうした? 大好きなリサを自分のモノにできなくて悔しいのか? ……ああ、そうか、お前は毎日リサを思って自分を慰めていたんだもんな、そりゃ悔しいよな? せっかく恋い焦がれたリサ様が自分の物になるところだったのに、悪い事したな。このくそ童貞野郎」
「黙れぇぇぇぇ!」
突然激昂した男はナイフを振り上げ突進してきた。
――なんだ、まるで素人だな。
冷静になって見てみれば、挑発に乗った男の構えは隙だらけで、走り方もまるで怒り狂った子供のようだった。
振り下ろされるナイフを余裕を持ってかわし、背後から男の腕をねじあげる。日ごろから訓練してるとは言え、拍子抜けするほどあっけなく男からナイフを取り上げる事が出来た。
「こんな物騒なもん振り回しやがって」
「離せ! 人間ごときがこの僕に触れるな!」
力及ばず、喚くことしかできない男の腕を離してやる。ナイフさえ奪ってしまえば、後はどうとでもなると思った。
「これがマンイーターか……」
手の中で朝日を反射して怪しく光る古めかしいナイフをまじまじと見つめ、僕は身震いした。こんなものの為に何人もの人達が、今まさに命の危機にさらされている。
「こいつさえ無くなれば、全てが終わる。お前の罪はコイツを壊したあとでゆっくりと償ってもらうぞ」
僕はマンイーターを逆手に持ち、力いっぱい地面に突き立てた。コンクリートの地面に切っ先がぶつかり、澄んだ金属音を立てて、マンイーターはあっけなく粉々に砕け散った。細かく割れた破片が周囲に飛び散り、その一つ一つに僕とリサの姿が映る。
ゆっくりと空中を飛ぶ破片が、ナイフを奪われ、なすすべの無くなったはずの男が不敵に笑う姿を映した。その不穏な表情に僕の直感が瞬時に危険信号を発する。
破片が全て地面に落ちると、男の姿がゆらりと揺れた。じっと目を見張ると、笑っているのだと分かった。
「あは、あはは……あははは! ……あーっはっはっはっは!」
大声を上げて笑い転げる男は、とてつもなく不気味に思えた。一体何を企んでいるのだろう? マンイーターはすでに無くなったというのに。
「あはは、ねぇ騎士さん。マンイーターを破壊して、それで終わりだと思った? 思ったよね? そう、終わり。僕の計画はもうすでに終わってるの」
予想に反して、男は自ら終わりを告げた。それはつまり敗北宣言のはずだった。
「でもね」と、男がぴたりと笑みを消し、一転瞳に冷徹な光を灯した。「もう、ここに来る前までに終わってたんだよ? わかる? バカでも分かるように説明してあげようか?」
男が両手を広げる。すると途端に地鳴りが鳴り響き、にわかに大気が震えた。
「僕はすでに最強の力を手に入れたんだ。そこにいるリサも、足元にも及ばないような、最強の力をね!」
男の声が大気を伝い周囲の壁に亀裂を走らせる。地鳴りは一層大きくなり、コンクリートの地面に大きなひび割れが起きた。
周囲の空気が歪むのが目に見えて分かった。朝日の輝く青空が、その様相を一変し、不気味な紫色へと変化する。空気がやけに重くなり、まるで高い山に登った時のように、吸っても吸っても呼吸は苦しくなる一方だった。
「……どうする? お二人さん。これからが本番だよ」




