第10話その8
必死の治療も虚しく、最後の研究員が死んだ時・・・美鈴の張り詰めた神経は切り裂けた。
美鈴はうなり声を上げながら、傍にいた二葉の襟首をつかんだ。
「全部・・・全部お前のせいよ!!」
潤一が死んだときも、残りの研究員を救おうという気持ちで理性を保っていた。
しかも、薬物の力を借りて、かろうじて肉体を維持していたような状態だった。
そんな美鈴には、もはや一かけらの理性も、情も残されてはいなかった。
鬼とも悪魔ともつかぬ形相で、美鈴は二葉に迫った。
「お前がすべての元凶だ!お前さえいなければ、こんなことにはならなかったのに!」
二葉は、恐ろしさに声も出ない。身動きもできない。
そこへ、騒ぎを聞きつけた優三が飛び込んできた。
「美鈴さん!」
美鈴は、持っているメスで今にも二葉を殺害しようとしている。優三は慌てて美鈴の細い腕をつかみ、叫んだ。
「二葉に罪はないわ!」
「この娘は生きていること自体が罪よ!存在そのものが、罪よ!!」
美鈴は正気ではない。
二葉を殺害し、その後、自らの命さえ絶とうかという状態だ。
と、その時だった。
「奥様、そこをどいてください。」
優三はハッとした。
久々に聞いた二葉の声。
二葉は、優三を忘れてはいなかった。
二葉は震える唇を必死に押さえながら、しかし落ち着いた目で優三を見つめた。
「奥様は、研究所から出てください。私はここで、主任に殺されます。」
「・・・なんですって!?」
「私が犯した罪です。私のせいで、この研究所の人たちも、オーナーも死んでしまったんです。私だけが生き残るわけにはいきません。」
「それは違う!未知のウィルスなんてものに興味を示して弄んできた研究所自体が招いた結果よ!二葉のせいじゃないわ!」
「いいえ。私がオーナーを傷つけなければ、こんなことにはならなかったんです。」
「そのとおりよ。」
美鈴は優三の手を振り払い、仁王立ちになって二葉を見下ろした。
「よくわかっているじゃないの。道具のくせに人を傷つけ害をなした、その償いをするがいい!」
美鈴はメスを握りなおすと、思い切り振り上げた。
「私がこの手で、壊してやる!!」
「美鈴さん!!」
優三の悲鳴が、美鈴の暴走心を更に掻き立てる。
二葉は覚悟を決めたように、瞳をギュッと閉じた。
3人の、同じ運命の下に生まれた女達が集うとき、複雑な思惑が絡まりあう。
美鈴の目の前に、優三の柔らかな巻き毛が舞った。
勢いで振り下ろしたメスが、髪の一部をかすめる。
思い通りにならない苛立ちが、美鈴を更に凶暴化させた。
「どけ!私の邪魔をするな!」
「そんなに人を殺したいの!?人の命を救うために働いていたあなたが、またその手を汚すの!?」
「二葉は人ではない!ただの道具で、ただの生物にすぎない!」
「『命』には変わりないでしょう?」
「そうだ。この世に存在すべきでない、余計な命だった!」
「それを作り出したのがこの研究所じゃない!?すべては、研究所が招いた災いなのよ!」
「ちがう!すべての原因は、この禍々(まがまが)しい人工児のせいよ!!」
「そんなに殺したいのなら、私を殺してからにしなさい!」
優三は白い額に粒のような汗を浮かべて、美鈴を睨みつけた。
「真崎潤一亡き後は、私も朽ち果てるのだと言ったわね?ならば、今ここで、私を殺せばいい!」
「・・いいえ!奥様、それは筋違いです!」
「二葉は黙っていなさい!」
後ろの二葉を振り向きもせず、優三は大声を張り上げた。
とりあえず、美鈴の暴走を止めたい。自分を傷つけることで少しでも気が静まるのなら、それでいい。
美鈴は、左目を歪めて引きつった笑いを浮かべた。
「誰かを睨みつける表情さえ、憎らしいほど美しいわね。」
優三は唇を噛んだまま、身じろぎもせずに美鈴を凝視し続けた。
次の瞬間には喉を欠き切られてもおかしくない状況だ。
そして優三に、その覚悟はできている。
美鈴は左手でおもむろに眼鏡を外すと、床に投げ捨てた。
一重の切れ長の眼。
レンズ越しではわからなかった、素の感情がむき出しになる。
優三はありったけの勇気を奮い立たせ、叫んだ。
「・・・さあ、この作り物の顔を傷つけるがいい。用済みになった道具を、壊せばいい!」
美鈴にとって、優三は『夢』だった。
いつも、いつだって、優三になりたかった。
特別な頭脳なんかいらない。あの容姿と、真崎潤一の両方を手に入れる、その運命が欲しかった。それなのに、優三はそのすべてを否定した。
何という贅沢!
例えそれが仕組まれた人生でも、美鈴なら喜んで甘んじたのに。
だが、潤一が望む要件を、美鈴はまったく備えていなかったのだ。
それに気付いたとき、美鈴は思った。
絶対に報われない想いでも、一生密かに思い続け、尽くすことが許されるのならば、それだけで幸せだ、と。
それなのに、そのささやかな幸せを奪われてしまったのだ。
同じ地上で、同じ空気を吸って、研究所という媒介を通じて繋がっていられたのに。
それだけを、一生の支えとしていくはずだったのに。
それだけが、この荒涼とした人生の、ただ一つの希望だったのに!
優三は、そんな美鈴の思いを理解しているつもりだった。
美鈴の切ないほどに恋焦がれる思いが、羨ましくて。
でも、美鈴は優三を未だに羨ましく思う。
潤一が死んでも、やっぱり優三は潤一の物で、潤一の妻なのだ。
それは、美鈴には絶対越えられない壁なのだ。
美鈴は、銀色のメスを握りなおした。
優三を殺したって、この気持ちは治まらないだろう。
二葉を殺したって、潤一が生きかえるわけではない。
そんなことはわかっている。
だが、復讐や敵討ちはいつの時代にも存在しているではないか。
この世で一番大切な人を奪われた恨みを晴らす方法が殺戮以外にあるのなら、教えて欲しい。
美鈴は、下唇を引き締めなおした。
優三の白い喉元が、震えるように脈打っている。
どちらも決して視線を逸らせることなく、にらみ合っている。
と、その時だった。
パ・・・ン!
優三にも、二葉にも、そして美鈴にも、何が起こったのか訳がわからなかった。
しかし次の瞬間、美鈴の手からメスが滑り落ち・・・
ドサッという音をたてて、その身体が地面に崩れた。
「優三、・・・二葉!」
突然、後ろから耳慣れない男の声が響いてきた。
とっさに振り返ると、そこには黒いスーツを着た遠野基がいた。
基は麻酔銃を手にしながら、ゆっくり二人に近づいた。
この世にまだ人が存在したのかと思うほど、基の存在が特別に見える。
次々と研究員が死ぬ中で、優三も二葉も、もう、この世の果てが訪れたと思っていたからだ。
スパイ活動を終え帰国した基が目にしたのは、研究所の入り口にかけられた最高レベルのセキュリティだった。今まで、用いたことがない。このシステムは、外部からは、所長である基しか解くことはできない。
研究所の中は奥へ行くほど凄惨で、部屋ごとに眠る死体によって、基は何が起こったかを確信した。
そして、この有様だ。
真崎潤一が亡くなって美鈴が大人しくしているわけがない。
基は暫らく事の成り行きを見守り、美鈴に麻酔銃を向けるタイミングを見計らっていたのだった。
驚いたような表情の優三に、基は「何があったのか、説明してくれないか。」と言った。
優三は思いつくままに事の経緯を堰を切ったように話した。色々なことがありすぎて、時間軸に忠実になど話せない。ただ、自分が見、知っていることを伝えるだけだ。
二葉にとって、基は過去の人だった。思い出すまでに、多少の時間を要した。どちらにせよ、基が二葉に話しかけることは無かった。
基は眠っている美鈴を肩に背負い、優三たちに着いて来るよう命じた。
セキュリティゲートを抜け、死の臭いから大分はなれた部屋までやってきた。
研究所の入り口に近い客間。座る間もなく、基は優三に尋ねた。
「オーナーから預かってるものはあるか?」
「・・・ええ。封書をいくつか。あの人が死んだら投函するよう言われてました。」
「どこにある?」
「入り口脇の金庫に、美鈴さんが入れてくれました。」
基は、すぐに部屋を出た。
優三は固唾を呑みながら、事の成り行きを見守るしかない。居場所を見失って落ち着かない二葉の肩を抱きながら、待った。
5分ほど後、基は分厚い封書を抱えて戻ってきた。
そこで二葉は部屋の外に待たされ、優三だけが中に残った。
基と優三は向かい合ってソファに腰掛けた。
基は封書の宛名に目を通し、
「私宛ての封書がある。開けてみてもいいか。」
「もちろんです。あの人はもう、死んでしまったのですから。」
基は封を切りながら、優三を一瞥した。
「他人事のように言うね。」
「じゃあ、どうすればいいんです?夫を亡くした世間一般の妻のようになんか絶対になれないことを、所長が一番良くご存知でしょう?」
「・・・十五年も夫婦だったのに?」
「その年月以上に、私はあの男の所有物だったんですよ?今、私は真の解放に向かえる期待で胸が一杯なんです。・・・あの人の遺言が守られない以上は。」
封書の中の一通の手紙を取り出し、基は暫らくの間黙って読んでいた。
優三から言わせれば、基の方が異常だ。あれだけの惨劇を目にしたばかりだというのに、こんなにも冷静でいられる。あのウィルスのことも、どれほどわかっているのだろう。
やがて、基は封書から小切手らしきものを取り出し、優三に差し出した。
「これは、君のものだ。」
「・・・?」
「オーナーは、この研究所の権利と財産の一部を私に残してくれた。更にその一部を、私は君に渡す。これを持って、しばらく二葉を預かってくれないか。」
「え?」
思いがけないことだった。
基は言った。
「オーナーは君を実験台として刻むように遺言している。だが、それは所詮死人の戯言だ。美鈴はどうかわからないが、私はまだ君を刻むつもりはない。ただ、君を実験体として欲しがる輩に奪われることだけは許さない。君は私の試料だからだ。」
「二葉を預かって、私はどうすればよいのです?」
「私が今回の惨劇の後始末をつけ、美鈴が正常に戻るまで都会に身を潜めていて欲しいんだ。」
「都会?」
「下手な田舎に君のような絶世の美女がいてみろ。人目につきすぎるし、不自然だ。なら、人の出入りが激しくて隣近所に関心のない人間の多い都心の方がいい。これだけの金があれば二人で一年は暮らせる。一年あれば、私も何とかできる。」
「真崎の家へは、何て?」
「オーナーが封書で知らせる様だ。それでオーナーと君は、真崎家の権力でこの世から抹消される。・・・どっかの医師が死亡診断書を書き、死体のない葬式が行われるんだろう。ニュースにもなるかもな。『真崎グループ御曹司、美男美女夫婦交通事故死』なんてな。」
優三は、唇を僅かに震わせた。
「真崎優三は・・・この世のものではなくなる・・・。」
「そうだな。新しい名前を好きにつければいい。」
「二葉は?二葉はどうすれば?」
「二葉は、あまり社会から隔離しないでくれ。最後の在籍中学には、卒業までの月謝が振込み済みだそうだから、放っておいても1年後には卒業証書が来る。そしたら高校へ入学させる。できるだけ名門校に入れるよう、勉強をみてやってくれないか。」
「そしたらまた・・・実験台を見つけさせるのですね。」
「そうだ。18歳以下の生きた材料は、どうしても必要だ。」
優三は、奥歯を噛み締めた。
「こんな有様を目にしながら・・・、尚もあなたは同じ事を繰り返すのですか?」
「そうだ。こんな有様だからこそ、やはり更なる研究が必要だ。」
「そうでしょうか?私は、今回の事はすべて研究所の自業自得だと思っています。オーナーもいなくなった今こそ、手を引く時ではありませんか?」
基は、苦笑した。
「私は、真崎潤一に命じられたから研究をしているわけではない。無論、方向性などは従っていたがな。だが、私は父と同じ根っからの研究者で、この研究所も手放す気はないんだ。」
「研究を否定はしません。ただ、人の命を犠牲にする研究方針を変えて欲しいだけです。」
「人類の発展に犠牲は欠かせない。」
「それは違います!犠牲の上の発展なんて、何の価値もありません!」
基は、深いため息を吐いた。
「・・・優三。私は1年ものスパイ活動で疲れているんだ。綺麗ごとを並べ立てて私を責めるのはやめてくれないか。」
「所長!」
「そうでなければ、君にこのまま眠ってもらうまでだ。・・・永遠にね。」
優三は下唇を噛み締め、必死に基の冷たい視線に耐えた。
基は、潤一が存在している時は気弱な雇われ所長そのものに見えた。潤一の命令に嫌々従っているだけの、本当は正義を求めている人だと思っていた。なのに。
「勘違いするな。美鈴を眠らせたのは私の試料を守るためであって、君や二葉の命なんてものを救おうと思ったわけではない。」
「・・・わかりました。とりあえず、二葉のためにも大人しく従いましょう。でも1年後、私達が大人しくここへ戻るとは思わないで下さいね?」
「戻らないなら、連れ戻すまでだ。そのためのピアスじゃないのか?」
「・・・!」
「優三の受信機はオーナーが破棄している。だが、二葉の受信機は私が持っているんだ。優三は二葉を捨てるなんて事は絶対しない。二葉がいるところが、優三の居るところだ。」
そうだ。
潤一が死んでも、やはり、解放などされないのだ。
優三は、基を睨みつけた。
「所長は・・・あの人(潤一)と全然変わらない人間だったんですね。」
「それは、違うよ。」
基は、薄紫色の薄い唇で微笑を浮かべた。
「私は、オーナーとは違う。」
不気味な基の表情に、優三は思わず視線をそらせた。
基は小切手と一緒に、A4サイズの茶封筒を渡した。
「私の名で、新宿のマンションの一室を借りてある。家賃も1年間振込み済みだ。」
優三は怪訝な顔で基のを見つめた。
「随分、用意周到ですこと。・・・まさか、今回のこと、所長が全部仕組んだわけじゃ・・!?」
すると基は、小さく笑った。
「それができたら、すごいことだね。だが残念ながら流石の私もそんなことはしない。このマンションは、偶々(たまたま)二葉の新しい住処として借り上げておいたものだ。」
優三はソファから立ち上がり、基を見下ろした。
「・・・そういうことにしておきましょう。真実がどうあれ、私に拒否する権利などないのでしょうから。」
優三は部屋から出て、外で待っていた二葉の手をとった。
「私と一緒に暮らしましょう。私は、何があってもあなたを守るから。」
「ここを、出るってことですか。」
「そうよ。こんなところに居る必要はないわ。」
「・・・でも、セシリアが・・。」
「セシリアは大丈夫。所長が、どうあっても守るでしょう。彼のライフワークである冷凍睡眠の象徴なのだから。」
基は、研究所を去る二人を、軽く手を挙げて見送った。
「じゃあ、また、1年後に。」
足早に研究所を後にしようとする優三に、二葉はそれ以上話しかけることができなかった。
この白い手を信じてついていった先に、一体何が待っているのだろう。
この3年間でかき回された人生は、これからどうなってしまうのだろう。
わかっているのは、唯一つ。
セシリアがいる限り、自分は再びこの場所へ戻ってこなければならないということ。
それだけだ。
麻酔で眠る美鈴の乱れた髪を擦りながら、基は伏せ目がちに宙を見つめていた。
基が、このウィルスの正体を探りたいと思っていたのは事実だった。
遠野研究所で造られた遺伝子操作による人工児に、ウィルスの抗体がある可能性を見出し、どうしても試したかったのだ。だから、相当のリスクを覚悟で美鈴に郵送した。スパイ先の研究所でもウィルスの情報を盗むことに挑んだが、結局適わなかった。
一週間ほど前。
潜入も潮時だと悟った基は研究所を抜け出し、複雑なルートを経て日本へ帰りついた。
研究所での事態は、想定済みだった。
美鈴がウィルスの同定を完結できないことも、緊急事態が生じれば研究員達が自ら症例になろうとすることも、すべて計算の内だった。
(まさか、オーナーの死というおまけまでついてくるとは、思わなかったがな。)
これで、真崎家という眼の上のたんこぶが無くなったのだ。
この研究所のオーナーとして潤一が選ばれたときから、すべてはわかっていた。
戦時中の混乱から抜け出し、研究所創設者だった先代が隠居したばかりの真崎家にとって、研究所はリスクの高すぎる無用の産物であったことを。しかし、先代の目の黒いうちは切り捨てることができず、潤一という、本妻が使用人との間に儲けた忌わしき息子をオーナーに据えたのだということを。
真崎家の思惑とは関係なく、潤一は遠野研究所をこの上なく重宝し、利用し尽くしたが・・。
(これで真崎家は、厄介払いができたと浮かれるはずだ。研究所のすべての権利を放棄してな・・・。真崎潤一がこれからの研究に必要なだけの資産を俺に残してさえくれれば、もう真崎家の後ろ盾など不要だ。美鈴には気の毒だったが、これで凡て上手くいったんだ。これだけの症例があれば、私なら絶対にウィルスの正体を探れる。再び優秀な研究員を招き、強欲な金持ちに臓器を売りさばけば、資金に困ることなく、研究を続けることが出来る・・!)
基は、腹の底から湧き上がる笑いを、抑えることができなかった。
美鈴の目尻に残った涙の跡を見返ることもなく・・
基は再び、独り、研究所の中央に立ったのだった。