第11話その1
2月。
小雪の舞う灰色の空の下、優三は一人電車に揺られていた。
今日は、二葉の入試結果が発表される日だ。
優三個人としては、合格でも不合格でもどちらでもかまわない。二葉が入学する目的は、実験台を探すためにすぎないからだ。
だが、この1年の二葉の努力を思うと、合格させてやりたいとも思う。
二葉の記憶は完全に戻ってはいなかったが、セシリアの事と、実験台にすべき生け贄を探す使命だけはしっかり思い出していた。だが、それとは別の次元で「知識を得る」ことに非常に貪欲だった。今までまともに勉強できなかった分を取り戻すかのように、優三の少しの手解きさえあれば、難関校の入試問題を解けるまで机を離れずに追求し続けた。
遠野一族の遺伝か、遺伝子操作の結果かは不明だが、二葉の知能は高く、スポンジごとく知識を吸収していく。二葉はこの能力を、中学時代は発揮できずにいたのだろう。
地下鉄に乗り換えると、窓に映る自分の顔の後ろに他人の視線が映る。
優三は、どこで昔の知り合いに会うかわからないため、長かった巻き髪をショートにし、必ず色つきの眼鏡をかけて出かけていた。化粧も最低限に抑え、服も地味なものばかり揃えた。 しかし外出するたびに、優三は自分がどれほど注目されてしまうかを実感するのだ。
真崎優三である時は、注目されるためにつくられたのだから、人目に曝されるのが当然だった。マスコミのへの露出も度々あったし、注目されることに慣れていた。だが、今、こうして目立たず生きねばならない存在になった時、自分の容姿の特異性に気付くのである。
「・・・女優さんじゃない?」
「そういえば、どこかで見たことあるかも。」
「すごい綺麗。一体いくつかしら?」
そんな囁きがあちらこちらから聞こえる。
どうしてだろう。
真崎優三である時も、人の噂の的だった。それに慣れきっていて、気にも留めなかった。
だが、今は、人の声も視線も煩わしい。
放っておいてくれ、と思う。
じろじろ見ないで、と思う。
人から逃れるように地下鉄を降り、優三はホームから出口へと、ひたすら下を向いて突き進んだ。こういう状況を二葉に察して欲しくなくて、二人で外出したことは一度もない。
地下鉄独特の埃臭さに耐えながら階段を上りきると、すぐ右手に見える歩道橋を渡り、オープンカフェや外資系オフィス、大使館が連なる街並みを抜けていく。
かつてはこの街を、いつも高級車で通り過ぎていた。ゆっくり一人で歩いてみたいと思っても、それは許されない望みだった。
ふと立ち止まり、ショーウィンドウを見つめてみる。だが、その中に飾られているのは今の自分とは無縁の産物だ。
潤一の死から約1年。
念願の自由は、まだ手に入らない。
(いえ、多分一生手に入らないものなのかも・・。)
潤一が死んでも、研究所の所有物であるという変わらぬ事実。
いつだったか、美鈴が言っていた「真の自由なんてこの世にありはしない。」というセリフ。
(それは、私達のような者には自由なんて与えられるわけがないという意味だったのか・・?)
レンガ造りの古い門柱を潜り抜け、まだ寒々としている桜の木の下に、合格発表の掲示板が設けられていた。もう昼過ぎのため、係員以外には誰もいない。
優三は瞳を伏せ、一度、軽く深呼吸をしてから掲示板を見上げた。
左端から、ゆっくりと数字を追っていく。
そして。
それは、安堵の溜息だった。
係員に促され、入学の手続きをするために校舎内に入る。
事務室は、鉄骨造の近代的な建物の1階にあった。伝統ある旧校舎とは対称的で、壁一面がガラス張りになっている。
優三が書類を受け取り、必要事項を記入していると、不意に後ろから声をかけられた。
「あの、失礼ですけど。」
思わず振り向き、優三は心臓が止まるかというほど驚いた。そこには、かつての知り合いが立っていたからだ。
だが、あくまで知らぬ振りをせねばならない。
優三は冷静に唇を閉じ、見知らぬ人に対する眼差しを作った。
女性は優三の顔を見つめながら、
「ああ、やっぱり私の昔の知り合いによく似てらっしゃるわ。」
と言った。優三はそこで初めて、口を開いた。
「そうですか。」
「ええ。でも、やはり違う方なのよね。あの方は、亡くなってしまったのだから。」
「・・・そんなに、似てますか。」
「ええ、声まで。本当に美しい方でした。あんな、神の気まぐれのような美しさは二人といないと思っていたのに、またお目にかかれるなんて。」
優三は、苦笑しながら、再び書類に目を戻した。
あまり関わりたくない。どこで、どう疑われるかわからないからだ。
だが、女性は執拗だった。
「あの、私の娘も合格しましたの。同じクラスになるかもしれませんわね。」
優三は、女性の方は見ずに「ええ、そうですわね。」とだけ答えた。
優三の余所余所しさに、女性は「では、失礼します。」と言って去っていった。
深く息をついて、優三は冷や汗を拭った。
昔の知り合いに会ってしまったのは、今回が初めてだった。知り合いは誰も彼もセレブリティで、電車に乗るような人も、スーパーに買い物に出るような人もいないからだ。だが、学校が一緒になれば、会う可能性は高い。高校生くらいの子を持つ人も多く居たし、この名門校に通わせている人も、少なくないはずだ。
(・・大丈夫。どうせ、私はもうお払い箱になる身。このまま二葉の母親代わりでいられない。だから・・・大丈夫。)
こんな心臓の高鳴りも、今回限りだ。
そう思うと、急に切なくなった。
1年という、期限が近づいている。
遠野基から受け取った1000万円は、家賃を支払わずに済む二人暮らしには十分すぎ、まだ半分以上残っている。何が起こるかわからないため、優三は節約を重ねていたためでもある。
二葉を連れて、逃げるか。
発信機を感知されない場所まで行けば、自由にならないか。
それは、1年中何度も何度も考えたことだ。
しかし、死人として処理された優三が、二葉を抱えて生きていくのは余りにも難しすぎた。 人目を気にするため、美貌を活かすこともできない。働いたことのないお嬢様育ちの優三は、自分に何の仕事ができるかもわからない。
選択肢は、3つある。
一つは、遠野基の言うとおり研究所に戻り、試料としての使命を果たすこと。
二つ目は、二葉を連れて一緒に逃げること。
そして三つ目は、二葉を残し、一人で逃げること。
その三つ目を考えるたび、優三の胸の奥がチクリと痛む。
基は、優三が二葉を捨てて逃げないと踏んでいるようだが、不可能ではない話だ。有効な発信機を持たない優三の居場所を、基が探し当てることは難しい。一人でなら、逃げ果せる。そして、真の自由を手に入れるのだ。
(いいえ、それはやはり・・・できない。)
もし、基が優三を解放すると言ってくれれば問題はない。だが優三の本当の希望は、優三自身だけでなく、二葉の解放も叶うことなのだ。
だが、それは期待するだけ無駄だろう。
スパイ活動を終えた遠野基は、優三が知っていた基とは違っていた。基のことを、それほど知っていたわけではない。だが、二葉を救うために潤一に土下座をし、命の危険を承知でスパイ活動に出た基とは、やはり別人だと思う。
基は何度も言った。「私は、私の試料を守るために動いたのだ。」と。
基にとって二葉だけは、ただの試料ではない思っていた。
それは、誤解だったのだろうか。
それとも、1年のスパイ活動が、基の精神に何らかの変化をもたらしたのだろうか。
やがて、新宿の自宅マンションに戻ってきた。
二葉は無事合格したというのに、浮かれた気持ちは全くない。
(ううん、駄目よ。私のことと、二葉の合格は別問題。ちゃんと、笑顔で褒めてあげなくちゃ。)
そう言い聞かせ、優三は玄関のドアを開けた。
「ただいま。」
だが、そこに待っていたのは二葉だけではなかった。
噂をすれば影。というように、思えば影が現れる。
背の高い、細身のスーツ姿。
「・・・所長・・!」
基の脇には、二葉がうつぶせに倒れている。
「二葉に何を!?」
優三の剣幕に、基は笑った。
「何もしないよ。ちょっと眠らせてあるだけだ。これからの会話を聞かれたくなかったんでね。」
「・・それなら、席を外させればいいだけの話ではありませんか。近くには色んな店がある。時間を潰すことなどわけが無いでしょう。それなのに、すぐ薬を使うなんて。・・・身体にいいわけがないのに。」
「・・・そうだな。まあ、いいから座ってくれ。」
二人は丸い卓袱台に向かい合って座った。
基は胡坐をかき、優三は正座をして姿勢を正した。
基は、美鈴に良く似た細い切れ長の眼で、優三を見つめた。
「もう、逃げることは不可能になったね。」
「そうでしょうか?ついさっきも、どうすれば逃げられるか考えてたところですけど。」
「逃げられないだろう?二葉を捨てても、君は一人で生きてはいけない。生きる術を教わらずに40年近くも生きてしまったのだから。」
「死ぬ気になれば、いくらでも生きられます。」
「生きることは、出来るさ。その美貌なら、どっかの金持ちが買ってくれる。」
優三は、鋭い視線で基を睨み付けた。
「私は、自由が欲しいんです。自分の意思で、自分の人生を生きたいんです。誰かの所有物でいることが、嫌なんです。」
すると基は、苦い表情を浮かべた。
「自由なんて、この世に存在しない。そんなものを望んではいけない。」
「美鈴さんと、同じ事をおっしゃるんですね。」
「・・・そうだ。人は一人では生きていけない。他人の存在は、自由を奪う。だから真の自由など存在しないんだよ。」
それは違う。
そう思ったが、それ以上の反論が浮かばず、優三は口を噤んだ。
基は肩の力を抜き、言った。
「研究所に戻るから、支度をしなさい。」
「・・・嫌だと言ったら?」
「優三。・・・この1年で私は研究所を立て直すために奔走し、やっと次の研究に着手する準備を整えた。君は、その実験台になるんだ。」
優三は、膝の上の拳をギュッと握り締めた。
「私に・・・一体何を?」
「遺伝子操作の人工児を母体とした生命の誕生。・・つまり、君に、遺伝子操作された子どもを産んでもらいたいのだよ。」
「!!」