第12話その1
温暖化の影響か、今年も桜の開花は早かった。
白桃色の花びらから緑の葉が覗き始めた4月の第一日曜、遠野二葉は高校の入学式を迎えた。
セーラー服の胸元を飾るネクタイを気にしながら、二葉はまっすぐ前だけを見据えていた。
初めてのことばかりで周囲は皆、不安以上の期待に満ち溢れた表情を浮かべているというのに、二葉の青白い顔は固い決意で強張っている。
クラス発表を見てから、教室へと向かった。
1年2組。
伝統校らしい趣の廊下に、木製の引き戸。だが、造りは頑強でロココ調の飾り彫りが施されている。
机の上に貼られた名札を確認して、席についた。
『トオノ』なんて中途半端な苗字は、いつも二葉を教室の中央に置く。
やがて教室の所々で、会話が始まった。クラスの3分の1は高校からの入学だが、残りは中学からのエスカレーター組。殆どが顔見知りだ。
新参者の二葉には、誰も話しかけない。
二葉も、誰とも目を合わせないように俯く。
(私がしなければならないことは・・・ただ一つ。)
奥歯を噛み締めながら、何度も、何度も呪文の様に繰り返す。
どんなに素敵な出会いがあっても、素晴らしい出来事があっても、それらはすべて蜃気楼にすぎない。
「それ、ピアス?」
突然の声に驚いて、二葉は息を呑んだ。
顔を上げた先には、二人の女子の厳しい表情があった。
「私達は風紀委員なの。新入生のチェックに来たんだけど、入学早々いい根性ね。」
二葉は、頬にかかるサイドの髪で耳元を隠しているつもりだった。だが、深く俯いていると、その髪が耳たぶから外れてしまうのだろう。
「私達と一緒に来てくれる?」
風紀委員と名乗った二人組は、ネクタイに刺繍された糸の色から、2年生だと推測できる。
二葉は、黙って立ち上がった。
美鈴の言いつけは、「絶対に問題を起こすな」。
ここで風紀委員に逆らって言い合いになるより、おとなしく職員室に行って、教師から風紀委員に「宗教上の理由」という届出を説明してもらった方が余波が少なくてすむ。
入学早々風紀委員に連れられた二葉は、その後、二度と風紀委員に注意されることはなくても、事情を知らないクラスメイトから「校則違反」というレッテルを貼られることになる。
誰からも声をかけられず、冷たい視線だけを浴びる日々が始まった。
(いいんだ。どうせターゲットを見つければ、不登校になるんだし。いい理由付けになるじゃない?そうよ。私はここへ、友達作りに来てるわけじゃないのだから・・・。)
それに、今まで見てきたものや味わった地獄に比べれば、どうということもない。
居心地の悪い教室の中央で瞼を閉じながら、二葉は同じセリフを何度も心の中で繰り返した。
5月のゴールデンウィーク明けの昼休みのことだった。
二葉の隣の女生徒が「キャっ!」と小さく叫んだと同時に、飲み物がばらまかれる音が床に響いた。
甘ったるいミルクティの臭いが立ち上る。
二葉の黒革の鞄にも、その飛沫はかかっていた。
「やだっ、ごめんなさい!」
黒いストレートボブの艶やかな髪を揺らして、少女は白いハンカチで二葉の鞄を拭き始める。その間も、ずっと「ごめんなさい、ごめんなさい。」と繰り返す。二葉を、よほど怖れているのか。それとも生来の性格なのか・・・。
「・・・もういいから、雑巾で机と床を拭いたほうがいいんじゃない?」
しゃがみこんだまま二葉を見上げた少女の眼は、ハッとするほどの漆黒だった。
「そうする。・・・本当に、ごめんなさい。」
少女が足早に教室を出て行くと、周囲からは溜息交じりの失笑が漏れてきた。
「ほんと、学習しないよね。」
「中学時代からずっとじゃない?よくここまで上がって来れたよね。」
「そうそう、数学なんか、20点以上採ったことないらしいじゃん。」
どこの学校でも、どんなに「名門」と世間で言われようと、人の口はいつも人を罵る。そういう時の人の顔を、鏡に映してみてもらいたい。きっと、どんなときよりも醜いはずだ。
(・・・なんて、犯罪者の片棒担いでいる私が言えることじゃないか・・。)
やがて、少女が雑巾を持って戻ってきた。
よく絞っていないらしく、水滴がポツリポツリと床を濡らしていく。
あんな雑巾で拭いたら、ミルクティが水で薄まるだけだ。
二葉は、少女に手を差し伸べた。
「その雑巾、貸して。」
「・・え・・?」
「貸して。」
二葉は奪い取るように雑巾をつかむと、ガラス窓から身を乗り出して、雑巾を力いっぱい絞り上げた。下は緑の芝生。人もいないし、別に問題はない。
「はい。」
しっかり絞られた雑巾を受け取った少女は、半ば唖然としていた。こんな予想外の展開を、受け入れきれていないのかもしれない。
午後の授業が始まり、二葉は初めて隣の少女を意識するようになった。
5時間目の古文の担当は70歳に近い品の良いお婆さん先生で、どうしても睡魔が襲ってくる。一応みんな必死でノートをとっているのだが、隣の少女は授業から20分後、見事に舟をこいでいた。時々ハッとして目をあくのだが、すぐ瞼が重くなっていく。
見てはいけないと思いつつ、二葉の目はすでに少女の様子に見入っている。面白くて、どうしても目が離せないのだ。
と、そのとき。
「佐々木さん!」
甲高い、年配女性特有の声音が、気だるい雰囲気を吹き飛ばした。
お婆さん先生の視線からして、「佐々木」というのが、二葉の隣の少女の名らしい。
「佐々木さん、佐々木望美さん!?」
しかし、望美はまだ夢うつつの状態だ。
二葉はためらいがちに、望美の腕をつついた。
「・・・え、なに?」
瞼が半開きの状態で望美は二葉を見ている。二葉は眉をひそめて、「前を見ろ」とばかりに、人差し指で前方を小さく指差した。
望美は不思議そうな面持ちで、何となしに教壇の方を見た。
そこに待っていたのは・・・・
結局、望美には放課後の居残りが課せられた。
「自業自得。」
嘲笑交じりの揶揄が飛ぶのを二葉は聞いたし、望美自身にも聞こえているはずだ。
しかし二葉にとって、それは他人事ではなかった。
同じような目に何度もあっているし、遠い記憶の中で、同級生からひどい暴行を受けた覚えがある。言葉の暴力も身体の暴力も、どちらも心に深い傷を刻みつけ、それは例え癒えても完治することはないだろう。
だから、望美を見ていると胸が痛む。
放課後、人気のない教室では、望美が一生懸命古文の課題に取り組んでいた。
望美の背後から、春の夕日が教室全体をオレンジ色に染め上げている。
二葉は、意を決して望美に近づいた。
誰とも親しくならず、ただ、セシリアのために任務を機械的にこなそうと思っていた。
しかし、どうしても望美を放っておけない。それに、望美の存在なら盗聴器で美鈴に知られても問題はないだろう。望美はお世辞にも美少女ではないし、特別な能力も認められない。統率力どころか、他人のお荷物にならないようにしているのが精一杯という感じだ。美鈴が欲しがる要素は一つもない。
「・・・できた?」
突然話しかけられて、望美はひどく驚いたように顔をあげた。しかもそこにいるのは、風紀委員に入学早々目を付けられた一癖も二癖もありそうなピアス女である。隣の席にいることを認識しながらも、できるだけ見ないように、関わらないようにしていた存在・・・のはずだった。今日の、昼休みまでは。
望美はびくびくしながら、「ううん、まだ・・・。」と、小さく言った。
二葉は隣に座り、課題のプリントを覘いた。
「・・・なんだ、今日やった所ばかりじゃない?」
「そう・・だけど、古文苦手なんだ。古文自体は嫌いじゃないんだけど、あの先生が・・・ね、何言ってるか理解できないっていうか、理解しようと思って一生懸命聞いていると眠たくなるっていうか・・・。」
二葉は、小さく笑った。
「わかる、それ。声も小さいし、黒板の字も小さいし。」
「そう!そうなんだよね!駄目なんだ、ああいう、メリハリのない授業。」
「私立って、定年無いのか聞きたいくらいよ。」
「あ、中学の時はね、骨董品みたいなお爺さんいたよ。歴史教えてくれたんだけど、本人が歴史の生き証人みたいな感じだった。」
二葉が声をあげて笑うと、望美も一緒になって笑った。
「知らなかった、遠野さんも笑うんだねー。」
「佐々木さんこそ・・っていうか、私、隣が佐々木さんっていう名前だってこと、今日初めて知ったんだけど。」
「ひっどーい!それはないよー。」
望美の笑い方は、予想外に快活だった。しゃべり口調も、はきはきしている。
二人は課題の答えを考えながらも、ずっと無駄話をしていた。
望美といると、二葉は自分でも不思議なほど沢山喋ってしまっていた。
それは、本当に楽しい時間だった。
6時過ぎに校門で別れ、その帰り道に二葉はふと、我に帰った。
こんなに笑ったのは、一体いつ以来だったのだろう?
盗聴器を忘れて、任務を忘れて会話をするなんて、今まであっただろうか。記憶に残っている限りでは、まず、ない。
(・・・駄目よ。今日は、調子に乗りすぎた。)
細い足に巻きついているソックスを俯き加減に見つめながら、二葉は呼吸を整えた。
いくら望美がターゲットになりえないとしても、これ以上深く関わることは許されない。二葉の素性を知られることも、不登校の理由を失うことも、美鈴が許さない。
恐る恐る家に戻ると、美鈴は不在だった。
こういう時、大抵美鈴は研究所に呼び戻されている。今日も、おそらくそうだろう。
二葉は安堵の溜息をついて、マンションの非常階段へとゆっくりと進んでいった。
マンションの鍵を二葉が持つことを、美鈴は許さない。
美鈴が不在の間、二葉は出入りの自由を奪われる。二葉が外出時に美鈴が出かければ、二葉は締め出しを食い、二葉が家の中にいる時に美鈴が出かければ、二葉は外出できない。このマンションはオートロックのため、美鈴が不在時に二葉が外出すれば、美鈴が戻らない限り家の中に入れない。その覚悟があるなら、外出すればいいということだ。
美鈴は、二葉を徹底的に支配するためなら手段を選ばない。二葉が自分自身を研究所の道具だと自覚するために、脈絡ない暴力を振るい、頻繁に口汚く罵る。持ち物も最小限しか買い与えず、娯楽や趣味なども当然許さない。
二葉は、屋内の非常階段の中央に腰を下ろした。
蛍光灯の青白い色があれば、怖くはない。
気候も良く、温かいし、空腹が満たされないこと以外は、問題はない。
(今日はここで眠るのか・・・。)
調子に乗っていた今日という日に相応しい罰かもしれない。
クラスメイトの誰しも、こんな生活を強いられている同級生がいるとは想像だにしないだろう。
階段の細い手すりに肩を預けて、二葉はゆっくりと目を閉じた。
明日には、また元の自分に戻ろうと思う。
今日のことなど無かったかのように振舞わねばならない。
それが自分に課せられた役割だ。
冷酷な眼差しは、得意だ。
少し遠くを見つめて、強い決意を心に宿せばいい。それだけで、誰も話しかけなくなる。
結局昨晩、美鈴はマンションに戻らなかった。美鈴は必要最小限の金しか二葉に渡していないため、今、二葉は五百円足らずしか所持していない。他の生徒の昼食代以下の金額で、あと何日過ごさねばならないのか、見当もつかない。いっそ空腹で倒れて病院に担ぎ込まれようかと一瞬思ったが、それが美鈴にばれた瞬間にセシリアの生命維持装置の電源が抜かれることを想像して、やめた。セシリアは二葉のアキレス腱で、研究所にとって最高の人質なのだ。
『全品税込み95円』が売りのコンビニで食パン一斤を買った。これが一番お腹を満たす。一食2枚ずつ食べても4食分あるのだから、おにぎり一つ買うよりずっと経済的だ。
公園のベンチでパンを手で千切りながら大事に食べ、水のみ場で喉を潤してから、学校へ向かった。
時折、真崎家にいたことを思い出す。
通っている学校のグレードは変わらないのに、この生活は落差がありすぎる。優三は十分な愛情と、金と、衣食住を保障してくれていた。今と同様に外出の自由などは無かったが、それでも満たされていた。
その優三は、今、どうしているのかわからない。
真崎潤一が死んだとき、優三の瞳も死人のようだった。だが、1年間二人だけで生活している中で、優三は二葉を守る責任感で生気を奮い立たせているように思えた。
あの1年だけだったかもしれない。
研究所に引き取られて以来、人間らしい扱いを受けたのは。
本当は、優三も、二葉も、「人間」ではないのに。
研究所で人工的に作られた、ヒト型の「生物」で、「試料」に過ぎないのに。
だから美鈴は二人の生活を未だに「人間ごっこ」と揶揄するのだ。