第13話その1
季節は何度か流れ、再び一枚ガラスが結露する日々がやってきた。
骨の髄まで染みるような冷たい空気で目覚める。
(・・・今日からは、もう登校しないでいいんだ・・・。)
ターゲットの名を、10日前に美鈴に告げた。
そして昨日、美鈴はマンションに帰らなかった。
二葉は、ターゲットを選ぶことに躊躇いを感じなくなっていた。
今では、セシリアを冷凍催眠から目覚めさせるために、あと何人の生贄が必要なのか指折り数えている。
ダイニングで朝食を摂り、何気なく窓の外を見ると、景色がいつもと違うことに気付いた。
ひんやりとした空気を含んだガラスに近づくと、外は一面雪景色だった。
(めずらしい・・・。東京で雪なんて。)
だが、次の瞬間、二葉は不意にこめかみに鈍痛を感じた。
中学に入った頃から偏頭痛に悩まされてはいたが、今日のは特別に強い痛みだ。
瞼の裏からこめかみ、後頭部へかけて締め付けられるような感じと、時折金槌で殴られているような感じが交差する。
二葉はその場にしゃがみこんだ。
だが、どうにもならずソファに身体を投げ出した。
軽く口を開いたまま、目を閉じる。
美鈴がいれば薬をもらうのだが、その美鈴が今はいない。
薬棚は、鍵がかかっていて自由に開けられない。
このまま、痛みが治まるのを待つしかないのか。
こういう時、二葉は自分の罪を思い出す。
自分の犯している罪が、自分に返ってきたのだと思う。
セシリアとの美しい思い出は、記憶喪失の後遺症なのか、ほとんど思い出せてはいない。ただ、記憶を失う前からセシリアのために実験台を探し歩いていたという事実から、自分にとってセシリアがどんなに大切な存在だったかを推測して、自分を納得させている。
冷凍カプセルの中で眠っていた少女は、本当にセシリアなのか?
実在するセシリアは、二葉にとって本当は見知らぬ他人だったりはしないのか?
大体、本当に冷凍睡眠から目覚めさせることなど可能なのか?
そんな疑いを拭えない日もある。
だが、その疑いが現実だったとしたら、二葉はどうすればいいというのか。
美鈴の下を逃げ出すか?
研究所に逆らうのか?
耳たぶに埋められた盗聴器と発信機が本物である以上、反逆の先に待っているのは滅亡だけだ。それだけは、確かなことだ。
確かなことだけを辿っていけば、自分がすべきことは決まってくる。
研究所の所有物として生まれたときから、辿る道は決まっているのだ。
二葉が目覚めたとき、それは見慣れない、しかし、見覚えはある景色があった。
そこは、遠野遺伝子工学研究所の一室。
ハッと起き上がると、壁に埋め込まれたモニターの電源がつき、そこに遠野基の顔が映し出された。
『目覚めたようだね。』
二葉は画面をにらみつけた。
「どうして、私はここへ?」
『頭痛で倒れただろう?ちょうど健康診断もしなければならなかったし、美鈴に連れてきてもらった。良かったよ、発見が早くて。』
「・・・。」
『まだ暫らく休んでいなさい。もう少ししたら、食事を運ばせよう。』
休んでいろといわれても、もう眠くない。やることもないし、暇つぶしに考え事をすれば、嫌なことばかり思い出してしまう。肝心な記憶は、なかなか戻らないというのに。
白い天井。
臭いのない空間。
清潔というより、生物の存在を否定するかのような無機質な部屋だ。
宙を睨みつけていると、次々と人が倒れ死んでいった光景の記憶が蘇る。
そして、真崎潤一。
この研究所のオーナーだという彼を死なせたのは、二葉自身だ。
それを思い出し、二葉は思わず起き上がった。額を抱えて、眉をひそめる。
(そうだ、私はこの手で人を殺めていた・・。)
肺の奥が締め付けられるように痛みだし、息苦しくなる。
下唇を突き出して口を大きく開けても、肩だけが空しく喘いでいる。
と、その時部屋の扉が開いて白い防護服の人間が入ってきた。
新しく雇った研究員なのだろう。トレイにのった食事をテーブルに置き、そのまま退出していった。
褐色のスープにビスケット、それに栄養ドリンクらしき液体。
研究所での食事も、美鈴から与えられる食事もいつも一緒。味も一緒で、飽きるどころか口に入れるのを拒否したくなることも多い。これに比べれば、一斤100円足らずの食パンの方がずっとご馳走だ。
これらの食事から解放されたのが、真崎優三との1年間。
美しくて優しい女性は、ある日突然姿を消した。
初めの頃は優三を思い出して時々泣いていた。しかし、思い出すたびに幸せな日々が恋しくなるだけで今の辛さに耐えられなくなりそうになり、思い出すのをやめた。記憶の奥に封印しようと決めていた。
だが、研究所に来ればいやおう無しに思い出される。
白くて、柔らかな手だった。
荒れた心を抱きしめてくれた、救いの女神だった。
(本当に今、どうしているのか・・・。)
二葉が次に目覚めたとき、傍らには美鈴が立っていた。
氷のような眼鏡の奥で、美鈴の目が光った。
「そろそろ麻酔が覚める時間だと思って迎えに来たのよ。正解だったようね。」
「麻酔?」
「今回の検査は時間がかかったのよ。手術台にものってもらったし、途中で目覚められたら困るからきつめの麻酔をしたの。」
「・・・。」
「今日からは新学期まで仕事をしてもらうわ。」
「仕事?」
「編入試験の勉強をしながらできる仕事よ。楽でしょ。」
美鈴は、わけがわからないという顔をしている二葉の腕を引き、ある実験室に入った。
ベッドに勉強机、勉強道具の置いてある生活空間とガラスの壁面で隔てられた無菌室。その中に横たわる小型のカプセルを見て、二葉は思わず息をのんだ。
そこに眠っているのは、生後まもない赤ん坊だった。
思わず近づいて、ガラスにへばりついて中を覗く。赤ん坊は白い服を着て、すやすやと眠っている。睫毛の長い、目鼻立ちのきれいな赤ん坊だ。
「真崎優三の子どもよ。」
「!?」
ハッとして美鈴を見上げると、美鈴は腕組みをしたまま言った。
「真崎優三が2週間前に産んだの。人工児が産んだ初の人工児。貴重な試料よ。」
「・・・奥様(優三)は・・・?奥様は、今どこに?」
二葉の質問に、美鈴は一度唇を噛み締め、そして答えた。
「死んだわ。」
「死んだ・・・?」
「出産後、体力が残ってなくて。まあ、普通に考えても高齢出産だったし。人工授精に相当時間がかかったし。」
「父親は・・・どうしているんです?」
「父親は真崎潤一よ。あなたが殺したんでしょ。」
「え・・?」
美鈴は二葉の疑問に答えようと口を開きかけたが、躊躇し、やめた。
「仕事は、その赤ん坊に異常が出たら私に知らせること。それだけよ。私達は今新しい研究で忙しいの。監視カメラがあっても、一日中監視していられないのよ。監視ごときに割く人員もいないしね。」
優三が死んだ。
そして、その子どもがここに眠っている。
そんな思いがけない現実を、どう受け止めろというのか。
呆然とする二葉を横目に、美鈴は部屋を出ようと踵を返した。が、思い出したように立ち止まって付け加えた。
「赤ん坊の身の回りの世話は、定期的に研究員がやるから手を出さないで。それからその子、泣かないように造ってあるから、勉強の邪魔にはならないわよ。」
「泣かない?」
「最近多いじゃない?子どもが泣き止まなくてうるさいから殺しちゃうっていう親。夜泣きでノイローゼになる母親とかもいるし。そういうのの解決にならないかと思って、研究した結果よ。」
「それって、一生泣かないってことですか?」
「いいえ。言葉を話せない小さい子が自分の欲求を伝えるために泣くことを止めているだけ。」
「じゃあ、痛いとか、苦しいとかいうことは、どうやって伝えればいいんですか?」
「だから、あなたが監視するんでしょう?顔色が悪いとか、汗をかいてるとか、そういう細かいことに気付けっていうことよ。」
「それが、研究所の研究成果だというんですか。」
「何よ。何か反論したいの?」
「だって、そんな赤ん坊、変です。」
「変?便利じゃないの。」
「それは便利じゃなくて、わがままで自分勝手な人間の都合に合わせているだけです!赤ん坊は泣くんです、そんな当たり前のことを受け入れられない親の方をなんとかする研究をしてください!正常を異常にするのではなくて、異常な人間を正常にする研究をしてください!」
美鈴は、大声で笑い出した。
「あのね、ばかな人間は、正常を異常にする方には喜んで金を積むのよ。異常な人間が正常になったら、金儲けができなくなるからね。」
「研究の目的は、人類の発展のためだって聞いた覚えがあります!でも、泣かない赤ん坊を造るなんて、そんなの発展なんかじゃないですよ!」
パンッ ・・・ !
頬を叩かれ、二葉はよろめいて床に手をついた。
美鈴は唇を噛み、二葉を睨みつけた。
「あらゆる可能性を試してみるのが研究よ。何千何万の実験を繰り返して、その中で一体いくつの成果が得られると思うの?・・・気が遠くなりそうよ。しかも人間の寿命は限られている。その中でただ一つでも日の目を見る栄光なんて、ほんの一握りの人間にしか与えられない。父も兄も、表舞台に立っていた頃はノーベル賞候補なんて騒がれていたけれど、結局裏の世界に引きこもってしまった。何故かわかる?清く正しく安全な研究ばかりやっていては、発展に限界があるからよ!法や倫理を犯してまでも新しい分野に手を出せば、たちまち犯罪者として叩かれる!それでも世の中を変えようと頑張っている人もいるけれど、そんなの無駄なエネルギーよ。いつの時代も新しいことをやろうとする人間は批難される。でもそれがあって、初めて次の時代は発展するのよ。・・・私達は、世間に有無を言わせぬ完璧な研究結果を出せる日を目指しているの。そのためにはお金になる研究をしなければならないし、倫理や法に触れる研究もしなければならないのよ。」
美鈴は、ガラスの向こうにいる赤ん坊を見つめた。
「・・・別に泣かない赤ん坊を商品化しようなんて思っていないわ。何通りもの遺伝子操作、何千回の人工授精、その何億通りの組み合わせのうち唯一出産までこぎつけたのが、この赤ん坊だったというだけ。同じことができる二回できるかどうかも自信はないわ。ただ・・・貴重な存在ということに変わりはないのよ。」
美鈴にとってそれは、この世でただ一人愛した真崎潤一の遺伝子を継いでいる子どもだから。だが、そんなことは口が裂けても声には出さない。
二葉はゆっくりと立ち上がり、言った。
「わかりました。慎重に監視します・・・。でもそれは、研究所の貴重な試料だからではなくて、大好きだった奥様の・・・子どもだからです。」
「・・あんたの思惑なんかどうでもいいわ。しっかり仕事さえしてくれればね。」
部屋を出た美鈴は、大きなため息をついて、うなだれた。
優三の自殺未遂から、丸三年。
重体だった優三の体力の復帰までに1年以上。さらに2年近くの歳月をかけて、やっと成功した出産。
さすがに、優三の体力は限界だった。
潤一との子を産むことを頑なに拒絶していた優三だったが、妊娠が確実になってからは子どもを守るために一生懸命になっていた。母性本能というものを、美鈴が間近で見た瞬間だった。時々、優三が本当は潤一を愛していたのではないかと、疑いたくなるほどに。
そんな疑問が解消しないままに、優三は息絶えてしまった。
生まれたばかりの子どもの顔も見ないまま意識を失い、そのままになってしまった。
優三の人生が一体何だったのか。
それは、美鈴にはわからないことだ。
ただ、今確かに息づいている真崎潤一と優三の子ども。この子がどうなっていくかによって、優三の人生の意味も変わるのだろう。
「美鈴。」
不意に名前を呼ばれて、顔をあげた。そんな風に呼ぶのは、兄しかありえない。
「二葉の様子はどうだった?」
「大丈夫よ。赤ん坊の監視も、ちゃんとやるって。」
「そうか。」
「あの赤ん坊の養子先、見つかった?」
「・・・養子に、出すか?」
「当たり前でしょう。多忙な私達が子どもなんか育てられない。育て方もわからない。二葉だって、同じ理由で養子に出したじゃない?お兄様の、本当の娘なのに。」
基は、白衣のポケットに手を入れたまま、美鈴を見つめた。
「美鈴は、それでいいのか?」
「え?」
「お前が、育てたくなるかと思って。」
「冗談でしょう?私が、この歳で子育てなんて!?第一、私、子どもなんか大嫌い!」
「だって、潤一君の子じゃないか。ただ一つの、忘れ形見だ。」
美鈴は、キッと基を睨みつけた。
「だから、何?忘れ形見だろうと、関係ないわ。」
「美鈴・・・。」
「あの子はオーナーの子だけど、優三の子でもあるのよ。そんな子を育てられるほど、私はお人好しではないし、おめでたくもないわ!」
そう言い残し、美鈴は走り去った。
基は苦い溜息を残し、自室に戻った。
潤一の死から4年。だが、美鈴の傷は少しも癒えてはいない。だから、あんなに敏感に反応するのだ。
美鈴の啜り泣きが聞こえてくるような気がして、基まで苦しくなる。
(やはり、あのことは一生言うべきではないのだろうな・・・。)
美鈴の誕生にまつわる秘密。初代所長である基の父の威信をかけた、初の人工児。
(これ以上の事実を知ってどうする?もっと苦しくなるだけだ。美鈴の知っている事実。それ以上は何もない・・・それを貫くしかないだろう。)
だが、時々誘惑にかられる。
すべて、告げてしまいたくなる。
こんな研究所に生まれたためか、秘密を守ることには慣れているし、秘密を抱えることは基本的に苦痛ではない。
だが、何十年も胸に秘めたままでいると、時折は誘惑にかられる。
全部吐き出してしまいたくなる。
それで楽になるとは思わない。
多分、口に出した次の瞬間から、死ぬまで後悔することになる。
だから、我慢する。
何度も。
何度でも。