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第10話その7

 優三は扉を破るように廊下に飛び出し、2号室で意識不明の患者の処置に追われている美鈴の下へ走った。

 美鈴は優三の姿を除き窓越しに捉えると、二葉に2、3指示を出して、廊下に出てきた。

「どうしたの!?」

「彼がものすごく苦しがってて・・・。でも、こっちの患者の方が緊急なら、」

「そんなこと、私が判断するわ!」

美鈴は優三と共に潤一の下に駆けつけ、その七転八倒の苦しみを目の当たりにした。

「優三!オーナーの身体を押さえつけて!」

 美鈴が注射をしようとするが、潤一はじっとなどしていられない。

 優三は潤一を後ろから羽交い絞めにし、美鈴がその上に馬乗りになるような形で、注射を打とうと試みた。だが、潤一の抵抗力は美鈴の弱った身体を床に跳ねつけてしまうほどに激しい。

 後ろにいる優三も、暴れる潤一の肘や足で蹴られ、歯が立たない。

 殴られ、口の端から滲み出た血を手の甲で拭いながら、美鈴は薬棚からクロロホルムを取り出した。厚めのガーゼにたっぷりと染み込ませ、潤一の口元に無理やり押し付ける。

 だが、眉根をきつく寄せて悶え苦しむ潤一は、なかなか大人しくならない。

 激しい痛みが、潤一の意識を眠らせないのか。

 それとも、無意識の中で身体だけが悶絶しているのか。

 額に汗を浮かべながら、美鈴は怒鳴った。

「足をベッドに縛り付けて!」

 優三は太い包帯をベッドの足に巻きつけると、潤一の裸足の足に引っ掛けようとした。だが、顔を近づけられないほど暴れられて、上手くいかない。骨格のしっかりとした、太くて重い男の足が、優三の頬を何度も蹴り上げる。

 なのに、不思議だ。

 痛いには痛いが、苦痛ではない。

 優三の身体を何度も蹴り上げてきた、この足。

 そのたびに、痛みに泣いてきた。

 だが、それは身体的な痛みに泣いてきたわけではない。心の痛みに泣いてきたのだ。

 優三は汗だくになり、顔や腕に痣を幾つもつくりながら、何とか潤一の足を固定した。

 潤一の鼻や口にビニルパイプのような管をとりつけている美鈴の額からも、汗が吹き出している。唇から顎にかけてへばりついている血が、汗で溶け出すほどだ。

「薬棚から番号32と4のビンを取って!」

「はい!」

 その次の瞬間、潤一は再び痙攣したように身体を仰け反らせた。

 激しく首を振り、叫び声をあげている。

「優三!タオルを!!」

 美鈴はそう言いながら、潤一が舌を噛まないように顎や口元を押さえる。

 それだけでは治まらないと察知し、美鈴は自らの拳を潤一の口の中に入れた。

「・・・っ!!」

 途端に、手の甲を激しく噛まれた。

 が、ここで手を引っ込めるわけにはいかない。

 美鈴は優三の持ってきたタオルを何とか口の中に押し込むと、噛まれた手を口から取り出した。

 その傷を目にした優三は、思わずビクッとした。

 人の噛む力とは、何と強いものなのか。

 しかし美鈴は、そんなことお構い無しに再び処置を始めた。

 優三は、何も声をかけることができなかった。「大丈夫?」なんて陳腐なセリフを吐いたって、どうにもならない。むしろ、美鈴に怒鳴られそうだ。

 美鈴が正念場に立たされていること。そして、命がけで潤一を救おうとしているこの大事なときに、一体何ができるだろう?

 必死の美鈴を見つめながら、優三は目頭が熱くなるのを感じていた。

 そして、今まで決して感じたことの無い憐れみの情が胸にこみ上げてくるのを抑えられなかった。

 もう、いいではないか。

 これで、潤一も美鈴も、十分に痛い目にあったではないか。

 これ以上、二人が苦しむ姿など見たくない。

 誰かが犠牲になるのを、見たくなどない。

 潤一の死をずっと願っていた。死ななければ、解放されないと思っていたからだ。

 だが、人の死とは、誰かが願うとか望むとか、そんなものとは無縁でなければならない。

 人の命を弄ぶ研究所をずっと忌み嫌ってきた。そんな自分が、一人の人間の死を望むということは、研究所を責める資格を失うということだ。

 出生がどうあれ、優三は人から後ろ指を指されるような生き方はしてこなかった。それが優三の誇りだった。そのたった一つの支えを、失いたくはない。

 優三は祈った。

 潤一が助かって、美鈴と二人で生きていかれるように。

 冷凍睡眠のセシリアを目覚めさせ、二度と拉致をしないと誓い、研究から身を引いてくれれば、優三はもう何も望まない。それ以上の償いをしろとは、言わない。

 多くの犠牲となった魂への償いは、優三が望むものではなく、潤一と美鈴が二人で考え、実行していくべきものだ。

(だから神様・・・。どうか一刻も早い平穏の訪れを。こんな理不尽な状況から私達を解放してください。どうか・・・!)

 その刹那。

 潤一の地獄のような叫びが、病室中に響き渡った。

 激しい筋肉の収縮で、潤一の顎が砕けたのである。

 美鈴は絶望的な息遣いで、潤一の手を握り締めていた。

 優三は、潤一の下に駆け寄った。

 注射器を準備する美鈴の傍らで、優三は叫んだ。

「こんなところで死んだら許さない!あなたを必要としている人がいる限り、死ぬなんて許さない!」

 その思いがけない言葉に、美鈴は一瞬、手を止めた。

「これからは、美鈴さんと一緒に生きていけばいい!いつも勝手で、残忍で、私が大嫌いなあなただけど、この世に一人でもあなたを必要としている人がいる限り、生きなきゃいけない!自分の思い通りにならないことなんか無いんでしょう!?そう言って風を切って歩いてきたんでしょう!?」

 潤一の腕が、苦しみで暴れまくる。その腕を必死に抱きかかえ、優三は泣き叫んだ。

「こんなところで息絶えるなんて自業自得よ!自分の研究所で研究対象のウィルスに殺されるなんて間抜けよ!そんな馬鹿馬鹿しいこと、あなたは大嫌いでしょう!?悔しいでしょう!?その強靭な生命力で、もう一度立ち上がって、私を見下ろしてみなさいよ!!」

 何かの機械から聞こえてくる小刻みな電子音の間隔が、段々狭まってくる。

 美鈴の息が荒くなる。

 優三の心臓を打つ音が、どんどん早くなっていく。

 時計の針の動きさえ、早まり始めたようだ。

 天井と床とが、逆になろうとしている。

 空気が、歪み始める。

 体温と気温の境が消えかかっている。

 すべてのものが、限界に達しようとしている。

 

 次の瞬間。


 電子音は、間隔毎に打つことを止め、一定レベルの連続音へと変わった。


 優三がつかんだ太い腕は、すべての力を無くし、ただ、重力に引かれている。


 それは、すべての慌ただしさが一瞬にして治まった瞬間だった。

 

 美鈴は細い唇をきりりと引き締め宙を睨みつけていたが、やがて黙ったまま、別の病室へと去っていった。

 

 優三は、死んだ潤一の傍らで、その腕を抱えたまま動けなくなっていた。

 

 放心状態にある優三の耳に光っていた紅蓮のピアス −

− 潤一の所有物である証のガラス細工は、いつしか紅い砂となって、無菌の風に舞い、散った


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