第1話その5
南織と初めての音あわせ。二葉はわざと下手に、つっかえながら弾いた。
「・・・もう、いいよ。」
途中で、南織は指揮棒を降ろしてしまった。こうなることを望んでやったことなのに、二葉の心はちくりと痛んだ。
南織は二葉に背を向け、言った。
「そんなに、嫌なんだ?」
「ううん、そうじゃないの。私・・・、もともと下手で。」
「じゃあ、上手くなるまで練習しなさいよ。言い訳なんて、聞きたくない。」
冷たい、きつい物言いに、二葉は思わず言葉を返した。
「真淵さんのような天才に、凡人のことなんかわかるわけないわ。世の中には、いくら努力したってできないこともあるのよ。誰でも、あなたのようにはいかないわ。」
肩越しに振り返った南織の目が、不快感を表していた。
「天才って言葉嫌い。私の努力を、全部否定する言葉よ。指から血が出るまでヴァイオリンの猛特訓をしても、『天才だから上手』でおしまいなんて。」
二葉は、肩を落とした。後悔した。
「もう、いいわ。私が先生に言って、代わりの人を探してもらう。自分の責任を果たさないで平気でいられるような人は、私も困るし。」
練習室を出て行こうとした南織を、二葉は引き止めた。
「待って!」
南織は、かまわずドアを閉めた。が、二葉はめげずに追いかけた。
「待って!明日、もう一度ひかせて!絶対、ちゃんと弾くから!」
奈織は、振り向いてくれない。しかし、少しの間のあと、背を向けたまま小さく言った。
「・・・もう一度だけよ。」
二葉は肩で息をしながら、だまって大きく頷いた。
嬉しかった。
南織に嫌われたくない。憎みあうための喧嘩なんて、できない。せっかく不登校になるきっかけをつくったというのに、それを自らぶち壊した。でも、こうせずにはいられなかった。
二葉は、楽譜を胸にぎゅっと抱きしめた。
しかし、現実は二葉の夢心地を許さなかった。その日二葉が家に帰ると、美鈴が嬉しそうに笑っていたのである。
「よかったわ、こんなに早く獲物が見つかるなんて。」
二葉は、ハッと息を呑んだ。
今日の会話!
南織が天才だと、口をすべらせていた。盗聴器の存在など、完全に忘れていた。
目が見開いたまま、二葉は硬直して動けない。
使命を忘れて軽はずみな行動をしたために、巻き込みたくない人を巻き込んでしまった。
「彼女は、駄目です!」
二葉は思わず、美鈴の足にしがみついて懇願した。
「他の人をみつけますから!彼女は、やめてください!」