第12話その2
望美との会話を避けるように、二葉は始業ギリギリで登校した。
しかし、望美は教室にいなかった。
意気込んでいただけに、拍子抜けする。
遅刻か欠席か。
だがクラスメイトは、そんなこと誰も気にしていないようだ。・・・二葉だけを除いては。
普段と変わりなく、授業が始まった。
1時間目は世界史B。
望美は、世界史の授業が一番好きだと言っていた。曰く、「歴史はどんな物語よりもドラマチック」らしい。
「あー、今日の日直は誰だ?」
50歳すぎに見える担当教師の問いに、二葉はハッとなって立ち上がった。
「・・・はい、私です。」
「悪いが、職員室へ行って新しいチョークをもらってきてくれないか。」
「はい。」
二葉は一人、教室を出た。
と、その外には思いがけず、望美の姿があった。
「・・・何してるの?」
望美は「シッ!」と人差し指を唇にあて、小さく囁いた。
「だって、入りづらいから。」
「は?じゃあ、1時間目が終わるまでここにいるつもり?」
「・・・そうなるかな。」
二葉は呆れ顔で溜息をつき、
「今、チョークを取りに職員室に行って戻ってくるから、そしたら一緒に入ろう?」
「うん!」
望美はにっこり笑って、「ここで待ってる。」とばかりに、廊下に座り込んだ。
望美の屈託のなさは、二葉が普段背負っている重荷や緊張をことごとく崩していく。夕べ、非常階段で眠ったためにキシキシしている身体の痛みさえ忘れてしまう。
二葉が職員室から戻ると、望美は廊下の壁にもたれて転寝をしていた。本当に、どこまでも呑気というか、緩んでいるというか・・・。
「佐々木さん、行くよ。」
「んっ・・・。」
望美は目をこすりながら鞄を持って立ち上がり、二葉と共に教室に入った。
「18番、佐々木望美です。遅刻しました。すみません。」
教師に謝り、席に着く。
どうも、望美の遅刻はめずらしいことではないらしい。「またか。」という空気が教室全体に漂っている。
昼休み、二葉は望美から「お昼を一緒に食べよう。」と誘われた。
二葉は、クラスでは校則違反のレッテルを貼られた云わば「不良」である。誰も話しかけないし、当然ランチも一人だった。そこへ、クラスではやはり浮いている望美が声をかけたのだ。それは、周囲から見れば嫌われ者同士がつるんだ、みじめな二人組という印象だったのかもしれない。しかし二葉はそれを断った。
「・・・ごめん、昼は・・・ちょっと、」
曖昧な断り方が、複雑な事情を察知させたのかもしれない。望美はすぐに「あ、わかった。ごめんね。」と言って手を振った。
(「ごめんね」・・って、私が言うべきセリフだよ・・・。)
二葉は下唇を噛んだまま、ゆっくりと踵を返した。
今日の二葉の昼食は食パン2枚。バターやジャムも何もない、安物でパサパサの食パン2枚だ。そんな惨めな食事を、他人に見られたくない。普段は、美鈴が栄養バランスが整った固形食品とドリンクを持たせてくれる。それを間近で見られるのも嫌なので、昼食はいつも屋上の隅でひっそりと済ませる。屋上の立ち入りは原則として禁じられているため、誰かに見られる心配なく、落ち着いて食べていられる。
手すりから身を乗り出せば、灰色のビル街が一望できる。ところどころに不可思議な形のビルが飛び出し、その中央に赤い東京タワーが聳え立っている。
いくつ目の学校かは覚えていないが、一度、赤坂の迎賓館が近くだったことがある。もちろん中の砂利さえ踏むこともできないが、見上げるほど高く聳える優美な門扉が大好きだった。その映像だけは、なぜか左の脳裏に焼きついている。
(ヒトの顔は・・・覚えられないのに。)
あんなに大好きだったセシリアの顔も、記憶喪失前のことを思い出しきれていないからか、「尋ね人」のチラシに掲載されていた写真の笑顔しか覚えていない。ましてや、この間まで一緒に暮らしていた真崎優三の顔も、明確に思い出すことができない。断片的な記憶を繋ぎ合わせても、顔の細部まで頭の中で再現することができない。今一緒に暮らしている美鈴など、恐ろしくて正視したことさえないのだから、思い出す術もない。
その日は美鈴が帰宅していたため、家の中に入ることができた。
美鈴は、疲れた顔で二葉を眺めていた。二葉がその視線を見つめ返すと、美鈴は突然眉を吊り上げた。
「今、私を睨んだわね?」
次の言葉はおろか息を吐く間もなく、二葉は床に張り倒されていた。
「うざったい顔。人間の顔した生物なんて、見てるだけで吐き気がするわ!」
美鈴が研究所から戻ったばかりの時は、大抵すこぶる機嫌が悪い。そもそも美鈴が研究所に呼び戻されるときとは、研究所長の基の手に負えない事態が発生したときに他ならない。そしてそれは多くの場合、失敗に終わっている・・・と、思う。そうでなければ、相当疲れているのだ・・・と考える。
(私を憎んでいることはわかっている。何かあれば、すべて私に返ってくるのもわかる。)
美鈴の暴力に対し、二葉も始めは恐れ、膝を抱えて泣いていた。
だが、理由を悟って納得してしまうと、精神の苦痛は和らいだ。
夜通し泣くことも、授業中に思い出し泣きをするようなこともなくなった。
朝、制服に袖を通すたびに、決意を秘めた眼差しで玄関を出ることが出来る。
だが今は、その眼差しをことごとく崩してくれる存在がいる。
「おっはよう、遠野さん。」
席に着くや否や、満面の笑みで望美が出迎えてきた。
「・・・おはよう。」
「ねえ、数学の宿題やった?」
「そりゃあ・・・。」
「よかったぁ。あのね、答え合わさせて。」
「え?」
「全っ然自信がないの。ね、お願い!」
「そんな・・・、私だって自信なんかないよ。」
「平気!私より絶対正しいから。」
どこから出た根拠かわからないようなことを捲くし立てながらも、二葉はいつの間にか自分のプリントを机の上に出していた。
ぺタッと貼りつくように望美は座り込んでくる。
望美は二葉のプリントと自分のを見比べながら、眉間に皴を寄せていた。
「・・・駄目だ。修正しようもないほど私の答えと遠野さんの答えが違う。」
「え、そんなに違う?」
望美のプリントを逆に覗き込んだ二葉は、すぐに下唇を噛んだ。
「・・・ねえ、この問題、どっから答え出したの?式とか何にも書いてないけど。」
「ああ、それは見た目!」
「見た目?」
「そう。ほら、ここの角度でしょう?どう見ても45度に見えるから。」
「・・・駄目だって、そういう根拠のない答え出しちゃぁ・・。」
よくこれで名門校の中学受験を乗り切り、ここまで来れたものだ。クラスメイトの揶揄は伊達ではないということだ。
結局、訂正可能な箇所だけ即席で直させ、宿題プリントを提出した。
望美だって、普通の高校でならそこそこの成績がとれるのかもしれないが、この名門校では完全な落ちこぼれだった。
地味な見た目。
行動は緩慢で、運動神経も無い。
芸術方面の才能もないようだ。
あるのは、くったくのない明るさと人懐っこさだけ。
将来はこの性格を活かして、「俺がいなきゃコイツは駄目なんだ」的な男性に見初められるのを待つか。
望美は、一度心を許したらどこまでも、というタイプらしかった。
二葉がドライにかわしても、次の日には何もなかったかのように再びくっついてくる。
二葉も、懐いてきた捨て猫を振り切れないかのように、何やかやと相手にしてしまう。
望美を見ていると、時々フッと脳裏をよぎるものがある。
だが、それが何なのかは全くわからない。
落としてきた記憶が多すぎて、何が現実で何が夢だったのかわからなくなる。
思い出したことが「過去の記憶」なのか「思い描いたことのある幻想」なのか・・・
「あのね、明日は一緒にお昼食べてくれる?お母さんが二人分持たせてくれるから。いいでしょ?」
「・・・それは・・・。」
「アレルギーとかあるの?だったら言って。」
「それは無いけど。」
「じゃ、いいよね?ね?」
二葉が浮かべた曖昧な笑顔が、OKの返事になった。
両手を挙げて歓んでいる望美を見ていると、「それくらい、いいかな。」という気になってしまう。色々なことが、どうでもよく見えてしまう。
望美といると、楽だった。
気を使わなくていいから、息苦しくない。
無条件で懐いてくる子猫のように、望美は二葉に従順だった。
傍から見れば、二人は確実に「友人同士」だった。
だが。
二葉には、わからなかったのだ。
この「気楽」さは、望美を見下しているからこそなのだということに。
望美との付かず離れずの関係は、しばらく続いた。