第1話その8
合唱祭で学校中が慌ただしく動く日を、美鈴は待っていた。
学校が所有する700人集客可能なホールは、保護者や生徒たちで賑わっている。美鈴はその中に紛れていた。南織は1年椿組の指揮者。すぐに見つけられる。
1年生の出番は午前の早い時間だ。中等部は全学年で540名。保護者席を確保するために、生徒は自分達の出番が来るまでは教室で待機し、出番が終われば教室へ戻る。正午過ぎの結果発表後は流れ解散となるため、誰がいつ帰ったかが最もわかりにくい日といえる。
美鈴は前方の席で、椿組の発表をサングラス越しに観察していた。そして、すらりと伸びた手足の美少女が颯爽と現れたのを確認し、心の中でほくそ笑んだ。二葉が「天才」と言っていたが、見てくれも申し分ない。
結果発表が終わり、ホールのホワイエに出来た人だかりをよけながら、美鈴は南織の姿をしっかりと捉えた。南織は一人だ。保護者は来ていないらしく、まっすぐ出口へと向かっている。
美鈴はそっと後ろから近づき、人ごみに紛れて、南織の鞄に盗聴器を取り付けた。
南織はスクールバスを待たず、校門から少し歩いて幹線道路に出ると、路線バスに乗り込んだ。
(一体、どこへ・・・?)
真昼間のバスには人がほとんど乗っていなかった。南織が最後部の隅に座ったため、美鈴はさりげなく前方の座席へまわる。
人の入れ替わりがあまりないまま、バスは20分ほど走って、終点に着いた。
(ここは・・。)
そこは、市立総合病院だった。あまり評判は良くないが、この辺りには大病院が他にないため、患者はひっきりなしにやってくる。美鈴とて、医者だった身だ。しかも、つい1年前まで。兄の基も、父が体調を崩す5年前までは医師だったし、その後父が死ぬまでの2年間は、父の研究所を手伝いながら医大での研究も続けて論文を発表し、世間の注目を浴びていた。
懐かしい匂いがする。
慣れた空気が、美鈴に安堵感をもたらす。
しかし、ここで気を抜くわけにはいかない。
美鈴は、南織に感づかれないように後を追った。
南織は総合受付で手続きを済ませ、ロビーを抜け、1階の奥へと歩いていく。外来棟での受付をしたのだから、南織本人が病気ということだ。
だが、南織のたどり着いた先は、思いがけない科だった。
産婦人科。
(・・・!?)
美鈴は、南織が待合室のソファに腰掛けたのを確認すると、脇のトイレに隠れた。
個室に入り、鞄から白衣を取り出す。白衣は商売道具としていつも持ち歩いているが、病院でなら、内部まで入り込むのに都合がいい。個別の部屋へはセキュリティカードが必要だろうが、それ以外で歩き回るなら、白衣で堂々としていれば誰も怪しまないものだ。
それにしても、南織のような少女が、一体なぜこんなところへ来たのだろう。
美鈴は待合室から少し離れたところで南織を観察し、盗聴器からの音を拾うべくイヤホンを耳にあてた。
やがて、南織が入った第2診察室からの声が届いてきた。
美鈴は、その内容に愕然とした。
(まさか・・・!)
診察室から出てきた南織の表情から、動揺は見られない。
南織はおそらく、すべてを覚悟していたのだろう。
そこへほどなく若い女の看護師が現れ、南織を連れてエレベーターに乗り込んだ。
美鈴は慌てて後を追う。
二人の会話が、電波の雑音に紛れてイヤホンから聞こえてくる。
「今、先生がご家族と連絡をとっていますからね。しばらく、ラウンジでお茶でも飲んでいましょう。」
病院の最上階のラウンジ・・・というより、患者の談話コーナーのような場所に座った看護師と南織の姿を、美鈴は壁に隠れて確認した。看護師は紙コップに入った温かい飲み物を自販機で買って南織に差し出し、ここで待っているよう諭して、去っていった。
一人うつむいている南織は、紙コップに唇を少し付けたまま、動かなくなった。
三十分。
一時間。
まだ、南織の下へは誰もやってこない。
父親は俳優だと言っていた。そうそう、来られるものでもないのだろう。
夕方になり、談話コーナーにオレンジ色の日が差し込んだ。
南織の白い頬が、赤く染まる。
と、そのときだった。
南織がいきなり立ち上がり、ふらふらと歩き出したのである。
(えっ、ちょっと。)
美鈴が後を追うと、南織は屋上へ向かう階段を昇り始めている。その様子が、何だか死への階段を上りつめていくように見える。美鈴は固唾を呑んで、だまってその後を追った。
アルミ製の扉のシリンダー錠は、内側から簡単に開けることが出来る。
扉を開けた瞬間に、南織の短い髪がブワッと風に煽られた。
だが、その足は怯むことなく、まっすぐ、突き進んでいく。
やがて、屋上の手すりのところまでやってきた。
少しもためらうそぶりがない。
南織は、靴のまま鉄の柵に足をかけた。
「待ちなさい!」
美鈴は、思わず叫んだ。だが、南織は聞こえないように、そのまま身を空中へと乗り出す。
「待って!」
美鈴は南織の細い体に、背中から抱きついた。
「駄目よ、それは駄目!」
だが、そのセリフは南織の命を尊重したわけではない。生きた実験台が欲しい美鈴の気持ちから出た言葉だ。
南織は身体を思い切り揺さぶった。
「放して!」
「いいえ、放さないわ!」
美鈴は全力をかけて、南織を鉄柵から引き離した。そして、言った。
「私は医者よ。あなたの力に、なれるかもしれない。」
南織は泣き笑いの表情を浮かべた。
「医者なんて、あてにならないわ。私の意志だけではどうにもできないって言ったわ!あなただって、どうせ同じよ。」
「それはどうかしら?私は、法律とか倫理とかより、一人の患者の気持ちの方を優先させる質だけど。」
「・・・・。」
南織は、奥歯を噛み締めて何かを耐えているように見えた。
美鈴は、優しく言った。
「あなた、妊娠しているでしょう?」
「・・・。」
「その相手って、もしかして、あなたのお父さん?」
「!」
南織の驚きが、ダイレクトに伝わってくる。やはり、そうだったのか。さっき、診察室での医師との会話を聞いていて、南織が家族に知られたくない、父親の顔なんか見たくもないと叫んでいたのを聞いて、何となくそんな気がしていたのだ。母親は離婚していないというし、二人きりの生活で性的虐待を受けていたのでは、さぞ辛かったことだろう。
なのに、学校では優等生で、毅然としていて、そんなそぶりを微塵も感じさせなかった。
大した少女だ。だが、やはり、13歳の女の子だ。苦しみ、傷つき、今、その命を絶とうとしている。
美鈴は言った。
「私と一緒にいらっしゃい。あなたのお父様がここへ来ないうちに。」
「でも、中絶したって、どうせまた父の餌食になるのよ。父から離れられたとしても、絶対マスコミの目に曝されて、私の秘密がばれてしまう。そんなの嫌・・!」
初めて、南織の瞳から涙が溢れた。
美鈴は、南織を抱きしめた。
「大丈夫、私に任せて。あなたを、父親から解放してあげる。自ら死ぬことなんかないわ。あなたはこんなに素敵に生まれたのだもの。それに相応しい未来を、私ならあげることができる・・・。」
美鈴は胸元に仕込んでおいたクロロホルムを南織にかがせた。
目尻から頬を伝った泪が乾かぬうちに、南織は深い眠りについた。
美鈴は南織を抱きかかえ、非常階段から外へ出た。
そこには、あらかじめ連絡をしておいた研究所の手先が車を付けて待っていた。
「すぐに研究所へ。上等な獲物が手に入ったのよ。お兄様、きっと喜ぶわ。」
南織のしなやかな身体を自分の膝の上に横たえ、美鈴は静かに瞼を閉じた。