第11話その2
優三は青ざめて、首を振った。
「私が何歳だと思っているんです?」
「そう。だから急いでいる。やるなら、これが最後のチャンスだ。」
それを聞いて、優三は苦笑した。
「・・・真崎潤一が生きていたら、できない実験ですものね。所長にとっては、天の采配とでもいうのかしら?」
「そうだな。しかしこれは、私だけの意思ではない。」
「え?」
「オーナーの、遺言だ。」
優三の臓器が、無数の棘が突き刺さったように痛んだ。
「どういうことです?あの人は、私に道具としての使命を全うして朽ち果てるよう遺言したはずです。」
「そうだ。そのとおりじゃないか。道具としての使命とは、私の実験台になることだ。」
「嫌です・・!」
優三は、眉根を寄せ、哀願を込めた眼差しで訴えた。
「私が研究所の所有物だということは承知しています。実験台として刻まれることも覚悟はしていました。でも、どこの誰だかわからない男の子を孕むなど、絶対に嫌です!」
「知らない男ではない。使うのは、真崎潤一から提供された精子だ。」
「なっ・・・!?」
目の前が真っ白になる。
次から次へと明らかになる事実に、眩暈がする。
「彼は『もしもの時』に備えて、随分前に命じていたのだよ。」
「あの男は・・!私と結婚した時に言ったのですよ、『子どもは要らない』と!」
「だから、『もしもの時』なんじゃないか。」
優三は、邸宅を去る間際に言った潤一の言葉を思い出していた。
― 俺たちは、跡継ぎをつくっておけば良かっただろうか。 ―
そして優三は、こう答えた。
― それは、人工的に?それとも自然に?―
初めて、潤一と自分が夫婦であると感じた瞬間だと思っていた。
その甘い切なさで、つらい過去を少しは拭えたと思っていた。
だが、潤一のセリフは、こんな未来を暗示していたのだ。
あのセリフは、潤一の人間らしさとか、後悔の念とか、そんなものではなく、ただの宣告だったのだ。
「死んでなお、私を支配するのですか・・。」
「君は、真崎潤一のために作られた道具だからな。」
「だからこそ、自分が死んだら私も殺せと言ったはずです。」
「そうだ。わからないか?遺伝子操作された子どもを出産した母体は、今まで例外なく、16人とも直後に死亡している。」
「・・・!」
優三は自分に迫った死を、初めて実感した。
ついさっきまでは、心のどこかで期待していた。
研究所から逃れて、自由に生きていけるんじゃないかと。
3つの選択肢。
だが、それは幻想にすぎなかった。
優三を待っているのは、確実な「死」だけだったのだ。
選択権など、端から無かったのだ。
唾を呑み込むこともできないほど緊張した喉で、優三は言った。
「また・・・私や二葉と同じ運命を作り出したいですか?私も二葉も不幸です。不幸な人間を作って、どうしようというのです?」
「人類発展の礎となるのだよ。」
「不幸な子が生まれることが『発展』ですか?」
「不幸かどうかは本人の問題だ。大体、この世に幸福な人間が一体どれくらいいると思う?産まれて間もなく親に殺される子もいれば、大切に育てた子どもに殴り殺される親もいる。幸せの絶頂だと思っていた矢先、通り魔に殺されたり、詐欺で全財産失って首をつる老人もいる。人間とは本来、不幸を背負って産まれるのだよ。それをどう受け止めるかが問題だ。人工児である君だって同じだ。君はこの世で一番美しい。例え遺伝子操作の結果だろうと、その美点を持って産まれたことを喜べばいいんだ。幸せだと思えばいいんだ。この世には、美点を一つも備えずに生まれる人間が殆どなのだから。」
「そんなの・・・!科学者の傲慢です。遺伝子操作で美点を備えた人間を作り出して、『喜べ』だなんて。」
「じゃあ聞くが、整形手術で美人になるのと、遺伝子操作で美人をつくるのと、何が違う?双方とも人為的につくられたものだろう?」
「違いますわ!整形は本人の意思で行われるものではありませんか?でも、私は違う!それに私は、人間が、自分の意のままに人間を作り出すことがおかしいと言ってるんです!そんなもの、人類の発展ではありません。自然への冒とくです。発展どころか、私は、滅亡をもたらすと確信しています!」
基は眉をひそめた。
「そういう凡人の言い分は聞き飽きている。倫理なんて、世の中で起こっている理不尽な事象の中では虚しい理想にすぎない。正義を振り翳しても、悪に殺されればそれでお終いじゃないか!人には、それぞれの生きる道がある。私は、私の道をとうに理解し、受け止め、全うしている。優三も、同じだ。観念していたはずだろう?真崎潤一が死に、同時に死人にされて、もう、どういう結末を辿るべきか覚悟しているだろう!?」
「いいえ・・・、いいえ!」
優三は振り絞るような声で反抗した。
「もう、沢山です・・!私は、私として生まれながら、私の思うように生きられない。誰かの所有物で、その呪縛から絶対に逃れられないなんて!」
「それが、君の運命なのだよ。君の生まれた理由を考えればわかることだろう!?」
基は立ち上がり、優三の腕をつかもうとした。
が、差し出された基の手から逃れるように優三は身を翻した。
「優三!」
フランス窓を勢いよく開け、優三はベランダに出た。
冬の冷たい風が、基の胸元に吹き荒ぶ。
ラベンダー色のロングスカートが優三の細い足にまとわりつき、クリーム色のブラウスが風をはらんではためいている。
優三は、決死の形相で基をにらみつけた。
「所長、よく覚えておいてください!運命とは、自分で変えられるものなんですよ!」
「違う!どんな事象も、すべては必然だ!人間は、自分の意思で選択した道を生きていると思っているが、それは違う!人事を尽くして天命を待つ!それが人の道だ!!」
優三が何を考えているのかわかるから、基は迂闊に手を出せない。
こんなにも背筋がざわめくのは、優三の本気を勘付いているからだ。
優三の白い肌が、透き通るように青い。
沈黙が続くことが怖い。
だから基は叫び続ける。
「こんなところで死んでみろ!警察の厄介になる!死人であるはずの君が生きているとなれば、真崎の家はどうなる!?」
「素敵だわ!そうよ。私はずっと真崎家の正体を世間に暴露してやりたかった!他人の介入を得るために何度も自殺を図ったし、逃亡もした!でも、ずっとあの男に阻止され続けてきたのよ!それがこんな形で叶うなら、これ以上のことはないわ!」
基は、優三を引き止めるための手段を次から次へと模索した。
「二葉は!?二葉にはどう説明する?また精神を病むぞ!」
「そうしたら、所長がまた手術すればいいじゃないですか?『記憶を消す』!傑作だわ!」
基は胸に麻酔銃を隠し持っている。
だが、それを優三に悟られたら最後、飛び降りられてしまうだろう。
あとは、引き金を引くのが早いか、飛び降りるのが早いかの差になる。
優三の美しさが、儚い命を象徴しているようで怖い。
基は、わからなくなっていた。
今、優三を引き止めている理由は何か。
大事な実験台を失いたくない、それに尽きるのか。
それとも、人の命を、失わせたくないのか。
それとも、多くの悪事が世間に曝されることを怖れているのか。
優三の黒い瞳が、ふと力を抜いて揺れた。
「思い出しましたわ。・・・私の罪を。」
「罪?」
「私は一度だけ、殺人教唆の罪を犯していたんです。」
「・・・そうだったか?」
「二葉がひどいいじめにあった時、いじめた生徒を誘拐するよう頼んだのは私です。実験台として刻んでしまえと言ったのは私!なのに、今の今まで忘れて、聖女面していたんです。人から後ろ指指されるようなことはしてこなかった、なんて思っていました。何という愚かしさ!人からの仕打ちは死ぬまで忘れないのに、自分がした仕打ちは簡単に忘れてしまえる。」
基は、息を殺して優三の次の行動を見守る。
優三のセンチメンタルな告白は、死と生の狭間にある。
紙一重の危うさ。
優三の唇が、大きく開かれた。
「人類の発展なんておっしゃるなら、己の犯した罪を絶対に忘れない遺伝子を作りなさい!人にとって本当に必要なものを、人間が作り出せるなどと思い上がっているのなら!!」
と、次の瞬間。
優三がベランダの手すりに指をかけた。
基はハッとして、胸元に手を入れる。
優三の体が半分、鉄柵より上に乗り出した。
いけない。
引き金を引いても、身体は下へ落ちてしまう!
基は咄嗟の判断で、足を踏み出した。
たった三歩!
それが、こんなに遠いとは!
基の手は、宙に揺らめくスカートの端をつかんだ。
だが、それは空気を掴むのと同じ結果しかもたらさなかった。
ズシッ・・・
重い音と振動が、基の身体を突き抜けた。